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可能性に挑む

 

人間はひとりで生きられないと言われますと、自分には何か欠陥があって限界があるように思ってしまいます。そこから見直していかなければなりません。

 

ひとりで生きる必要はまったくなくて、それにみんなで一つなのだと認めれば何も問題はないことがわかります。

自分を制限します思い込みを何もかも手放して、新たな可能性に挑むときのようです。

 

元々一番知りたいと思っていますのが、自分は何者であって、どんな役割を担うために生まれて来たのかです。

それについて少しのあいだ考えてみましても答えは出てきませんので、もうそれ以上は考えようとしませんでした。

あるいは適当なところで考えを打ち切ってしまい、根本的な問いかけを忘れ去ろうとして来たのです。

 

ですから何かの拍子にその問いが頭をもたげて来て、その度に大事な何かを思い出そうとするのでした。

本などで、あなたにはこういう使命がありますというような文言を目にしますと、すぐ自分もそうかもしれないと真に受けたことが幾度もありました。

どうしても、それに関連しました内容に引きつけられてしまうのでした。

 

今を生きていますこの時代で、すべてが地球的規模で大きく変わろうとしていますのを感じます。

琴線に触れるものに出会いますのも、この時期でしかないように思われるのです。そうしたサインを見逃さないように過ごしています。

 

 

自分と取り組む

 

抗しがたい宿命的な要素を数多く意識の面で、あるいは細胞レベルにおいて背負っていますのは重々承知しております。

にもかかわらず、この小さき自分としましては、内側から発せられます何らかの意図をできるだけ明確にとらえまして、

それを日常の心構えとして持ち続けられましたら、いまとはまた違った生活が展開して行きますような気がするのです

 

いかにして内なる声を聞き取り、その通りに実行しますのかが重要になって来ます。

その声は、よほどのことがない限り向こうからやって来ることはなく、こちらから投げかけた内容に対して、返答に相当しますものが返ってくるだけなのです。

 

いま抱えています問いは、みんなの幸せを考え、全体の幸福を祈願し続けますには、どのようであればいいのかです。

そして最終的には、ほんとうの自分と常時つながるという意図があります。

なぜ、全体の幸福を求めるのでしょうか。それが真の自分の願いでありまして、いまの世界はみんなが幸福ではないからです。

 

それでは、自分はどうありましたらいいのでしょうか。みんなの幸せだけを願い、無私無欲で、いま出来ます事柄を全身全霊でやりますのに尽きるようなのです。

①望みだけを描き続け、②私利私欲を捨てて、③やるべきことに集中いたすことです。

 

 

害を与えない選択

 

周りの人や自分自身に有形無形の害を与えていますのは、個別の意識のときだと思います。

車を運転中、ゆっくり前を走っている車にイライラしますのも、無理に横から入って来た車に腹を立てたりしますのも、自分が個別意識の状態にあるときです。

 

もっとも普段の生活では100%近く、この意識で過ごして来ましたから、取り立てて指摘するまでもないのかもしれません。

ただ問題として、この意識があまりに強く作用し過ぎまして個人的な面で、あるいは社会の様々なところでトラブルが発生していますのが現実だという点です。

 

成長初期の段階においては、自己を確立しますために他者というものを識別し分離する必要上、個別意識に頼るほかはなかったのでしょう。

幼少の頃からそのようにして育ち、大人になったわけです。

 

そして今度は再び、自我という枠組みを取っ払って行きまして全体の中の一部に帰るべく、全体の意識を取り戻して行くときを迎えていますように思います。

その手始めとしまして、相手や自分にいかなる害も与えない生き方を、意識して選択するように決めたのです。

 

なるべく個別意識から離れて自他の区別を薄めて行き、一体感を思い出すようにします。

例えば、自然に触れる機会を持ったり、ぼんやりとしてでも地球規模のことを思ったりしてみるのです。

 

 

純粋な願い

 

人より勝ろうとする欲が、自分の中にありますのを認め、それを把握しておかなければなりません。

どうして、みんなの幸せだけを考えることができないのでしょうか。

 

長年の習性として自我の欲望にかられますのが、ごく当たり前になっているからだと思います。

放っておきますと、自分にとって何をさておいても、この自我が満たされるのが最優先なのです。

 

なぜ、こうした個人的な意思から離れなければいけないのでしょうか。それは、みんなのことに目を向けますのを困難にしているからでありましょう。

個人的な好みやこだわり、願望にとらわれている限り、どんな客観的な真実も見えて来ないからではないでしょうか。

 

もっとも願望に関しては、自分を利する願いと純粋な願いとを区別して行く必要はありそうです。

ほんとうの自分とのつながりを持ちますには、どうしたらいいのでしょうか。

 

自分を賢く見せたい、格好が良く少しでも若く見せたい、人より偉くなりたい、もっと稼ぎたいなどの欲望は、全てとらわれでありますのがはっきりと理解できるかどうかです。

そして、それらを手放して行くと自分に約束できるかどうかであります。

 

カチンと来たり言い争ったりしますのは、自分を少しも信頼せず、そうした自我の言いなりになっていますからです。

自我が語りかけてくる言葉をことごとく放棄して行けますように。

 

 

世界観を見直す

 

卓越した人というのは、この現実世界が仮の姿を映し出しているに過ぎぬこと、私たちが本質的にひとつの生命体でありますのを見抜いておられるのでしょう。

ですから、あらゆるものに執着する理由もなくなったのではないでしょうか。

 

社会が変わるには人間が変わらなければなりません。それには自分がいかに変わらなければならないのかを熟知するに至ったのだと思います。

それからというもの全身全霊で自分に取り組まれて、いま、まさにその途上におられるわけです。

 

自分が変わるとは、どういう意味でしょうか。

ひとつには、これまでの世界に対する見方や考え方を徹底して見直し、自分の本質からかけ離れた個人的なことはすべて破棄されて行かれたのでしょう。

もし仮に人から身に覚えのない仕打ちを受けたとしましても、やり返そうとしたり反駁したりするのではなく、その人がどのような意図を持って行ったのかを知ろうとするのです。

 

その上で受け流すか、あるいは何らかの対処が必要としましたら、効果的なやり方で善処されますでしょう。

どんな動機で人は行動しがちなのかを知り尽くし、行動パターンも見えていますので、前もって手を打ちますのも容易でありましょう。

 

自分本位の人の動機は、ほとんどが他者からの攻撃に対する恐れによるもので、衝動的な行動や防衛反応としての行動に終始しています。

自己本位の考え方を改めない限り、自ら作り上げました罠から抜け出せないのに気づかなければなりません。

 

 

みんなの幸せ

 

今の社会は私利私欲を、最優先にしますのが主流になっているように思います。

誰もが幸せであるとは言いがたい状況にありまして、ことの本質は非常に見えにくくなっています。

 

この閉塞しました状態を打開しますには、みんなの幸せを第一に考えます生き方が、人々の 間にどれだけ浸透して行くかにかかっていると言えます。

その生き方が自己を救済する唯一の道でもありますことを、どうしましたら理解できるのでしょうか。

 

人の苦しみは、自分の苦しみでありますことを、どのようにしたらわかるのでしょうか。

自分と他人という枠をどうしましたら、はずせるのでありましょうか。

まずは、自分とは何であるかを明確につかんでおかなければならないでしょう。

 

なぜ、霊的に進化しました人は個人的な意志を持たずに、全体への奉仕に余念がないのでしょうか。

自分は何であって、何のために生まれてきたのかをはっきりと自覚していますのは明らかです。

 

だからこそ、一切の迷いもなく一途に正しいと信じる道を堅実に歩むことが可能なのでしょう。

そこへ至るまでに、どのようなプロセスを踏まれて来られたのでしょうか。一足飛びに進化されたとは、とても思えません。

 

何をどのようにして考え抜き、どんな修行をどのように積まれましたのか。

見習って行けるかどうかは、その点をどこまで理解できるかどうかによると思われます。

 

 

全肯定の選択

 

自分とは何かにこだわっていましたのは、何か自分が特別な任務を背負っているかのように思っていたからでした。

と言いますのは、本質的には他の人たちと異なるものではないと認めてみますと、自分が何者であるかに執着する理由がなくなっていますのに気がついたのです。

 

ありのままの自分を素直に受け入れられまして、思うところに従いまして生きて行けそうなのです。

ずっと問い詰めていました重圧が取れましたような身軽さを感じています。

これまでやって来たことに間違いはなかったという肯定感に包まれまして、今やっていますこともベストな選択でありますのがわかるのです。

 

何を選びましても、最終的な目的地にたどり着く道を歩んでいますのに変わりがないのです。

悩んだりあせったりする必要はまったくなく、失敗を恐れます根拠もいっさい見あたらなくなりました。

これまで問題と見なしていました、どんな事態も全て善なるものであったのがわかります。

 

そうした出来事のどれひとつでも欠けていましたら、今の自分はあり得なかったのですから、全部が正解の連続であったと言えます。

これから行いますのも、好ましい物事しか考えられません。

どれもが正しいのですから、よりワクワクするようなこと、自分に一番マッチしそうなものを選ぶだけでよいのです。

間違いや後悔する場合がなくなり、そこにありますのは信頼です。

 

 

体験者と観察者

 

自分自身の本質とは、何でしょうか。

いまの自分は、いつも選択に迷っていたり間違いをおかしたりしまして、完璧には程遠い生き方をしています。

また、思い通りにいかないと落ち込んでみたり、たまに良いことがありますと喜んだりしているのです。

 

しかし、迷い落ち込んでいますのは、ほんとうに自分なのでしょうか。いったい誰が迷い、落ち込むと言うのでしょうか。

実は、自分自身といいますのは本質的に完全でありますので、自分と思えます架空の分身を仕立て上げたのです。

その者が間違ったり、悩んだりしていると考えられます。

 

本来は、第三者的に眺めていますだけだったのですが、直接に体験したくなって来たのであります。

それでその者と一体になりきりまして、自分があたかも間違ったり喜んだりしていると思い込むように、振る舞って来たのです。

 

例えば、失敗や成功というものを体験するには、まず不完全な状態になりまして味わう必要がありました。

完璧なままでいましたら、失敗しますこともなければ、成功とはどういうものかもわからなかったからです。

そして、そうしたことを続けて行きますうちに、自分の本質が何だったのか、わからなくなってしまいました。

 

それでも本質を失ったわけではありませんので、ときに無意識に感じ取りましたり、突き動かされましたりします。

十分に体験し尽くしましたなら、そこから離れる術を学んで行かなければなりません。

ほんとうの自分とは限界のない無限の存在でありますことを思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。