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心からの感動

 

この人生において私が心から感動しました体験とは、いったいどんな体験だったのでありましょうか。

まず上げられますのが、中学生のときにクラシック音楽なるものを初めて聞いたときです。

 

一生忘れることのない「運命」との出合いでありました。

大阪梅田の本屋さんで何気なく買いましたのが、あのベートーベンの交響曲第五番のディスクシートでした。

 

音楽を聴きまして、あれほどの感動を覚えましたのは生まれて初めてでありました。

聞き終わるまでに35分ほどかかるのですが何度、聞きましても心が高揚するのでした。

 

当時、姉が購入したステレオ機器の前に座り無心になって耳を傾けますのがその頃、大きな楽しみでありました。

その後、さまざまな作曲家のクラシック音楽にも興味が移って行き、次々と有名な曲に聞き入るのでした。

 

私の人生でクラシック音楽の鑑賞はなくてはならないものになりました。

多難な思春期の時代にありまして、音楽にどれほど癒やされ慰められましたことでしょうか。

 

 

鼠径ヘルニア4

 

日帰りの鼠径ヘルニア手術をしまして、2週間が過ぎました。経過はその後も順調かと言いますと、そうでもないのです。

幸い傷口はふさがり風呂にも入れるようになったのですが、相変わらず赤く腫れていまして、かがんだりしますと鈍い痛みがあります。

 

以前のようなヘルニアの膨らみはなくなり再発の様子もありませんので、それだけが救いです。

10日後、病院へ行きましたときには痛みよりかゆみが気になっていましたので、そう伝えましたら患部をよく洗うようにと言われました。

 

すすめられた専用のクリームを買いまして、それを毎日付けて洗っています。

いまのところ改善の兆しはありませんが、良くなりますように祈るのみであります。

 

その後、ネットで調べますと腫れは一時的なもので、1~2ヶ月すると消滅するとのことですので安心しました。

3週間後から痛みはほとんどなくなりまして、患部を手で洗いますときに治りかけのかゆみを感じるほどまでに回復しました。

 

 

基盤は自己信頼

 

自分にとって、人生はどんな意味があるのでしょうか。

私の場合は子どもの頃から、どれだけ人からやってもらったかという、受け取る内容に価値を置いていたように思います。

 

なぜそのように至ったのでしょうか。自信がなかったので自分からすすんで遊び仲間に加わるという経験がありませんでした。

年上の子から声をかけられて、仲間に入れてもらえるまで待っているのが普通でした。

 

ですからみんなと遊ぶ機会は少なくて、一人で遊ぶときが多かったように思います。

この傾向は大人になっても続いており、自ら何かを立ち上げて、みんなを引っ張っていくようなことはもっとも苦手とするところです。

 

とは言いましても、率先してみんなに役立つように何かをしようとも思いつきませんでした。

子ども時代に仲間意識というものに縁遠い生活を過ごしていましたので、逆に仲間同士のつながりに対して憧れを感じていますのも事実です。

 

人々に貢献できる力が自分にはあるという、確固たる自己信頼の必要性を痛感しています。

私にとって人生の意味とは、自己信頼を基盤にして他者にどれだけの貢献ができるのか。その経験を積極的に積むことなのです。

 

 

体外離脱の壁

 

夜の就寝中は体外離脱しまして、アストラル界へ旅立っていると言われています。

しかし、そこで体験しました内容というのは、目覚めると同時に忘れ去ってしまうようです。

 

訓練次第では記憶を保ったまま、戻ってくることもできるそうですが、きっと何らかのコツがあるのでしょう。

ずっと以前に興味を持ちまして、意識して体外離脱できるという泊まりがけのセミナーに参加したことがあります。

 

はじめての体験で夢中になって挑戦しましたが、どうしても離脱までには至りませんでした。

また離脱を手助けしてくれるというモンロー研究所のゲートウェイ・エクスペリエンスCDなどもあります。

 

取り寄せまして数日間、それを使って繰り返しやってみたことがありますがそれでも成功しませんでした。

可能性はありましても、よほどの条件が整いませんと難しいのがよくわかりました。

 

ネット上には簡単にできそうな内容の記事が多いですが、どれだけの人ができているのか疑問に思います。

関心はありますものの、いまのところ自分から体外離脱しようなどとは思わなくなりました。

 

 

内面への探求

 

なかなか分離の状態から抜け出せないでいます。

すべての存在とは、そんなにかけ離れてはいないという確証がどうしても得られないのです。

 

いまの自分という意識と魂は一つでありますのに、その実感はまったくなく強く意識しなければ気づくことすらないのです。

必要な情報は外にあるのではなく、すべて自分の内側にあるとよく言われています。

 

いくら書物やネットなどの外側に答えを追い求めましても、内側の空白を満たされますことはありません。

人々の体験談をいくら読みましても参考にはなりますが、自分の血肉となりますものではありません。

 

自らがその場を経験しなければ、どのような叡智も得られないのです。

どうしましたら叡智につながります体験へと入っていけるのでしょうか。

 

そのためのきっかけとなります何かがあるはずです。

「求めよ、さらば与えられん」という言葉が示しますように、どんな些細な願いごとでありましても求めなければ与えられません。

内面への探求へと入って行かなくてはならないところへとやって来ました。

 

 

三次元を超える存在

 

自分はこの三次元世界のどこにいると言うのでしょうか。「ここ」にいますことは、間違いないようです。

しかし「ここ」とは、どういうところなのでしょうか。自分が存在している場所と言えるかもしれません。

 

仮に、家の中にいると思っていましても本当は肉眼を通して、ある視点から家の中を眺めているに過ぎないのであります。

肉体は家の中にあるとしましても、同じように自分もそこにいるとは限らないのです。

 

存在していますのは確かですが、物質を超えた私自身は、この三次元ではどこにもいないような気がします。

ですから、物質世界に関しまして、あまり深入りする必要性がないのに気づいていなければならないのです。

 

自分に取りまして、もっとも大事なことは何でしょうか。

人生におきまして常に自分を見失わずに、あらゆる機会を生かして十分に体験しますことではないでしょうか。

 

地上界での出来事に翻弄されず、自由意志による選択権を行使しまして、自分を信頼し主体的に生きて行くことなのです。

 

 

望んだ人生

 

一宇氏の著「人生の法則」を読み進めています。この地上界をどういう風に生きればいいのか、それをわかりやすく教えてくれています。

人生には良いことも悪いこともなくて、望んだ通りの現象が起きているだけでありました。

 

そして、そうした出来事は、自分がどのような人間になるのかをサポートしますための単なる脇役に過ぎなかったのです。

様々な苦労や辛くみじめな体験というのは、自らが望んだことでありました。

 

なぜ望んだのかと言いますと、そうした体験を通じてどんな困難にも負けない強い意志を持つ人間になりたかったのです。

これまでの失敗とか間違った選択も、そのような誤りをたくさんしてそこから多くを学び、より賢明な人間になるためでした。

 

どれほど失敗したとしましても、劣等感を持ったり自分をダメな人間だと思ったりする必要は全くなかったのであります。

成功や失敗の数々は、こうありたいと思います自分になるためのお膳立てであって、当初から人生に組み込まれていたのです。

 

 

主客転倒

 

何度も取り上げていますが、私とは見るものであって見られるものではないということです。

対象を自分と同一視しないように注意しなければなりません。

 

好き嫌いの感情や選り好みしますことも、いずれは手放していく必要があります。

なぜなら、実在しますのは観察する主体であります自分で、観察されるあらゆる客体には実態がないからなのです。

 

特定の事物にこだわったり愛着を感じたりしますあいだは、それを捨て去りますのは難しいかもしれません。

ただそれらは単なる対象物であって、自己とはっきり区別しておかなくてはならないのです。

 

往々にして自分に価値がないように思えてしまいますのは、価値を与える側の自分を対象物と見なしてしまうからです。

体験しています諸々のことと、それらを体験しています自分とを混同してしまうのです。

 

体験します自分という主体があってはじめて、体験します様々な客体が生じて来るということを忘れてはならないのです。