「霊的目覚め」カテゴリーアーカイブ

スピリチュアリズムとの出合い

自己愛と利他愛

 

自分を愛しますのは、自己中心の発想だと思っていました。

しかし、自分のことしか考えないのは利己的なのかもしれませんが、自己を無条件に愛しますのはそうではないのです。

 

聖書には「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉があります。

自分を愛していますのが前提として、隣人を愛しなさいと言っているのではないでしょうか。

 

自分さえも愛せない人は、他人を愛せるはずがありません。

自分を愛せない人というのは、他人から注がれています愛にも気づくことはないでしょう。

 

無条件に自己を愛しますのは、他者との関わりにおいてももっとも重要な資質であったのです。

そのためには自分よりも他者を最優先に考えられますほど、自我意識を高めて行かなくてはなりません。

 

どんな状況下でありましても、自己を見捨てず無条件に愛せるまでは、利他愛の精神も生まれて来ないように思われます。

アニータ・ムアジャーニ著の「もしここが天国だったら?」を読み始めまして、以上のことに気がついたのです。

 

 

人々との絆

 

もっと死後の世界について知りたくて、死に関します本をいくつか読んでいます。

一つがマイケル・ニュートン著「死後の世界が教える、人生はなんのためにあるのか」、

 

ハワード・ストーム著「臨死そして与えられた二度目の人生」、

それとエリザベス・キューブラーロス著の「人生は廻る輪のように」などです。

 

死が一つの通過点に過ぎないと知ってから、暗く忌まわしいイメージを払拭できましたことは嬉しい限りです。

いま生きていますことはとても素晴らしいのですが、それと同じぐらいに死の訪れも待ち遠しいのです。

 

地上界と同じように死後の世界でも、生きて行く上で特定の人々との絆が大きな支えになっています。

更にガイドという、より進歩した導き手があらゆる人生におきまして必ず付いてくれているのです。

 

よく考えてみますと、これは何という幸運な天の慈悲深いシステムでありましょうか。

焦っては躓いてばかりいます自分に、もっと大らかに生きていいのだよ、といつも言われていますように思います。

 

 

成熟した人間

 

「臨死 そして与えられた二度目の人生」を読んでいます。

どれだけ努力して欲望が満たされましょうとも、それらは全くと言って良いほど価値はなく重要でもなかったのに気づきます。

 

人生を終えた後で心から喜べますのは、どれだけの愛を周りに与え尽くしたのかという一点であったのです。

特に人間関係におきまして、どれほど愛し合うことができたのかという問いに躊躇せず答えられますかどうかなのです。

 

実際には愛するよりも、愛され認められることに夢中になって、人を傷つけて来ましたのが大半でありました。

今こそ、これまで気づかずに恩恵を受けていました、真実の愛を思い起こさなければなりません。

 

人々の思いにもっと目を向けて行くべきで、忍耐や寛容さ、誠実さを備えました人になって行かなくてはならないのです。

それは成熟した人間へと成長して行く決意をし、実践しますことでもあります。

 

 

自ら選んだ人生

 

飯田史彦氏の著「生きがいの創造 完全版」を読んでいます。

幼い子たちが生まれた時の様子や生まれる前の記憶をさりげなく語るという驚くべき内容が書かれています。

 

両親も最初これを聞いてびっくりしますが、大半の人たちは幼子の言葉をそのまま受け入れて行くのでした。

もしかしたら生まれ変わりがあるのかもしれない、そんな思いにさせます出来事に出合ったと思われたことでしょう。

 

しかしその後、子どもが学校へ行くようになってからそうした記憶は忘れ去られて、何事もなかったように過ごして行くわけです。

ここまで他人事のように書いて来ましたが、これらが自分の身にも起きたかもしれないと思い始めています。

 

人生とは何のためにあるのでしょうか。実はとても単純であったりします。

たとえどんな辛い目に出会おうとも、それらを唯一楽しむためではないかと思えて来ます。

人生での体験はすべて、自分が選んだ結果かもしれないのです。

 

 

永遠の命

 

一ヶ月ほど前、足の付け根あたりに小さな膨らみを見つけまして、総合病院へ行っています。

本来なら患者の命を守りますのが病院の務めのはずであります。

実際は医療行為によって命を落とします危険を承知の上で通わなければならないのが現状です。

 

以前の自分でありましたら、病院というところは気が滅入る場所で終始、良い気分になれませんでした。

ところが今回はそういった気落ちは全くなくて、診療が終わりますまで平常心でいられました。

 

各検査におきましても大丈夫でありました。その最大の理由は、死というものが恐くなくなったからです。

どんな結果が出ましょうとも受け入れます用意がありますので、うろたえたりしないのがわかっています。

 

万が一、この世で命を落としたとしましても、それはそれで仕方のないことだと思えるのです。

この世からあの世にかけても、命は途切れることなく続くのがわかっているからです。

 

 

百パーセント生きる

 

E・キューブラーロス博士の著「死ぬ瞬間と死後の生」を読み出しました。

百パーセント生きますには、本当にやりたいことをことごとく実行するだけなのでありました。

 

やれましたのにやらなかったとか、やるべきなのにやれなかったという後悔だけは、避けなければなりません。

死の直前になってから、本当にしたかったことをすれば良かったのにと悔やんでも仕方がないのです。

 

いつ死が訪れても大丈夫と言えますように、今後したいことだけをやりますと宣言します。

そして一日の初めに今日の実行内容を絞り込んで、直ちに取りかかります。

 

注意すべき点は、やりたいのに我慢して別の要件で甘んじてはなりません。

要はやる項目とやらない項目とを明確にしておかなくてはならないのです。

 

 

他者あっての自分

 

やはり好きな音楽をもっと聴きたいですし、素晴らしい映画も見たいです。

これって利己的な行動と言えるのでしょうか。利己愛に走っていますようには思えません。

 

もちろん利他愛につながるわけでもありません。ただ無性にそうしたいという欲求がそこにあるのです。

これを人と分かち合えれば、申し分のないことであります。

 

お気に入りの音楽を堪能しますというのは、そこに無条件の明け渡しがあるように思います。

音楽と一つに溶け込むぐらいになる瞬間があるのです。

 

生演奏に接しますような、スピーカーから流れます重低音と温かみのあるサウンドに触れますと心が洗われます。

一人で悦に入っていると言われそうですが、本当はみんなと一緒に聴ければその方が何十倍も楽しいことでしょう。

 

しかし、好みのレベルの段階では人それぞれ違いますから、得ます感動も異なって来るように思います。

最終的には自分にふさわしい聴き方しかないのではないでしょうか。他者を思う自分だけは捨ててはならないのです。

 

 

他者を思う

 

普段、いかに自分のことばかり考えていますかを思い知ります。

これまで霊的な事柄に関しまして、いろいろと教わって参りましたが、自己中心的な傾向はそのままであります。

 

利他愛につきまして、自分のものとしますまでに相当の日数がかかりそうです。

個人的な意思を手放して行きますのもずっと先のことになりそうなのです。

 

いま取り組めますのは、他者を思う心を少しずつ育てて行きますしか見当たりません。

相手はいまどんな気持ちでいますのか、およそでも見当が付けられるぐらいになりたいものです。

 

相手の心に焦点を当てます時間が長ければ長いほど、何となくわかって来ますものです。

いかに他者の存在を重んじて行けますかどうか、なのだと思います。

 

自己責任をわきまえつつ、自己に関しますことをことごとく棚に上げられます日は、いつでありましょうか。