喜びを与える選択

 

病気にならないように健康に気を付けているというのを聞きますと、何か良い心がけのように思われます。

しかし、病気になる恐れから行動しますので、どんな努力をしましょうがいずれは病気になってしまうものなのです。

 

事故に出合うかもしれないという恐れから、保険に入るのも同様ではないでしょうか。

では、どうすればいいのでしょうか。

 

病気にならないようにと考えていますので、絶えず病気のことが頭から離れません。

そうしますと自分から病気を引き寄せ続けているのです。

 

病気と無縁になりますには病気のことを忘れるか、いっさい考えないようにします。

恐れから行動を選択するのではなくて、自分にとって心地よく、より強くなれます行動を選択します。

 

やってみて生きる力と喜びを与えてくれるようなものを選んで行くのです。

自分の心の声に忠実に従うと言いますか、理屈抜きでやってみたくなるようなものであることなのです。

 

 

自分に対する愛

 

一日を始める前にぜひ励行したいのが、自分への励ましと愛の喚起であります。

自分のとらえ方を大幅に変える必要があるのに気づいたのです。

 

自分に対しまして低い評価しかできないというのは、未だに本当の自分を知らずにいるからです。

そこで、いかに愛され価値ある存在であるかを知っている振りをしてでも、行動から変えますことが重要だったのです。

 

アニータ・ムアジャーニ著の「もしここが天国だったら?」に、次のような言葉があります。

自分のことを愛するまで、私の人生は何一つ最高の状態にはならなかった。

 

私が今経験している豊かさ、意味、喜び、そして他人に対する愛や優しさや忍耐は、

自分に対する愛の量に正比例しているの。

 

なぜ自分自身への愛の喚起が大切なのでしょうか。

動機が恐れからではなくて、愛から行動するのが自然であるからです。

そこには何が何でもこうしなければという強迫観念は全くありません。

 

 

自己愛と利他愛

 

自分を愛しますのは、自己中心の発想だと思っていました。

しかし、自分のことしか考えないのは利己的なのかもしれませんが、自己を無条件に愛しますのはそうではないのです。

 

聖書には「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉があります。

自分を愛していますのが前提として、隣人を愛しなさいと言っているのではないでしょうか。

 

自分さえも愛せない人は、他人を愛せるはずがありません。

自分を愛せない人というのは、他人から注がれています愛にも気づくことはないでしょう。

 

無条件に自己を愛しますのは、他者との関わりにおいてももっとも重要な資質であったのです。

そのためには自分よりも他者を最優先に考えられますほど、自我意識を高めて行かなくてはなりません。

 

どんな状況下でありましても、自己を見捨てず無条件に愛せるまでは、利他愛の精神も生まれて来ないように思われます。

アニータ・ムアジャーニ著の「もしここが天国だったら?」を読み始めまして、以上のことに気がついたのです。

 

 

倫理的に正しい道

 

ジェームス・ヴァン・プラグ著の「人生をもっと幸せに生きるために」には、次のような言葉があります。

すべてにおいて意識的に良い点を見つけるようにすれば、前よりはるかにポジティブな人生を送れるようになる。

 

ネガティブな思いを何とか変えようとしますよりも、いつも良い点を見つけるように努力します方が適切でありました。

そうしますだけで、自ずとネガティブな感情もなくなって行きますように思います。

 

どんな最悪と思われます出来事でありましても根気強く探せば、どこかに一抹の希望が見いだせるように思われるのです。

常に倫理的に正しい道を歩むと、言い換えることができるかもしれません。

また、次の言葉も勇気づけられます。

 

自分の意識レベルを上昇させて、出会うすべての人の中に神を見いだそう。

他の人のハイヤーセルフに気づき、つながることができるようになればなるほど、魂としての本当の彼らを理解できるようになる。

 

何か落ち着かないときというのは、その原因として人との魂レベルでのつながりを見失っている場合があります。

その人の高次の存在に気づくことができましたら、強い絆で結ばれていますのがわかり落ち着きを取り戻したのです。

 

 

人々との絆

 

もっと死後の世界について知りたくて、死に関します本をいくつか読んでいます。

一つがマイケル・ニュートン著「死後の世界が教える、人生はなんのためにあるのか」、

 

ハワード・ストーム著「臨死そして与えられた二度目の人生」、

それとエリザベス・キューブラーロス著の「人生は廻る輪のように」などです。

 

死が一つの通過点に過ぎないと知ってから、暗く忌まわしいイメージを払拭できましたことは嬉しい限りです。

いま生きていますことはとても素晴らしいのですが、それと同じぐらいに死の訪れも待ち遠しいのです。

 

地上界と同じように死後の世界でも、生きて行く上で特定の人々との絆が大きな支えになっています。

更にガイドという、より進歩した導き手があらゆる人生におきまして必ず付いてくれているのです。

 

よく考えてみますと、これは何という幸運な天の慈悲深いシステムでありましょうか。

焦っては躓いてばかりいます自分に、もっと大らかに生きていいのだよ、といつも言われていますように思います。

 

 

ただ望むだけ

 

例えば自分が神秘体験をしますには、それ相応の意識のレベルに達するまで修行をしなければならないと考えていました。

そうしますと当然、修行をしなければならない状況へと招かれて行くことになります。

 

このように何かを得るために前提条件を自分で勝手に作り上げていますので、そこから改めて行かなくてはなりません。

どうしてそのような条件を考えついてしまうのでしょうか。

 

小さい内から、価値のあるものは簡単には手に入らないと教え込まされて来たからです。

勉強ができて成績が優秀でなければ、欲しいものを得る資格はないと言われて育って来たのです。

 

だから今の自分では、いくら欲しくても何も得られはしないと思い込んでしまったのです。

また汗水流して手にしたものにこそ価値があると、ずっと信じて来たのです。

 

それはある意味で真実かもしれませんが、全て価値あるものは簡単に手にできないという誤った考えを抱くようになりました。

このことに気づけましたなら前提条件をいっさい付けずに、ただ望むだけです。

 

 

思いが実現する

 

人生には失敗は付きものだとよく言われており、私もそう思っておりました。

しかし、よく考えてみますと、必ずしも失敗する必要はないことに気づいていなければなりません。

 

もし、どこかで失敗しました場合には、それを周り状況や人のせいにしてはならないです。

成功しなかったということは自分の選択の間違いに気づかせてくれますサインに過ぎず、それだけのことなのです。

 

ですから、うまく行かなかった自分はダメな人間なのだと思う必要は全くなかったのです。

そもそも失敗しなくても目的は果たせるのですから、失敗は付きものという考えこそ改めなければなりません。

 

また、回り道もしたくなければやめればいいですし、やりたければやればいいだけの話です。

どちらを選びましても、いずれ目的地へたどり着くという点においては大差がないのです。

 

一刻も早く着きたければ、いっさい脇目もふらずに進んで行けばいいですし、寄り道をして遊びたければそれもOKなのです。

 

 

望んだ人生

 

一宇氏の著「人生の法則」を読み進めています。この地上界をどういう風に生きればいいのか、それをわかりやすく教えてくれています。

人生には良いことも悪いこともなくて、望んだ通りの現象が起きているだけでありました。

 

そして、そうした出来事は、自分がどのような人間になるのかをサポートしますための単なる脇役に過ぎなかったのです。

様々な苦労や辛くみじめな体験というのは、自らが望んだことでありました。

 

なぜ望んだのかと言いますと、そうした体験を通じてどんな困難にも負けない強い意志を持つ人間になりたかったのです。

これまでの失敗とか間違った選択も、そのような誤りをたくさんしてそこから多くを学び、より賢明な人間になるためでした。

 

どれほど失敗したとしましても、劣等感を持ったり自分をダメな人間だと思ったりする必要は全くなかったのであります。

成功や失敗の数々は、こうありたいと思います自分になるためのお膳立てであって、当初から人生に組み込まれていたのです。