「あきらめない」タグアーカイブ

望む現実を描く

 

霊界におきましては思考がすぐ現実になるとは、どういう意味なのでしょうか。

思考が現実をつくり出すのは、間違いのないようです。

 

物質界でも同じであるはずですが、霊界と違いますのは現実化しますまでに時間がかかる点でしょう。

思ったことが実現しますことに関しては、この地上界も霊界も変わらないと言えそうです。

 

あの世では望んでいます状況が瞬時に得られるのですから、この世でも望む状況はあきらめさえしなければ必ず得られるはずです。

望みを叶えます上でのポイントは、決してあきらめずにその思いを持続できるかどうかであると言えそうです。

 

ただし、現実となっていないという考えを持っています限り、それが実現してしまいます。

願望を持続させると同時に、現実がそうでありますようにありありと明確に描く必要があります。

 

いま一番の望みが叶いまして、間違いなく私は無条件に自己を信頼する選択をします。

いま私は、あるがままの自分自身を信じ切る選択を生きています。

 

 

失敗から学ぶ

 

シルバーバーチの霊訓などの霊界通信から霊的知識が得られ、知識には責任が伴うことも学んだばかりですのに食べ過ぎたり、人との接触を避けたりしていますのが現状です。

学んだと言いましても、まだまだ浅い理解でしかないのを痛感します。

 

実践して行かなければ、せっかく得ました知識もドブに捨てているようなものです。

この地球という物質世界は、人間が失敗を通して学び、霊的に成長する場所として造られたと言われています。

そういう意味では、失敗にめげずにチャレンジしますのが大切でした。

 

失敗よりもチャレンジしようとしない方が問題でありました。シルバーバーチの次の言葉を思い出します。

『間違いを犯す人間だから、地上に来ているのです。しくじっては、そこから教訓を学ぶのです』

 

もしも間違いを犯さない人であったなら、この地上にはいないはず、とも言っていました。

何度しくじったとしましても、あきらめずに努力しますことが肝心でした。

 

 

より高い自分

 

本質に気づかないよう思考回路は分断され、身体的に改造されているのですから、自分がつねに低い周波数に立ち戻ろうとしますのも仕方がありません。

そのことに気がついていますだけでも、それに見合う適切な対応は可能だと思います。

 

自分の持てます数少ない機能をフルに使いまして、自力で一歩ずつ本来の性能を回復して行くのです。

そこで必要になって来ますのが、まず明瞭なビジョンと愛に満ちたハート、そして信頼であります。いま考えられますビジョンほかは、次のようなものです。

 

私の内の暗闇にことごとく、光を行き渡らせるのを意図します。私に起きるすべての出来事を前向きにとらえ、それを愛で強化して放って行きます。

もしも恐怖心が襲ってきましたら忌み嫌うことなく、愛の周波数で受けとめますように意図します。

 

私は自分の考え、そのものが自分の世界を創り上げていますのを重々承知しており、そうした力を持ちます自分を限りなく信頼します。

私の内にあります、より高い自分を発見します喜びを、すべての意識と分かち合えますことを意図します。

親愛なる神よ、私の意図が成功裏に終わりますように勇気と行動力と忍耐とを私にお与えください。

※参照 バーバラ・マーシニアック著「プレアデス+かく語りき」

 

 

自分の本性

 

仕事の作業中のことです。過去の出来事の、ある場面を思い浮かべて「ああでもない、こうでもない…」と、心のおしゃべりに気づく機会がありました。

そんなことより、もっと大事なことがあるでしょう!と怒鳴りたい気持ちになりました。

 

いつもこのような無駄話をしている習癖に呆れると同時に驚きでもあります。性懲りもなく延々と、こうしたおしゃべりを繰り返すのは、なぜなのでしょうか。

やりたい放題にさせているのは自分であり、それを許しているのも自分でありました。

 

「愛で一日を満たし、愛と共にいなさい」と言われるほんとうの意味がようやくわかりかけたように思います。

気がつくまで雑念に取り込まれてしまう隙を与えまくり、油断していますのが普段の自分の有様なのです。

これは今に始まったことでは無論ありません。何度も気づいて来たのですが、いっこうに改まっていないのが現状です。

 

何回か、心を愛で満たすように意識しました。とても落ち着き安らぎます。これを日常化できないのは、どうしてなのでしょうか。

どうしてもっとも大事な自分の本性を忘れてしまうのでしょうか。何よりも、この自分をマスターしなくてはなりません。

 

 

永遠の存在

 

これまでの最大の間違いは、やがては老いて朽ちて行きます肉体を自分だと思って来たことです。

この人生で体験するための借り物でしか過ぎない身体を、自分だと信じ込んでいたのです。

 

ほんとうの自分とは、様々な体験を味わう主体であり永遠の存在である意識でもあります。

これまでも、そしてこれからもずっと未来永劫、完璧な存在としてあり続けるのです。

 

この次元での役割を終えましたら肉体は死を迎えますが、私は別次元へ移って行き、別の使命をもって再び新たな人生を生きるのです。

ですから、死を恐れる必要はまったくないわけです。

そのときが来るまでは、この人生でやれますことに集中して取り組めばいいのです。

 

本来ならば、不安になったり心配したり悩んだり落ち込んだりする理由はどこにも存在しないのです。

また、五感がとらえます周波数の世界というのは、全体の極々一部分でしかありません。

 

もっと広大な世界に目を向けて、そこへアクセスする術を身に付けて行かなければならないのです。

たとえ、どんな絶望的な状況であろうとも自暴自棄にならず、どんなに悲惨な運命に遭遇しようとも自分を信じ、あきらめたりしなければ幻想に打ち勝つことは出来るのです。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

グッドモーニングショー

 

映画「グッドモーニングショー」を見ました。

数時間の朝のワイドショーに、4時間前から準備作業を開始していましたことと、

たくさんの人たちがそれぞれの部署で綿密に関わっていたことにびっくりしました。

しかも分単位、あるいは秒単位で次々と切り替わっていきます場面設定の連係プレーは、いくら仕事柄とはいえ見事でした。

 

それに対しまして、扱っています話題や題材が視聴者の受けの良い芸能ニュース関係を最優先にされていますので、

作り上がりも限定されたモノで終わってしまい、残念な気がしてなりませんでした。

そこへ事件が発生しましてから状況が一変して、その後の展開に引き込まれて行きました。

 

なぜ、主人公の澄田キャスターが立てこもりの犯人から呼び出されたのか、顔に泥を塗る場面はいったい何なのか、という疑問が出てきます。

ところが、そういったことはわからないまま話が進んで行きますので、目が離せませんでした。

事件の核になります過去の出来事や背景などが、徐々に明らかになって行きます手法は功を奏していました。

 

ところどころに笑ってしまう仕草や勘違いなどのコミックなシーンがはさまれまして、人質事件に伴う緊張を和らげているようでした。

犯人の動機などの真相に近づくにつれまして、ワイドショーのスタッフたちが現場で進行する映像の画面に釘付けになって行きます様子は真に迫っていました。

 

見終わった後はホッと胸をなで下ろしましたが、番組の終了間近に行われました視聴者投票の結果については考えさせられました。

本来は自分の命を人の意見でどうするか、決めるようなものでないはずです。

しかしながら、投票結果の数字を入れ替えましたことで、犯人をはじめ自分たちも救われたと思いました。

 

 

譲れない願望

 

普段から、どうあって欲しいのかをもっと鮮明に描きまして、持ち続けていますことがとても大事ではないかと思います。

何も持っていませんと突然、望んでいない状況に出合いましたとき、適切な対応がとっさに出来ないからです。

 

どんな人にも、こうであって欲しいと言う願いが、必ずやあるに違いないのです。

ただ、それを心の奥深くにしまい込んでいますので、意識しないで何も望みがないかのように毎日を過ごしています。

 

なぜ自分の願いを奥に引っ込めてしまっているのでしょうか。

ひとつは小さい頃、人に言いましてバカにされた経験がありましたからでしょう。

人から自分の願い事を酷評されて育ちましたので、二度と口にするまいと決めてしまったのではないでしょうか。

 

もうひとつは、社会に出ましてから自分の無力さをさんざん思い知らされ、痛手をこうむったからかもしれません。

容易に自信が持てない表れとしまして、願いをいだいたり夢を描いたりしなくなって来ましたように思います。

 

しかし実は、自分の持って生まれた本領を発揮しますのは、一度打ちのめされました後なのです。

ご破算にされて否定されましてもなお、これはというものが浮かび上がってまいります。

 

本心からにじみ出ました願いは、そうやすやすと葬られますことはあり得ないのです。

自分に嘘をつかない限りは、ある段階から立ち直って行けるものです。

これだけはどうしても譲れない、そういう願望を自分の中でもっと大きく取り上げて、養って行きます必要があると思うのです。