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成熟した人間

 

「臨死 そして与えられた二度目の人生」を読んでいます。

どれだけ努力して欲望が満たされましょうとも、それらは全くと言って良いほど価値はなく重要でもなかったのに気づきます。

 

人生を終えた後で心から喜べますのは、どれだけの愛を周りに与え尽くしたのかという一点であったのです。

特に人間関係におきまして、どれほど愛し合うことができたのかという問いに躊躇せず答えられますかどうかなのです。

 

実際には愛するよりも、愛され認められることに夢中になって、人を傷つけて来ましたのが大半でありました。

今こそ、これまで気づかずに恩恵を受けていました、真実の愛を思い起こさなければなりません。

 

人々の思いにもっと目を向けて行くべきで、忍耐や寛容さ、誠実さを備えました人になって行かなくてはならないのです。

それは成熟した人間へと成長して行く決意をし、実践しますことでもあります。

 

 

危険な道

 

再度、岡本太郎氏の「自分の中に毒を持て」を読んでいまして、次の言葉が目に飛び込んで参りました。

 

『危険な道をとる』

いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。

死に対面する以外の生はない。

ぼくの…ポジションはその決意の実践だった…

 

安全な道をとり続けるか、あるいは危険な道をとるかを決断し、自ら誓うまでに自分を追い込まなければならないのでした。

そして決意しましたからには当然、それを実践しますことが求められます。

 

意識して選択しますときには自分の心に従い、敢えて危険な道をとってきました。

しかし、常にそうではありませんでした。まだまだ安全な道を選びます方が多かったように思います。

 

些細なことばかりでしたが、これまで決意し誓いました約束事はその後、間違いなく実践できていました。

何が問題かが、かなり見えてきましたように思います。

 

 

地球家族の一員

 

なぜ、人生においても自分の守備範囲を、ここまでと決めてかかっていたのでしょうか。

所有しているところか、そうでないかで分け、自分のものだけに関心があったからではないでしょうか。

 

所有物という観点から自分の居住地内に限定して、その中においてのみ責任を取ればいいと思っていたのです。

ですから、この範囲以外の場所でゴミが落ちていても知らないで通すことができたのです。

 

すべてを自分事とは思わず、狭い自己に固執している生き方が根強く残っていました。

自分や自分の家族さえ良ければ、それでいいという利己主義に染まっていることを改めて思い知るのです。

 

自分と他人という枠で見るのではなく、みんな家族なのだと思うには、どうすればいいのでしょうか。

特に好きになれない人や自分に反感を持っている人をも、大事な家族の一員だと思えますには、どうしたらいいでしょうか。

 

地球家族と思えるまでは利他愛の実践も難しく、心に巣くっています利己主義もなくならないような気がします。

 

 

思考の舵取り

 

これまで人と争ったり事故に出合ったりしましたのは、背後にいます邪(よこしま)な霊が仕向けたり呼び寄せたりしました結果であるかも知れません。

その当時を振り返ってみますと、そうとしか思えないのです。

そのときの争う直前の自分はもう自分でなくなって、別の何者かが乗り移ったかのようでありました。

 

あるいは自分の奥に潜んでいました、邪な部分が全面に踊り出た可能性もあります。

いずれにしましても自分であって自分でない、そういう心境であったのは間違いないようです。

 

その頃は何かしら心も乱れていたようで、それが災いを招いたのだと思います。

今のように地に足を着けた状態を維持していますと、邪な霊につけ込む隙を与えていないのがわかっています。

 

普段から霊主肉従の努力をしていませんと、悪霊たちに引っかかってしまいます。

常に思念の舵取りを意識し、人々の幸せを願う心で満たすことであります。

 

 

学びと実践

 

スピリチュアリズムの思想について取り上げましても、とても奥が深くて理解しますには相当の年月をかけて学び通さなくてはなりません。

そこで得た知識を実際に実践して行く過程で、はじめて霊的真理への理解の端緒がつかめて来るのです。

 

まず霊的にはまったく無知な状態であることを自覚し、人間および社会が抱える諸問題を霊的な観点でとらえる練習を積んで行かなくてはなりません。

物質欲を満たすことや自己本位の考え方を改めない限り、真の平安と幸せは決して得られないのを率直に受け入れる必要があります。

 

地上人生の目的や死後の世界について知った以上は、知らぬ存ぜぬで、これまでの生き方のままでは済まされなくなりました。

魂が求めます霊的成長に取りましては、喜ばしい状況を迎えたと言えます。

 

 

 

 

毎日、実践の場

 

自分に対して、こんな疑問が湧きました。唯一の霊的成長をめざして実践しているでしょうか。

それで霊的成長とは何なのかを、改めて考えるようになりました。正直なところ、まだまだわかっていないのが実情であります。

 

それでも一つだけ浮かんで来ました。実践しますことで確実に霊的な成長につながりますのが、利他愛という行為です。

しかし知っているだけでは、どうしょうもないのにも気づきます。これをどのように実践して行きますかが、いまの課題でありました。

 

利他愛を生かせます場をまず見つけます、そう意図することから始まるのだと知るのです。

自分は何も求めずに相手に与えることだけを求めますが、そのように行うと意図するのは、何もしないときよりも違って来るのは確かだと思います。

 

また人と一緒でなくても、自分一人のときでもできます何かがあるはずです。

例えば、出会った人を思い浮かべて、その人が一層の幸せを喜んでいます姿を思い描き、祝福のメッセージを送れます。

 

 

知っていることと実際やってみること

この知っていることと、やってみることの違いは、いろんな場面で言えるように思いました。

YOUTUBEにある動画を見たり、アップロードする方法は知っていても実際に動画を自分で撮りアップロードしてはじめて、その面白みもわかったのです。

 

これは単にノウハウを知っている場合と、それを実地にやってみた場合とでは受ける印象も自分の成長度も天と地ほどの違いがあるのと同じでした。

知ってる段階だけでは、まだそのものの価値はわかっていず自分の身にもなっていない状態で、次のやってみる段階に踏み込む必要があります。

 

失敗したり痛い目にあって、その難しさや深さを知り手応えを感じてそのものの価値も実感できたりするものです。

私もはじめてネットビジネスに出合ってから、いろいろと調べてやり方や成功した人の話を聞いたりして、稼げることを知りました。

 

しかし実際に時間と労力とお金を費やしてやってみると、当初の見方や知識の浅かったことがわかり、どうすればいいのかを少しずつ理解し始めたところです。

 

 

自分の持っている能力を活かす

なぜ人に教えることがそれほど重要なのか?自分の知識や能力を人に伝え教えることの意味について認識を深めることでした。

まず可能な限り情報を公開してサイトにアップしていくことから始めてみることです。

 

教えることを念頭に学ぶということ、つまりアウトプット前提でインプットすることなので、得られる情報の質が格段に上がって行きます。

こうした人に教え伝えることのマインドや具体的なスキルを身に付けて行くことになります。

 

そして実践をどのようにやって行くのか、また分野を何にするかです。今後どうやってモノの価値を伝えて行くかが最大のテーマとなって来ます。