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思考の舵取り

 

これまで人と争ったり事故に出合ったりしましたのは、背後にいます邪(よこしま)な霊が仕向けたり呼び寄せたりしました結果であるかも知れません。

その当時を振り返ってみますと、そうとしか思えないのです。

そのときの争う直前の自分はもう自分でなくなって、別の何者かが乗り移ったかのようでありました。

 

あるいは自分の奥に潜んでいました、邪な部分が全面に踊り出た可能性もあります。

いずれにしましても自分であって自分でない、そういう心境であったのは間違いないようです。

 

その頃は何かしら心も乱れていたようで、それが災いを招いたのだと思います。

今のように地に足を着けた状態を維持していますと、邪な霊につけ込む隙を与えていないのがわかっています。

 

普段から霊主肉従の努力をしていませんと、悪霊たちに引っかかってしまいます。

常に思念の舵取りを意識し、人々の幸せを願う心で満たすことであります。

 

 

自己のコントロール

 

人生の大半を「自己成長」にこだわり続けて来ましたのは、どうしてなのかがようやくわかり始めました。

すべては「霊的成長」へ至るように、という守護霊の導きであったのです。

 

この人生で本来、歩むべき道にたどり着き、当初の任務を果たせる状況がようやく整ったことになります。

まずこれから取り組むべき課題は、霊主肉従と言われる段階になれますように自己をコントロールしなければなりません。

 

本能の赴くままに行動していましたのを、霊的成長に照らし合わせて行動しますように改めて行くことです。

自己中心的な言動を利他愛に沿ったものに変えて行くということでもあります。

急には難しいですが、徐々にその方向へ進むために意識しているところです。

 

 

生かされ愛されて

 

この地上世界を生きて行きますのに、なぜこれほどまでに過酷極まりないのでありますのか。

それは、死後の本格的な生活への準備を行う場として、最もふさわしいということなのです。

困難な中でこそ飛躍的な学びが得られ、霊的成長が促進されるからだと言います。

 

確かに、この世界が愛を必要としていますのは事実であります。利己主義がはびこっていますからこそ、利他愛が求められています。

そして何よりも気が付いていなければいけないのは、たとえどんな厳しい状況下に置かれましても、自分は生かされ愛されていますことです。

 

それを絶えず意識して、感じ取って行かなければなりません。

どのような間違いを犯したとしましても、決して見捨てられることもないのです。

 

 

あるがままを受容

 

以前から家庭セールスに来る人たちに、誠実な態度で接するのは難しいところがありました。

今回も無愛想な対応をしまして、後で余りいい気持ちがしませんでした。

 

それから今度は、ごく親しい人とのやり取りのときです。

会話がはずんでいたのですが、つい相手の生活態度に自分の自説を押しつけるような口調で言ってしまいました。

 

この二つの出来事を振り返ってみまして、利他愛の精神をどのように表していけば良かったのかを考えてみました。

取って付けたようなことを言うよりも一番に、相手のありのままを受容することが大事なのだと理解できたのでした。

 

例えば、セールスの人に対しては以下のようなことぐらいは言えたはずなのです。

「寒い中をお疲れ様です。あいにくですが、間に合っていますのでお引き取りください。ご苦労様でした」と。

 

 

毎日、実践の場

 

自分に対して、こんな疑問が湧きました。唯一の霊的成長をめざして実践しているでしょうか。

それで霊的成長とは何なのかを、改めて考えるようになりました。正直なところ、まだまだわかっていないのが実情であります。

 

それでも一つだけ浮かんで来ました。実践しますことで確実に霊的な成長につながりますのが、利他愛という行為です。

しかし知っているだけでは、どうしょうもないのにも気づきます。これをどのように実践して行きますかが、いまの課題でありました。

 

利他愛を生かせます場をまず見つけます、そう意図することから始まるのだと知るのです。

自分は何も求めずに相手に与えることだけを求めますが、そのように行うと意図するのは、何もしないときよりも違って来るのは確かだと思います。

 

また人と一緒でなくても、自分一人のときでもできます何かがあるはずです。

例えば、出会った人を思い浮かべて、その人が一層の幸せを喜んでいます姿を思い描き、祝福のメッセージを送れます。

 

 

霊的な生き方へ

 

自分の置かれています状況について分かりましたのは、次の通りです。

いまは準備のために肉体をまとって地上界におりますが、いずれは肉体を脱いで霊界に入り、そこから本格的な生活が始まるということです。

 

限りなく霊的に成長しますことこそ、最高の喜びでありますのを実感するのです。

そのためにも大事なことは、この世にいる間に霊的真理について、すっかり学び終えて理解しておく必要があります。

 

また、できるだけ心を清純に保ち、利他愛の精神を基調とした生活を心がけなければなりません。

すぐにできなくとも、そのように努力しますのが大切なのです。

 

 

挑戦する価値

 

理解しておかなければならないのは自分という者でさえ、ほんの一部でしか知りようがないということです。

知らない部分の方があまりにも多いという事実です。

 

だからといって悲嘆に暮れる必要はなく、現段階で知りうることを一つずつ学んで行くしかありませんし、それが着実な生き方でもあると思われます。

しかし逆にとらえますと、自分の中には秘めた可能性というものが無限にあると言ってもいいのです。

 

ですから、今できないこともいずれできるわけですから、落ち込む理由はないのです。

確実に一段ずつ進化の階段を上って行くだけです。すぐ実行できますのはただ一つ、人助けであります。

 

毎日心がけるべきは、いかに人に役立てるか、何とか役立とうと努めるのみであります。

そこで利他愛の実践があります。例えば、横から割り込んで来た車に対して、その運転手の幸せを祈れるでありましょうか。

こうした難しい場面でこそ挑戦する価値があります。

 

 

魂が喜ぶ生き方

 

なぜ今のままではダメなのか、をよく理解する必要があります。

自分を最優先に考える利己主義的な生き方はいずれ身の破滅を招くのが、どうしてわからないのでしょうか。

世界的規模で言えば、自分の国だけを優先的に考える外交方針では、いずれ国が成り立っていかなくなるのと同じです。

 

自分を最重視しますことは、自分以外のまわり全てを敵視しますのと何ら変わりないからです。

そこから争いや対立、トラブルが生まれるのです。誰もが持っています優しさや思いやり、助け合いなどは断ち切られているのです。

 

別に自分を軽視しろと言う意味ではなく、少なくとも自分と同等に相手のことも考えなければいけないのです。

さらに一歩進めて、自分のことよりも相手を思う生き方が求められているのです。それはどうしてでしょうか。

 

魂が喜ぶ生き方であるからです。利他愛の気持ちを持つとは、魂と直につながるために自分が選択できるあり方であったのです。

自分自身に関しては、常にガイドから最高の愛で愛され力強く見守られているのを忘れてはならないのです。

 

以上を考慮してみまして、自分の使命が何であるかは自ずと明らかになって来るような気がします。