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想像力を限界まで駆使する

人生の答え

 

いざ心の声に耳を傾けてみようとしましても、なかなかできるものではありません。

しかし内なる声を無視しつづけています限りは、日々を落ち着かない状態のままで過ごすようになります。

 

耳を傾けようともせずに無視してしまいますのは、どうしてなのでしょうか。

自分には何かが欠いていて、それはどこかにあるはずだと思いつづけ、いつも外側に意識が向いていたからです。

 

必要なものはすべて自分に備わっているという事実を、まったく理解していませんでした。

周りのどこかに幸せを追い求めていましたので、ことごとく裏目に出る結果となり、平安にはほど遠いみじめな気持ちを味わうばかりでした。

 

求める方向が間違っていただけでしたのに、自分に対する自信をすっかり失ってしまいました。

人生に対する答えが自分の内面奥深くにあるとは、とても信じられなかったのです。

 

結局、あれこれと知識を探し求めたにもかかわらず、手元に知恵として残るようなものは何一つ見出せず呆然となるのでした。

 

 

善とか悪で測れない

 

私にしか伝えられないことがあるとしましたら、いったいそれは何でありましょうか。

たった一つ、これだけは自信をもって言えるかもしれません。

 

世界中にどれほど多くの人がいたとしても、私自身が歩んで来ました道は、私以外に語れる人はいないのではないでしょうか。

数え切れないぐらい間違いをおかして来ましたが、それでも何とか今日まで生きて来られたのです。

 

それこそたくさんの人たちの援助と宇宙のサポートを受けまして、どうにか無事に乗り越えて参りました。

仮に、もう一度人生をやり直せるチャンスがあったとしましたら、果たして同じような道を自分は選択しますでしょうか。

 

おそらくは、今生とは別の道を選ぶような気がします。

これまで人生を貫く明確な目的に沿って歩むという生き方からは程遠い、成り行き任せで過ごして来たように思うのです。

 

ですから、一つ一つの選択において違った考えや見方でもって対処しますに相違ないのです。

それは正しいとか正しくないとかで測れるものではありません。ある意味では、どれもが全部正解なのですから。

 

 

夢中になって話す

 

私がいつまでも夢中になって話せますことがあるとすれば、それは何なのでしょうか。

そもそも、そのようなものが自分にあるのだろうかと少々心細くなってしまいました。

 

我を忘れて没頭できますことは何かと考えてみますに、これはと浮かんで来るものがありませんでした。

果たして人に、これこれですと伝えられますものは自分にあるのかどうか、まさにこれまでの生き方が問われる瞬間であります。

 

人に伝えられるような立派な人生を、はじめから決めて歩んで来たわけではありませんから、結果としてどうだったのかです。

結局のところ大事なのは人に対してよりも、自分にとって悔いなく生きて来られたのか、そしてこれからどう生きて行くのかであります。

 

はっきり申せば死の直前に、やり残したことはなく十分にやり尽くしましたと、自分自身に言えるのかがもっとも大切だと思うに至りました。

いえ死ぬまで待つ必要はなくて、今日という日を心おきなく生きているのかどうか、生きたのかどうかなのです。

 

夢中になって話せますのは趣味などの類いではなく、生き方についてのような気がします。

 

 

伝えられること

 

私が世の中に対して伝えられることがあるとしましたら、それは何かと思い巡らせてみました。

しかし敢えてお伝えしますようなものは、何一つ持ち合わせていないのを認めないわけには行きません。

 

一生涯忘れられない記憶に深く刻まれますようなこともなく、幸いと言うべきなのでしょうか。

細かいところまで目をやりますと、それなりの山や谷を乗り越えてきました。

 

これまですべて順調で苦い経験はなかったのかと問われれば、もちろん答えは否であります。

困難な中で学べましたことがいくらかはあったように思います。その困難というのは、自ら招き寄せたような気がいたします。

 

自分から行動を起こしました結果、その難題にぶつかり、それを何とか乗り切れたのです。

もっとも何もしないでも生きています以上、絶えず大小さまざまな波が押し寄せてまいります。

 

何事に対しても受け身でいますのか、それとも機会を見つけて積極的に買って出ますかで、その結果が異なって来ますのは確かであります。

 

 

 

基盤は自己信頼

 

自分にとって、人生はどんな意味があるのでしょうか。

私の場合は子どもの頃から、どれだけ人からやってもらったかという、受け取る内容に価値を置いていたように思います。

 

なぜそのように至ったのでしょうか。自信がなかったので自分からすすんで遊び仲間に加わるという経験がありませんでした。

年上の子から声をかけられて、仲間に入れてもらえるまで待っているのが普通でした。

 

ですからみんなと遊ぶ機会は少なくて、一人で遊ぶときが多かったように思います。

この傾向は大人になっても続いており、自ら何かを立ち上げて、みんなを引っ張っていくようなことはもっとも苦手とするところです。

 

とは言いましても、率先してみんなに役立つように何かをしようとも思いつきませんでした。

子ども時代に仲間意識というものに縁遠い生活を過ごしていましたので、逆に仲間同士のつながりに対して憧れを感じていますのも事実です。

 

人々に貢献できる力が自分にはあるという、確固たる自己信頼の必要性を痛感しています。

私にとって人生の意味とは、自己信頼を基盤にして他者にどれだけの貢献ができるのか。その経験を積極的に積むことなのです。

 

 

楽ではない道

 

どのような人生を歩みたいのでしょうか。あるいは、どんな人生であって欲しいと思っているのでしょうか。

順風満帆でありさえすれば良いのでしょうか。魂が望んでいますのは必ずしも、そういうことではないような気がします。

 

荒波をくぐり抜ける体験がなくては、退屈するだけで面白みがありません。

四苦八苦します中で魂は揺さぶられ、全身全霊をかけてぶつかって行く腹を決めるのです。

 

生き抜いて行きますのに困難であればあるほど人生は、より輝いた自分に仕立て上げてくれます。

楽な道かあるいは危険な道かを選ぶ際には、十分注意しなければなりません。

 

目先のことしか眼中にないときは、楽な道ばかりを追い求めています。

努力を要します選択肢には関心が向かないのです。いつもと同じことの繰り返しから逸れたくないのです。

 

望む人生を描きますには、意識して魂の奥底から出て来ます声に耳を傾けなくてはなりません。

自分にとっての最善のシナリオとは、一層の成長を促してくれるものです。

 

 

意識して選択する

 

自分の人生は自分が創るものですから、どのような人生を生きたいのかをしっかりと描く必要があります。

それを怠った場合には望ましくない人生を、無意識に選択していることになります。

 

自分が創造しましたシナリオであるにもかかわらず、人生は思い通りにならないと嘆き悲しんでいるのです。

被害者意識にとらわれましたり、過酷な状況に翻弄されるという事態を招いたりするのです。

 

元々は自分が創り上げました困難や障害でありますのに、まったく気づいていないのです。

自らこしらえ、はまりました落とし穴から抜け出しますには、どうすればいいのでしょうか。

 

日々の生活におきまして、何から何までを意識して選択するようにします。

いつも最善を選ぶように意識していますと、間違った選択をしたときには、すぐにそれを認めることができます。

 

人生は決して自分に敵対するものではなくて、自分の意思が反映されていただけであったことに気づけるのです。

ここに至って、ようやく自分を信頼できる足場ができました。自分を敬い、賞賛し感謝する日も近いように思います。

 

 

限界のある前提

 

以前と比べまして、カチンと来ましたりムキになったりすることがほとんどなくなりました。

自分を含めた全ての人たちに対して、寛大な態度で接する心境になりつつあります。

 

人間として肉体に宿ったからには、限られた知識と限定された視野でもって、しかも制限された脳でしか考えられないのです。

この物質世界での人生は数多くの失敗や誤りを犯して、そこから学び成長して行くように運命づけられているのです。

 

誰一人として、そうした制約から逃れられません。

ですから気に入らないからと言って、人に根を持ちましたり仕返しをしたりしようなどと思わないことです。

 

どのような思い込みや誤解が生じましても冷静に対処できますように自分を引き上げます。

少々のトラブルに遭遇しましても、いっさい動じない強い精神の持ち主でなければなりません。

 

もともと不完全な状態で生まれ落ち、完全さを求めまして成長を続けますのが人間の宿命なのです。

そんな境遇をすべて承知した上で人生に取り組んで行きましたら、無知のままのときよりもずっと楽しめそうです。