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鼠径ヘルニア 2

 

私が鼠径ヘルニアに見舞われましたのは、いかに「信頼を生きる」のか、その試金石として与えられたものではないかと思っています。

日帰りの手術による治療に賭けてみる決断をしました自分を、どれだけ信じ切れますことかが試されているのです。

 

それはまた医療に対しましても、どれほどの信頼を寄せられますかどうかでもあります。

もちろん、手術に伴います合併症などのリスクのありますこと、その説明は伺っています。

 

それらを承知の上で決定したのであります。しかしながら治療の当日までに何がありますか、それはわかりません。

体調をくずしましたり予期せぬ事態に見舞われたりしまして、予定は中止になるかもしれません。

 

いずれにしましても、自分が致しました選択を尊重するほかに道はありません。

私を信頼しますことは、私を生かしています大いなる存在を信頼することでもあります。

 

ですから、どのような展開になりましても、ありのままを無条件に受け入れます心の準備はと問われれば、万端と言えるのです。

 

 

心のリセット

 

ときどき心が空白の状態でいるときがあります。なぜ自分は、ここにいるのでしょうか。

本来のところへ戻らなければ、という思いになったりもします。

現実逃避とも受け取れます、こうした心境になるのはどうしてなのでしょうか。

 

現実という世界は脳内で造りだしたもので、それはある事実の一つの側面を表しているに過ぎないのです。

身の回りのものから宇宙に存在するありとあらゆるものまで、人間の五感でとらえられますのは、ごくわずかな部分だけだと言われています。

 

無力感におちいってしまいそうですが、これを無視して見過ごしますのは賢明とは思えません。

わかっていることだけでもって、全てが語られると思ってはいけないということでしょう。

 

五感以外でも感じ取れますように、心をときどきリセットしておく必要がありそうです。

それと同時に、各感覚器官を研ぎ澄ましておくのことも大切でしょう。

 

 

 

内なる魂と対話

 

「(神のメッセージは)本気で耳を傾ければ、必ず聞こえてくるはずだ。本気で聞けば、無視することはできない。」

と「神との対話」(※注)では続きます。

なぜ、今まで聞こうとはしなかったのでしょうか。別に聞く責任はありませんし、受け取る責任もないと確かに思っていました。

 

もし

「神のメッセージを受け取ったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる」

からでありまして、まさに図星です。

ですから

「神の言葉は誰かほかの人が聞いていると決めつけ、その人たちの言うことを聞いている」

だけでありました。

 

どうして自分で考えようとはしなかったのでしょう。もちろん、他人の解釈を聞いているほうが楽で安全だということも考えられますが、それだけではないような気がします。

「神は特別な方法で、特別な人にだけコミュニケートすると信じて」

いたのです。

 

何よりも自分に神が語りかけているとは、まったく露ほども思えなかったことです。

神というものは、はるか雲の上のかけ離れたところにいる存在としか認識していなかったからです。

自分にも神性を宿しているかもしれないと知ったのは、ずっと後になってからです。

 

そして今ようやく、内なる魂とのコミュニケーションを実感したばかりで、

「この瞬間にも受け取っているかもしれない、神のメッセージを理解しようと努力」

し始めたところなのです。

 

(※注)その後、信頼できる筋から、この「神との対話」シリーズのチャネリング情報は、霊界の低級霊による悪戯によるものとの指摘を得ました。

 

 

経験からの学び

 

魂からの語りかけは感情と思考、経験を通じて絶えずあったのですが、それらに耳を傾けて来なかったのではないかという指摘でした。

確かに気づかないで無視して来ましたのは、全面的に認めます。せっかく経験した内容を、自覚さえしていない場合も多々あったように思います。

 

本気になって経験から学んでいましたら、より高い境地に立って物事に対処できていましたに違いありません。

例えばいま、いろいろな制約の下で生きております。ここからどのようなメッセージをくみ取ればいいのでしょうか。

 

そう簡単には思い通りに事が運ばないというのは、裏を解せばもっと深く考える機会を与えてくれていると思えます。

違った角度からの思考を促すメッセージと受け取れます。あきらめずに、どれだけの強い意志を持って臨んでいるのかを試されているのかもしれません。

 

それでは自分が完璧ではないという体験を通して、学べます点はどんなものがあるでしょうか。

まず、限られた範囲の知識と思考パターンの中で、どのような最大限の成果が得られるかを考えて行けばいいと言えます。

 

次に、その成果を得るためにはどうすればいいのか、持てる知識を総動員しまして実行項目を練り上げます。

そして、その中ですぐ取りかかれるものから順に実践します。もしも成果が得られなかったときには、最初からやり直してみます。

 

以上のように考えてみましただけでも、経験から学べるものは実に多いというのがわかります。

 

 

真実は感情の中に

 

魂とコミュニケーションするには、どうすればいいのでしょうか。ある本によれば、魂は感情を通して語りかけていると言います。

自分が感じています、その中に多くの真実が含まれていると言うのです。

 

ではいま何を感じているのかを探ってみますと、特にこれといったものは見当たりませんでした

しかし、先ほど仕事のことを考えていましたとき、落ち着かない感じがしていました。

 

その原因を考えてみますと、商品が売れ残ったという現象に対して不安を感じていました。

お客さんに気に入ってもらえなかっただけですのに、どうしてそんなに深刻に受けとめるのでしょうか。

 

仕事は順風満帆でなければ、食っていけないのではないかという恐れを持っていました。

でも実際に食っていけないほどに困ったことは、いままでに一度だってなかったのにです。

 

もし、こうした感情が魂から来ているとしましたら、何を伝えようとしているのでしょうか。

売れ残らないほどに、もっと仕事に打ち込めと言うメッセージなのでしょうか。

 

あらゆる努力を傾けて、これ以上は考えられないほどの緻密さで仕事をしているかと問われれば、もちろんとは言い切れず、そういう意味では激励であります公算が大です。

ここまで来まして、ようやく魂の真意を受け取ることができたように思います。

 

 

豊かさを求める

 

この宇宙が生まれました理由のひとつは、より豊かさを追求するためではないかと思われます。

それを実現して行く媒体として人間や他の生物が創造されまして、豊かさを生み出す源泉として自由意志や創造性、想像力などが賦与されたように思うのです。

奴隷のように酷使されたり、操作されたりするために人類が生まれたのでは決してありません。

 

全体がより豊かになりますには、構成員の個々が創造性を発揮して豊かになり、更なる豊かさを求め続ける意思を貫かなければなりません。

それから各個人が個人の域を一刻も早く抜け出し、グループから全体へと思考の枠を広げて行きまして、知恵を最大限に働かせる必要があります。

真の個人の豊かさは全体の豊かさから、もたらされるものであるからです。

 

個人が行います第一歩としまして、信頼に裏付けられました愛を自身と周りにできる限り満たします。

そして、周りのありとあらゆる存在の本質である愛を見届けます。

どんな出来事にも意味があることを認め、それらを謙虚に受けとめます。

この人生は自分を磨く修行の場と考えますと、何が来ようとも恐れるに足らずです。

 

 

信じて選択する

 

普段、自分の考えていますことを、いかに疑ってかかっているかがわかりました。意外にも、ほとんどと言っていいほど自分を信じていないのです。

それで信じる方向に、ともかくも舵をきるように意識を向けました。否定的な想念がこんなにもはびこっていましたのに驚きます。

 

肯定的な思いに取って変えますには相当の根気強さを試されており、是が非でもやり遂げます。

黙想のときに、全身をできる限り信頼の波動で包みました。今までにない境地に身も心も震えていました。

 

しかし、黙想が終わってからは、またいつも通りの状態で過ごしていました。

翌日、目が覚めましてもそのままで、しばらくして思い出すまでずっと信じる決意のことを忘れていました。

 

自己改造の第一弾が、まだ始まったばかりですから、あったことやこれからやりますことは、すべて前向きにとらえ考えて行くのです。

いますぐ出来ますのは、意識をしっかり持ちまして、いかなるときも迷わずに自信を持って選択します。そして断固として実行します、ただそれだけです。

 

もう一つ大事なのは、それらの結果でもあります身に起こる出来事は潔く受けとめまして、もし改善すべきところがわかりましたら直ちに改めます。

原因であります自分が、どうすればいいのかは周りが教えてくれているのです。

 

 

自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。