「学び」タグアーカイブ

学びと実践

 

スピリチュアリズムの思想について取り上げましても、とても奥が深くて理解しますには相当の年月をかけて学び通さなくてはなりません。

そこで得た知識を実際に実践して行く過程で、はじめて霊的真理への理解の端緒がつかめて来るのです。

 

まず霊的にはまったく無知な状態であることを自覚し、人間および社会が抱える諸問題を霊的な観点でとらえる練習を積んで行かなくてはなりません。

物質欲を満たすことや自己本位の考え方を改めない限り、真の平安と幸せは決して得られないのを率直に受け入れる必要があります。

 

地上人生の目的や死後の世界について知った以上は、知らぬ存ぜぬで、これまでの生き方のままでは済まされなくなりました。

魂が求めます霊的成長に取りましては、喜ばしい状況を迎えたと言えます。

 

 

 

 

二元性の世界

 

この地上世界は、ものの善悪や寒暖、光と闇などの二元性を体験するには絶好の場だと言えます。

それに加えまして、一定範囲内での自由意志が行使できる世界でもあります。

 

否応なく、道理にかなうとはどういうことなのか、光がないとはどういう意味なのかが学べます。

愛と恐れについても骨身にしみるほどに味わうことができます。戦争の悲惨さや平和の有り難みが痛いほど、わかる世界にいます。

 

道を誤ったり間違いや失敗をおかしたりして、悪戦苦闘の日々を過ごすこともあります。

そうした中で、もしいかなる希望も見出し得ないとしましたなら、自暴自棄におちいっても仕方がない面もあります。

 

人間が霊的に成長する上で、これらすべてはどのように役立っていると言うのでしょうか。

死後も生命が存続しますからこそ、どんな困窮にも耐え得る力も湧いて来るように思うのです。

 

 

人間の本質をたどる

 

人類や宇宙を創り上げました創造主、大霊は愛だとも言われ、その分霊であります私たちも愛からできていると言われます。

しかし実際のところ恐怖心は嫌と言うほど味わって来ましたが、真の愛についてはほとんど何もわかっていないのが現状です。

 

ですから人間の本質をどこまでもたどって行きましたら、その愛の一端に迫れるような気がするのです。

一方では、愛というものがいかに尊く素晴らしいものであるかを知るために、対極であります恐れに満ちた体験から多くを学ばなければならなかったのでした。

 

いったい、恐れから何を学んで来たのでしょうか。

避けようとしたり逃げたりしましても無駄だと知り、勇気を出して恐れているものと向き合うことです。

なぜ恐れているのか、その究極の原因を直視することです。

 

決して一人ぼっちではなくて常に見守られており、揺るがずに信頼すること、などが上げられます。

これらを今なお学んでいるところです。

 

経験からの学び

 

魂からの語りかけは感情と思考、経験を通じて絶えずあったのですが、それらに耳を傾けて来なかったのではないかという指摘でした。

確かに気づかないで無視して来ましたのは、全面的に認めます。せっかく経験した内容を、自覚さえしていない場合も多々あったように思います。

 

本気になって経験から学んでいましたら、より高い境地に立って物事に対処できていましたに違いありません。

例えばいま、いろいろな制約の下で生きております。ここからどのようなメッセージをくみ取ればいいのでしょうか。

 

そう簡単には思い通りに事が運ばないというのは、裏を解せばもっと深く考える機会を与えてくれていると思えます。

違った角度からの思考を促すメッセージと受け取れます。あきらめずに、どれだけの強い意志を持って臨んでいるのかを試されているのかもしれません。

 

それでは自分が完璧ではないという体験を通して、学べます点はどんなものがあるでしょうか。

まず、限られた範囲の知識と思考パターンの中で、どのような最大限の成果が得られるかを考えて行けばいいと言えます。

 

次に、その成果を得るためにはどうすればいいのか、持てる知識を総動員しまして実行項目を練り上げます。

そして、その中ですぐ取りかかれるものから順に実践します。もしも成果が得られなかったときには、最初からやり直してみます。

 

以上のように考えてみましただけでも、経験から学べるものは実に多いというのがわかります。 ※参照「神との対話1」

 

 

体験から学ぶ

 

いわゆる闇に対しまして、どのように対処していけばいいのでしょうか。

光だけを受け入れて闇には断固として拒絶すれば、それですむのでしょうか。なぜ闇と称せられるものが存在するのでしょうか。

 

この世の中に無駄なものは何ひとつないと考えますと、闇にも何か重要な役割がありますように思われます。

諸々の誘惑に負けましたり退廃的な行動に走ってしまったりしますのも、その根となる怠惰な性質が自分の内にもあったからです。

そのことに気づけましたのも、引き金となります魔の力に出会ったからです。

 

これではいけないと思って強くあろうと努力し、自分の身を立て直す方向に行かせるきっかけを与えてくれたのです。

あるいは、そのままズルズルと深みにはまってしまって、頭をガツンとやられるまで気づかない場合もあります。

いずれにしましても、学びがそこに生まれるわけです。

 

闇と呼ばれますものの中には、様々な試練を人間に与えますことで、向上しようという意欲を呼び覚ます役目になっています。

それに関連しまして、下降があってはじめて上昇が生まれるという構図もあります。

 

成長しますには、それを阻む要因を必要とするのです。不幸な体験を経ましたからこそ、幸福の有り難みを実感できるのと同じです。

夜の明けない朝はないと言われますように、仮にどんな逆境に見舞われましても、いつかは去って行くものであって耐える力を養うときであります。

 

 

かけがえのなさ

 

今朝、気づいたのですが、車を運転中に愛を意識していますだけでも十分に、周りを配慮した慎重な運転をやっておりました。

向こうから車がこちらに迫って来ますとき、そのものの脈動感が伝わってきまして思わず身震いしましたのは、自分の本質も愛であるからでありましょう。

 

さらに思い至りましたのは、普段の日常生活におきましてこそ、常に愛を意識しますことの大切さでありました。

そうした気持ちを持っていますと、何もやっていないときに時々感じていました、言い知れぬ寂しさとか孤独感からも解き放たれるのを知りました。

 

不足とか欠乏感が生じて来ないのにも気づき、愛という偉大な力のその一端に触れたように思われまして、感謝の念に打たれました。

どうしてこんなに大事な心がけを、いつの間にか忘れてしまったのでしょうか。

 

一時的にせよ、忘れる必要があったからなのでしょうか。そうとしか、思い当たらないのです。

なぜ、忘れなければならなかったのでしょうか。先ほど感じましたような愛の偉大さ、かけがえのなさを実体験で学んで知る上で忘却は不可欠だったのでしょう。

 

自分はもう、そのことを十分に知り尽くしましたと、天に向かって断言できればいいのですが、まだまだ言える状況ではありません。

自分が学びの途上にありますのをここで再認識し、もっと学び取ります決意を新たにするのでした。

 

 

生きている木

 

大きくなりすぎた庭の木々の剪定をやろうと、ずっと思っていました。それを昨日、意を決してやることにしました。

手伝ってくれる人に依頼できたことで幸先が良く、昼過ぎから作業に取りかかることにしました。

前にも何度か剪定はやったことがあり、十分に気を付けてやっていくのはもちろんのこと、要領もだいたいわかっていました。

 

作業着に着替えて軍手や帽子、剪定の道具などを身に着けていよいよ作業の開始です。

3メートル以上の高さの木に、剪定用の梯子(はしご)を使って登るわけですが、この梯子が結構重たいので慎重に動かして安定させます。

上に登ってからすぐ、足元がぐらつかないように木とはしごの上部を太めの紐でくくりつけます。

枝の適当な位置にのこぎりの歯を当て切り始めて行きます。太い枝ですので、一つを切るのにも重労働です。

 

最後の大枝を切り終えた直後、ヒヤッとしました。太い枝がすぐ横で落ちて行ったのです。

もうちょっと手前だったら頭を直撃されるところでした。助けてもらったと思うと同時に感謝の念に打たれました。

そのとき、一生が終わっていたかもしれないのに、生かされました。まだやるべきことが自分に残されていることを確認する出来事でした。

 

さて5、6本の大枝を切ったところで、上での作業はひとまず終わりにして、切り落とした枝のさばきにかかります。

切り落とした一つ一つの枝が相当に重くて「よくもまあ、こんな重い枝をいくつも木は支えていたのだ…」「文句ひとつも言わずに、黙々と支えていた」ことに、つくづく感心してしまいました。

生きている木から「支え、支えられて生きている」とは、こういうことなのだ、と教えを受けているようでした。

 

で、その枝をその場でそれぞれ、いくつかに切っていき、持てるほど小枝に分けてから運んで行きます。

最後に小枝を更に細かく切り分けて行きます。1時間のつもりが3時間以上かかってしまいました。

これでどうにか1本の木の剪定が終わりました。あと4本ありますので、一週間後に2本目をやる予定です。

 

 

信頼する人に

 

これまで、多くの人と関わってきた中で、この人は信頼できないと思ったことは、それこそ何度もありました。

しかし、この人はほんとに信頼できる人だ、と心から思ったという記憶がないのです。

 

いまだから言えることは、信頼できる人はまわりにたくさんいたはずです。

自分が心を閉ざしたまま信頼しなかったために、人を信頼できたという体験にまで至らなかっただけだということです。

ですから、もっとも必要なことは「信頼する」体験を積むことだといえます。

 

いままで何をするにも、どちらかといえば半信半疑で取り組んできた傾向があったことです。

その結果、人への不信感をつのらせ、人からの助言を疑い、自分の可能性や能力などを過小評価する自信のなさなど、悪循環にはまっていたということです。

 

自分で人間不信をまねくような原因を作っておいて、一方で人は信用できないと思い、自分も信じられず、信じられるものが何もないと落ち込んでいたのです。

まさに自業自得(じごうじとく)といえるのかもしれません。

 

こうした体験から学べることは、自分もふくめてどの人も、根本的には信頼に足る人だということです。

こうして生きているという事実が、その理由です。

もし信頼に足る人でなかったとしたら、その人は生きていられないからです。

 

生かされるものは、自分が信頼に足るものであることを、本能的に感じ取っているはずです。

大きくとらえれば、存在するものすべては、大自然から必要とされ信頼に足るものである、だからこそ現にこうして、ここにあるのだと思います。

 

信頼しないというのは、自然に反する選択だったのです。だから悩んだり苦しんだりするのです。

「信頼する」ことこそが、自然なことなのです。