「心のあり方」カテゴリーアーカイブ

人は人によって磨かれる

塞翁が馬

 

自分に関しますあらゆることは、自らがつくり出しているということを押さえておく必要があります。

ですから、どのような被害者はいませんし、加害者も全くいないということです。

 

これはある意味では希望であり、救いでもあると言えるのではないでしょうか。

例えば、落ち込むときというのは、そのように自分が反応しているだけなのです。

決して他のものが意図を持って、自分を落ち込ますわけではありません。

 

自分の考え方や気持ちを変えるだけで、いつでも幸せいっぱいの心境になれるのです。

自分の考えや身の処し方に責任を持ち、常に前向きな姿勢を保ち続けていましたら、落ち込むこともなくなるでしょう。

 

もともと物事自体には良い悪いがなく、自分が下していた善悪の判断をやめさえすれば一喜一憂のパターンから抜け出せます。

「災い転じて福となす」とか「塞翁が馬」という言葉が示しますように、一概に幸不幸というものは決められないのです。

 

 

主客転倒

 

何度も取り上げていますが、私とは見るものであって見られるものではないということです。

対象を自分と同一視しないように注意しなければなりません。

 

好き嫌いの感情や選り好みしますことも、いずれは手放していく必要があります。

なぜなら、実在しますのは観察する主体であります自分で、観察されるあらゆる客体には実態がないからなのです。

 

特定の事物にこだわったり愛着を感じたりしますあいだは、それを捨て去りますのは難しいかもしれません。

ただそれらは単なる対象物であって、自己とはっきり区別しておかなくてはならないのです。

 

往々にして自分に価値がないように思えてしまいますのは、価値を与える側の自分を対象物と見なしてしまうからです。

体験しています諸々のことと、それらを体験しています自分とを混同してしまうのです。

 

体験します自分という主体があってはじめて、体験します様々な客体が生じて来るということを忘れてはならないのです。

やれる範囲内で

 

もっとも成長を遂げました段階にいますのがいまの自分なのですが、何とも心もとない心境におちいってしまいがちです。

例えば、いま感じています大切なことを書こうとしましても、なかなか言葉が浮かんで来ないのです。

 

着実に進化の道を歩んでいるのでしょうか、という不安がよぎって来ます。

しかし、この「着実に」というのが、ある意味でくせ者かもしれません。

 

人生は一直線に進んでは行かないのは、少し考えてみればわかりそうなものです。

実際、人生は紆余曲折の連続でありますのが実情なのです。

 

あの世はもちろんのこと、この世でさえも、わからないことだらけなのですから、手探りで進みますしかありません。

いくら頑張ったとしましても、いまの自分がやれます範囲内のことしかできないという気づきに至ってようやく落ち着くのです。

 

 

選択を意識する

 

自分の約束事は必ずやり通すという、けじめだけはこれからもしっかりと付けておく必要があります。

約束事とは今後、選択に迷ったときは心の声に従い、危険な道の方を選ぶことです。

 

もう一つは、以前から続けています一日の日課を黙々とやり抜きます。

特に注意しなければいけないのは、今まで決断を避けて適当に済まそうとするときが往々にしてあったということです。

 

決めなければならないときは先送りせずに、その場で心に向き合って危険な方を選択しますように努めます。

まだ誓うまでには至っていませんので、努力に委ねるしかありません。

 

本当にやりたいことというのは、ほぼすべてが危険な道でもあります。意識して選択しなければならないのです。

 

 

危険な道

 

再度、岡本太郎氏の「自分の中に毒を持て」を読んでいまして、次の言葉が目に飛び込んで参りました。

 

『危険な道をとる』

いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。

死に対面する以外の生はない。

ぼくの…ポジションはその決意の実践だった…

 

安全な道をとり続けるか、あるいは危険な道をとるかを決断し、自ら誓うまでに自分を追い込まなければならないのでした。

そして決意しましたからには当然、それを実践しますことが求められます。

 

意識して選択しますときには自分の心に従い、敢えて危険な道をとってきました。

しかし、常にそうではありませんでした。まだまだ安全な道を選びます方が多かったように思います。

 

些細なことばかりでしたが、これまで決意し誓いました約束事はその後、間違いなく実践できていました。

何が問題かが、かなり見えてきましたように思います。

 

 

理解し合う難しさ

 

先日、親しい人とメールのやり取りをしていました時、ある件を伝えますのに言葉足らずなところがありまして誤解を招きました。意思伝達の難しさを感じました。

こんな時に思ったのは、霊界のように意思が言葉を介さずともストレートに届くのでありましたら、こうした行き違いはあり得ないということです。

 

人との会話において言葉を選んで誠心誠意、伝えるという態度は大切でありますが、それでも百パーセント言い伝えられるとは限らないのです。

たとえ気心の知れた間柄でありましても、思っていますことの半分以上が伝われば、それで満足すべきではないでしょうか。

 

この地上界におきましては、人と真に理解し合うというのは、いかに困難なものでありますかを改めて思い知ります。

それに比して霊界では思ったことは何もかも即座に知れ渡るのですから、お互いをありのままに難なく理解し合えているのです。

人との親密度は、まったく地上界とは比較にならないでしょう。

 

 

内なる魂と対話

 

「(神のメッセージは)本気で耳を傾ければ、必ず聞こえてくるはずだ。本気で聞けば、無視することはできない。」

と「神との対話」(※注)では続きます。

なぜ、今まで聞こうとはしなかったのでしょうか。別に聞く責任はありませんし、受け取る責任もないと確かに思っていました。

 

もし

「神のメッセージを受け取ったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる」

からでありまして、まさに図星です。

ですから

「神の言葉は誰かほかの人が聞いていると決めつけ、その人たちの言うことを聞いている」

だけでありました。

 

どうして自分で考えようとはしなかったのでしょう。もちろん、他人の解釈を聞いているほうが楽で安全だということも考えられますが、それだけではないような気がします。

「神は特別な方法で、特別な人にだけコミュニケートすると信じて」

いたのです。

 

何よりも自分に神が語りかけているとは、まったく露ほども思えなかったことです。

神というものは、はるか雲の上のかけ離れたところにいる存在としか認識していなかったからです。

自分にも神性を宿しているかもしれないと知ったのは、ずっと後になってからです。

 

そして今ようやく、内なる魂とのコミュニケーションを実感したばかりで、

「この瞬間にも受け取っているかもしれない、神のメッセージを理解しようと努力」

し始めたところなのです。

 

(※注)その後、信頼できる筋から、この「神との対話」シリーズのチャネリング情報は、霊界の低級霊による悪戯によるものとの指摘を得ました。

 

 

経験からの学び

 

魂からの語りかけは感情と思考、経験を通じて絶えずあったのですが、それらに耳を傾けて来なかったのではないかという指摘でした。

確かに気づかないで無視して来ましたのは、全面的に認めます。せっかく経験した内容を、自覚さえしていない場合も多々あったように思います。

 

本気になって経験から学んでいましたら、より高い境地に立って物事に対処できていましたに違いありません。

例えばいま、いろいろな制約の下で生きております。ここからどのようなメッセージをくみ取ればいいのでしょうか。

 

そう簡単には思い通りに事が運ばないというのは、裏を解せばもっと深く考える機会を与えてくれていると思えます。

違った角度からの思考を促すメッセージと受け取れます。あきらめずに、どれだけの強い意志を持って臨んでいるのかを試されているのかもしれません。

 

それでは自分が完璧ではないという体験を通して、学べます点はどんなものがあるでしょうか。

まず、限られた範囲の知識と思考パターンの中で、どのような最大限の成果が得られるかを考えて行けばいいと言えます。

 

次に、その成果を得るためにはどうすればいいのか、持てる知識を総動員しまして実行項目を練り上げます。

そして、その中ですぐ取りかかれるものから順に実践します。もしも成果が得られなかったときには、最初からやり直してみます。

 

以上のように考えてみましただけでも、経験から学べるものは実に多いというのがわかります。