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善とか悪で測れない

 

私にしか伝えられないことがあるとしましたら、いったいそれは何でありましょうか。

たった一つ、これだけは自信をもって言えるかもしれません。

 

世界中にどれほど多くの人がいたとしても、私自身が歩んで来ました道は、私以外に語れる人はいないのではないでしょうか。

数え切れないぐらい間違いをおかして来ましたが、それでも何とか今日まで生きて来られたのです。

 

それこそたくさんの人たちの援助と宇宙のサポートを受けまして、どうにか無事に乗り越えて参りました。

仮に、もう一度人生をやり直せるチャンスがあったとしましたら、果たして同じような道を自分は選択しますでしょうか。

 

おそらくは、今生とは別の道を選ぶような気がします。

これまで人生を貫く明確な目的に沿って歩むという生き方からは程遠い、成り行き任せで過ごして来たように思うのです。

 

ですから、一つ一つの選択において違った考えや見方でもって対処しますに相違ないのです。

それは正しいとか正しくないとかで測れるものではありません。ある意味では、どれもが全部正解なのですから。

 

 

夢中になって話す

 

私がいつまでも夢中になって話せますことがあるとすれば、それは何なのでしょうか。

そもそも、そのようなものが自分にあるのだろうかと少々心細くなってしまいました。

 

我を忘れて没頭できますことは何かと考えてみますに、これはと浮かんで来るものがありませんでした。

果たして人に、これこれですと伝えられますものは自分にあるのかどうか、まさにこれまでの生き方が問われる瞬間であります。

 

人に伝えられるような立派な人生を、はじめから決めて歩んで来たわけではありませんから、結果としてどうだったのかです。

結局のところ大事なのは人に対してよりも、自分にとって悔いなく生きて来られたのか、そしてこれからどう生きて行くのかであります。

 

はっきり申せば死の直前に、やり残したことはなく十分にやり尽くしましたと、自分自身に言えるのかがもっとも大切だと思うに至りました。

いえ死ぬまで待つ必要はなくて、今日という日を心おきなく生きているのかどうか、生きたのかどうかなのです。

 

夢中になって話せますのは趣味などの類いではなく、生き方についてのような気がします。

 

 

意識して選択する

 

自分の人生は自分が創るものですから、どのような人生を生きたいのかをしっかりと描く必要があります。

それを怠った場合には望ましくない人生を、無意識に選択していることになります。

 

自分が創造しましたシナリオであるにもかかわらず、人生は思い通りにならないと嘆き悲しんでいるのです。

被害者意識にとらわれましたり、過酷な状況に翻弄されるという事態を招いたりするのです。

 

元々は自分が創り上げました困難や障害でありますのに、まったく気づいていないのです。

自らこしらえ、はまりました落とし穴から抜け出しますには、どうすればいいのでしょうか。

 

日々の生活におきまして、何から何までを意識して選択するようにします。

いつも最善を選ぶように意識していますと、間違った選択をしたときには、すぐにそれを認めることができます。

 

人生は決して自分に敵対するものではなくて、自分の意思が反映されていただけであったことに気づけるのです。

ここに至って、ようやく自分を信頼できる足場ができました。自分を敬い、賞賛し感謝する日も近いように思います。

 

 

人生の課題

 

自分がそうであるように、人には人生で学ぶべき課題となっているものは、少なくとも1つはあるような気がします。

それが何であるのかは、なかなかわからないものです。

 

何度も同じような状況におちいって、立ち往生するうちに、ようやく自分の置かれる立場がいつも同じであることに気づくものです。

なぜ、いつもこうであるのか?と。

 

例えば以前に、何の理由も見当たらないのにイライラしていて、ちょっとでも思うように行かないと腹を立て悪態をついている自分に気づくことが度々ありました。

思い返すと、そんなことが過去にも頻繁にあったことを知って唖然としました。

 

いても立ってもいられない心境で「これはいったい、どういうことなのだろうか」「なぜ自分はイライラしているのだろうか」と真剣に考え込んでいました。

しかし結局、その理由がよくわからずに、そのときはそのままやり過ごしてしまいました。

 

その後、その理由らしいことを見つけて納得した記憶があります。その内容を思い出そうとするのですが、それが浮かんで来ないのです。

もともと人間は心に満たされぬものを持って生まれ出た、という意味のことだったように思います。

 

自分にとって、満たされずにイライラの原因となっているものが何であるのか、ようやくわかりかけて来ました。

物心ついてからこれまで、家族も含めて人に心から信頼を寄せるということが自分には皆無であったことです。

 

そのことがわかっただけで、それ以降はずいぶんと救われました。問題がはっきりしただけで、半分以上は片づいたのも同然だからです。

どんな不信にかられるようなことがあっても、多少の動揺はするものの、すぐさま静まっていくのです。

 

また、イラつくことが完全になくなったわけではありませんが、人をさんざん裁いて来た自分には、戻れなくなっていました。

課題がわかったので、あとは焦らずじっくりと、その課題と付き合って行けばいいのだと思いました。

 

 

人生の役目

 

もし人に数多くの人生というものがあるとすれば、その中のひとつに過ぎない、いまの人生をどのようにとらえて行けばいいのでしょうか。

そもそも自分が望んだわけでもないのに、なぜ人間は人生というものが与えられているのでしょうか。

すぐ出てくる答えは、さまざまな体験を通して学んでいくための舞台として人生があるということです。

 

もう二度とおなじ辛い思いをしなくて済むように、自分のおかした間違いや失敗から何か学び取ろうと、努力するのが人間ではないかと思います。

少しでも「ましな生活」をしようと、少しは「まともな人間」になろうとして、なんとか知恵を働かせるものだと思うのです。

 

みずから進んで学ぶというよりは、どちらかといえば、学んで行かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのです。

何も学ぼうとしない、ずっと学ばない選択をする人も中にはいますが、敢えてそのように振る舞っているだけで、そういう人はいずれ大きな代償を払ってでも学ぶことになるのです。

 

この学び続けるという選択は、簡単なことのようで非常に難しいことがわかってきます。

いったい何を学び、どのように学んで、それをどう活かして行ったらいいのかという問題です。

学んだつもりだったのに、結局何も学んでいなかったと気づかされることが何度あったことでしょうか。

 

人生でたったひとつのことでいいから、それに関しては十二分に学べたと胸を張れるほどに、学び尽くしたいものです。

ひとつのことを浅く学んで終わりにするのか、または、ひとつのことからどれだけ深く学びとおすのか、そのことを学ばせるのも人生の役目のような気がします。

 

そして、人にはそれぞれ、その人生で掘り下げていくべきテーマというものがあるようです。

それが何であるのかは重要なことですが、人生を歩んでいくうちに何となくわかってくるもののようです。

 

 

決断のとき

 

人はときとして新たな体験をめざし、住み慣れた地から出ていくように促す、抗しがたい衝動にかられるものです。

そこに考える余地はまったくなくて、ただ「行かなくては」という思いに突き動かされるのです。

 

思えば、ある意味で快適で便利だった東京での生活を捨てて、何の当てもなく見知らぬ土地に家族ぐるみで足を踏み入れたのは、いまから26年前でした。

それは、生まれ育った故郷より単身で東京に出て来てから、10年目にしての更なる転身でした。

 

確かに以前の地にいては有りえなかった、人々との出会いや数々の体験があって、より成長できたこと、それによっていまの自分があること、そう思うと感謝せずにおれません。

二度の節目での決断は、それぞれ間違ってはいなかったのです。

あの当時の自分は、先でどんな結果が待っていようとも、とにかく前進するしかほかになかったというのが正直なところです。

 

山田洋次監督の「家族」を見終わってから、以上のような思いが一気にかけめぐったのです。

この映画では長崎県の伊王島から、はるばる北海道の根室にたどり着きます。

 

人はどんな困難や苦労もいとわず、新天地をもとめて第一歩を踏み出さずにはおれない宿命かもしれません。

これは「あらかじめ入念に計画を練って、あらゆる想定を考え抜き、万全な準備を整えてから」というような、石橋を叩いて渡るものではないのです。

 

その決断するときというのは、どちらかといえば、イチかバチかの勝負にのぞむような心境で、もうあとがない瀬戸際に自分は立つのです。

自分を信じるか否か、有無を言わさず自分を試すときです。

どうも人間には人生の節々で決断し、それを超えて行く必要があるように思います。

 

 

信頼を寄せる

 

歩んだ人生の価値は「自分をどれだけ信じられたか」で、はかられるという言葉を思い出します。

何をしようが、また何を考えどんなことを思おうが、そうしている本体の自分自身そのものは、疑う余地のないものであること。

このことをつい忘れてしまいます。

 

やったことや考えたこと、思ったことが何であれ、またどのような結果が出てこようとも、そうしたことすべてはいずれ、自分から去って行くものです。

そうした消え行くものと、去ることのない自分そのものとを、混同してはならないということです。

 

良いことを考えてみたり、良く思うに越したことはありませんが、最終的な価値をはかられるのは、自分自身をどう扱ってきたか、どれだけ自分を信じてきたのか、どれほどの信頼を自分に与えてきたかです。

 

おのずと自信があふれ出してくるほどに、無条件に自分自身を信じきってきただろうか。

そう問われて、ただただ黙するしかない自分に気づかされます。

自分がどんなへまなことをやり、どんなつまらないことをしてきたとしても、自分自身の価値とくらべれば、そんなことは大したことではなかったのです。

 

おおもとの自分自身に対して全幅の信頼を置くことと、信じていることを自分自身に、態度で示すなりして伝えつづける必要があるのです。

それぐらいしないと、なかなか自信はうちに育たないものです。

 

人生という荒波を乗り越えて行くためには、自分に何が必要かというと、一にも二にも「自信を持つこと」に尽きるといいます。

 

別に自信がなくても何かうまく出来さえすれば、自信がついてくるものだと思われていますが、これは大きな間違いです。

成功するまでは自信なんか持てないよと言っている人は、おそらく永久に自信は持てないでしょう。

自信がないのに、どうやって成功するつもりなのでしょうか。

自分に自信があるからこそ、成功するチャンスをものにできるのですから。

 

ともかくも自信が持てることに焦点をあてて、考え行動していけばいいということになります。

まず、こんりんざい自分を悪く言うのをやめることです。

これからは自分に絶大なる信頼を寄せることだけを考え、そのことを最優先に行動していくということです。

 

 

自分に帰る

 

ヘルマン・ヘッセの小説「デミアン」は、「自分に帰れ」ということを伝えたかったのだと思いますが、なぜ自分に帰る必要があるのか、考えてみたいと思います。

 

「デミアン」が書かれた年代では、第一次世界大戦が起こっています。

戦争というものは、いままで生きてきた世界が崩壊したようなショックを人々に与えるのではないでしょうか。

 

著者は、基盤にしていた現実の世界が目の前で崩れ去り、その世界をより所にしていた自分とは、いったい何だったのかという内面の叫びで、何か大きな間違いを自分がして来たことに、はじめて気づかされたのではないかと思うのです。

そして長い神経症とその治癒の解明をへて、人間の本質へとつながる自己探求の道に、活路を見出すことになります。

 

この本で、もうひとつ感銘をうけたのは、主人公ジンクレールにさまざまな指南を与えつづけたデミアンという人物は、実はジンクレール自身であったということです。

自己を導いてくれるのは、自己自身しかいない、という最後のメッセージはとくに印象深いものでした。

 

他にも教えられることが、この本にはたくさんありますが、ここまでで学んだことをまとめてみました。

人間として生まれてきたのは、人生という航海をとおして自分自身に、少しでも近づけるように努力するためであり、人間が人間に完全になることが最終的な目標であるということです。

 

自分が帰るべきところは、自分自身にしかないことを心にきざんで、百パーセント自分自身になることをいつも意識して、これからの半生を生きていくことが大切だということです。