人徳を積む

 

私が世の中に伝えたいことがあるとしましたら、それは何でありましょうか。

しかし、これだけは人にどうしても伝えたいというものが自分にありますのか、甚だ疑問に思います。

 

また、これといった特殊なメッセージを持ち合わせているわけでもありません。

敢えて人々に語りかけますような高尚な考えも何一つ浮かんで来ないのであります。

一つだけ申し上げるとすれば、この世で生を受けました以上は、どんな犠牲を払ったとしましてもそれを全うするといことでしょう。

 

生を全うするというのは、どういう意味なのでしょうか。

少なくとも自分の命を粗末に扱いましたり、自ら生きる意欲を削いだりしてはなりません。

何も特別なことをせずとも命が尽きるまでただ生きている、それだけであったとしても尊いと言えるのではないでしょうか。

 

富を築いたり名声を上げたりするために、一生を費やすほど馬鹿げたことはありません。

たとえどんな些細なことでも人徳を積みますのに、人生のすべてを差し出すべきでしょう。

 

 

善とか悪で測れない

 

私にしか伝えられないことがあるとしましたら、いったいそれは何でありましょうか。

たった一つ、これだけは自信をもって言えるかもしれません。

 

世界中にどれほど多くの人がいたとしても、私自身が歩んで来ました道は、私以外に語れる人はいないのではないでしょうか。

数え切れないぐらい間違いをおかして来ましたが、それでも何とか今日まで生きて来られたのです。

 

それこそたくさんの人たちの援助と宇宙のサポートを受けまして、どうにか無事に乗り越えて参りました。

仮に、もう一度人生をやり直せるチャンスがあったとしましたら、果たして同じような道を自分は選択しますでしょうか。

 

おそらくは、今生とは別の道を選ぶような気がします。

これまで人生を貫く明確な目的に沿って歩むという生き方からは程遠い、成り行き任せで過ごして来たように思うのです。

 

ですから、一つ一つの選択において違った考えや見方でもって対処しますに相違ないのです。

それは正しいとか正しくないとかで測れるものではありません。ある意味では、どれもが全部正解なのですから。

 

 

心からの感動

 

この人生において私が心から感動しました体験とは、いったいどんな体験だったのでありましょうか。

まず上げられますのが、中学生のときにクラシック音楽なるものを初めて聞いたときです。

 

一生忘れることのない「運命」との出合いでありました。

大阪梅田の本屋さんで何気なく買いましたのが、あのベートーベンの交響曲第五番のディスクシートでした。

 

音楽を聴きまして、あれほどの感動を覚えましたのは生まれて初めてでありました。

聞き終わるまでに35分ほどかかるのですが何度、聞きましても心が高揚するのでした。

 

当時、姉が購入したステレオ機器の前に座り無心になって耳を傾けますのがその頃、大きな楽しみでありました。

その後、さまざまな作曲家のクラシック音楽にも興味が移って行き、次々と有名な曲に聞き入るのでした。

 

私の人生でクラシック音楽の鑑賞はなくてはならないものになりました。

多難な思春期の時代にありまして、音楽にどれほど癒やされ慰められましたことでしょうか。

 

 

夢中になって話す

 

私がいつまでも夢中になって話せますことがあるとすれば、それは何なのでしょうか。

そもそも、そのようなものが自分にあるのだろうかと少々心細くなってしまいました。

 

我を忘れて没頭できますことは何かと考えてみますに、これはと浮かんで来るものがありませんでした。

果たして人に、これこれですと伝えられますものは自分にあるのかどうか、まさにこれまでの生き方が問われる瞬間であります。

 

人に伝えられるような立派な人生を、はじめから決めて歩んで来たわけではありませんから、結果としてどうだったのかです。

結局のところ大事なのは人に対してよりも、自分にとって悔いなく生きて来られたのか、そしてこれからどう生きて行くのかであります。

 

はっきり申せば死の直前に、やり残したことはなく十分にやり尽くしましたと、自分自身に言えるのかがもっとも大切だと思うに至りました。

いえ死ぬまで待つ必要はなくて、今日という日を心おきなく生きているのかどうか、生きたのかどうかなのです。

 

夢中になって話せますのは趣味などの類いではなく、生き方についてのような気がします。

 

 

伝えられること

 

私が世の中に対して伝えられることがあるとしましたら、それは何かと思い巡らせてみました。

しかし敢えてお伝えしますようなものは、何一つ持ち合わせていないのを認めないわけには行きません。

 

一生涯忘れられない記憶に深く刻まれますようなこともなく、幸いと言うべきなのでしょうか。

細かいところまで目をやりますと、それなりの山や谷を乗り越えてきました。

 

これまですべて順調で苦い経験はなかったのかと問われれば、もちろん答えは否であります。

困難な中で学べましたことがいくらかはあったように思います。その困難というのは、自ら招き寄せたような気がいたします。

 

自分から行動を起こしました結果、その難題にぶつかり、それを何とか乗り切れたのです。

もっとも何もしないでも生きています以上、絶えず大小さまざまな波が押し寄せてまいります。

 

何事に対しても受け身でいますのか、それとも機会を見つけて積極的に買って出ますかで、その結果が異なって来ますのは確かであります。

 

 

 

無条件の信頼

 

数年前のNHK大河ドラマ「真田丸」の中で、次のように語っていました。

先が読めない時代でありますからこそ、いまを必死に生きるしか道はないのです。

 

この言葉は現代におきましても、十分に通用するのではないでしょうか。

つまり、いつの時代でありましても先を読みますのは困難きわまりない、それが実情と言えましょう。

 

ですから先を案じますよりも、いまやれますことに全力を傾ける、それ以外に進む道はないとわかるのです。

どこまでも自分を信じて、突き進んで行くのみであります。この自分自身を見限ることがあっては決してならないのです。

 

この世で生を受けています限り、何がありましても最後の最後まで自分という存在を信頼しつづけるだけです。

自分を信じ切るという思いに、どういう意味を込めればいいのでしょう。

 

この自分自身の本質の部分を信じて、ありのままを精一杯に生きます。

いまもこうして私を通しまして、脈動しております大いなる存在を感じており、無条件の信頼がそこにはあります。

 

 

鼠径ヘルニア4

 

日帰りの鼠径ヘルニア手術をしまして、2週間が過ぎました。経過はその後も順調かと言いますと、そうでもないのです。

幸い傷口はふさがり風呂にも入れるようになったのですが、相変わらず赤く腫れていまして、かがんだりしますと鈍い痛みがあります。

 

以前のようなヘルニアの膨らみはなくなり再発の様子もありませんので、それだけが救いです。

10日後、病院へ行きましたときには痛みよりかゆみが気になっていましたので、そう伝えましたら患部をよく洗うようにと言われました。

 

すすめられた専用のクリームを買いまして、それを毎日付けて洗っています。

いまのところ改善の兆しはありませんが、良くなりますように祈るのみであります。

 

その後、ネットで調べますと腫れは一時的なもので、1~2ヶ月すると消滅するとのことですので安心しました。

3週間後から痛みはほとんどなくなりまして、患部を手で洗いますときに治りかけのかゆみを感じるほどまでに回復しました。

 

 

基盤は自己信頼

 

自分にとって、人生はどんな意味があるのでしょうか。

私の場合は子どもの頃から、どれだけ人からやってもらったかという、受け取る内容に価値を置いていたように思います。

 

なぜそのように至ったのでしょうか。自信がなかったので自分からすすんで遊び仲間に加わるという経験がありませんでした。

年上の子から声をかけられて、仲間に入れてもらえるまで待っているのが普通でした。

 

ですからみんなと遊ぶ機会は少なくて、一人で遊ぶときが多かったように思います。

この傾向は大人になっても続いており、自ら何かを立ち上げて、みんなを引っ張っていくようなことはもっとも苦手とするところです。

 

とは言いましても、率先してみんなに役立つように何かをしようとも思いつきませんでした。

子ども時代に仲間意識というものに縁遠い生活を過ごしていましたので、逆に仲間同士のつながりに対して憧れを感じていますのも事実です。

 

人々に貢献できる力が自分にはあるという、確固たる自己信頼の必要性を痛感しています。

私にとって人生の意味とは、自己信頼を基盤にして他者にどれだけの貢献ができるのか。その経験を積極的に積むことなのです。