死後の世界

 

死んだ後の人生について、漠然と思い回らすときがあります。

確かに一度でもあの世に行ってみなければ、死後の世界についての確証が持てないのは仕方がありません。

しかし、死んだら自分のいっさいは消滅すると考えます方が、無理があり受け入れ難い気がするのです。

 

霊魂の不滅とか霊的な事柄に関して、古代からの言い伝えや膨大な文献類が物語っていますことが全て偽りとは考えられません。

死んでも生き続けると思う方が自然ではないでしょうか。

 

そうあって欲しいという希望的な見方かもしれませんが、授かった永遠の命をどこまでも信じて生きて行きたいと思うのです。

命に終わりというものがありませんからこそ、ひとつひとつに心を砕いて行けますように思います。

 

 

塞翁が馬

 

自分に関しますあらゆることは、自らがつくり出しているということを押さえておく必要があります。

ですから、どのような被害者はいませんし、加害者も全くいないということです。

 

これはある意味では希望であり、救いでもあると言えるのではないでしょうか。

例えば、落ち込むときというのは、そのように自分が反応しているだけなのです。

決して他のものが意図を持って、自分を落ち込ますわけではありません。

 

自分の考え方や気持ちを変えるだけで、いつでも幸せいっぱいの心境になれるのです。

自分の考えや身の処し方に責任を持ち、常に前向きな姿勢を保ち続けていましたら、落ち込むこともなくなるでしょう。

 

もともと物事自体には良い悪いがなく、自分が下していた善悪の判断をやめさえすれば一喜一憂のパターンから抜け出せます。

「災い転じて福となす」とか「塞翁が馬」という言葉が示しますように、一概に幸不幸というものは決められないのです。

 

 

主客転倒

 

何度も取り上げていますが、私とは見るものであって見られるものではないということです。

対象を自分と同一視しないように注意しなければなりません。

 

好き嫌いの感情や選り好みしますことも、いずれは手放していく必要があります。

なぜなら、実在しますのは観察する主体であります自分で、観察されるあらゆる客体には実態がないからなのです。

 

特定の事物にこだわったり愛着を感じたりしますあいだは、それを捨て去りますのは難しいかもしれません。

ただそれらは単なる対象物であって、自己とはっきり区別しておかなくてはならないのです。

 

往々にして自分に価値がないように思えてしまいますのは、価値を与える側の自分を対象物と見なしてしまうからです。

体験しています諸々のことと、それらを体験しています自分とを混同してしまうのです。

 

体験します自分という主体があってはじめて、体験します様々な客体が生じて来るということを忘れてはならないのです。

私という存在

 

死後の世界では同じ成長レベルの人たちと共有意識を持つことになります。

できれば地上界にいる内から、個人的なことは徐々に手放していくのが望ましいと思います。

 

そこで、自分固有の思考や心のあり方を今後、どのように考えていけばいいのでしょうか。

それらは排除していくべきものなのでしょうか。

 

もっともアイデンティティは将来にわたって継続されていき、どんなに成長しようがなくならないと言われています。

自分らしさというものは、いずれ人間らしさに取って代わるべきだと思います。

 

そもそも、私とは何なのでしょうか? 私という存在は思考でも感情でもなく、もちろん肉体でもありません。

映画のスクリーンのようなもので、やって来るものを味わい体験する者なのです。

 

来ては去っていきます様々なエネルギーを受けとる受信機であり、内から湧き出しますエネルギーを発する発信機と言えます。

本来、何ものにも染まらず無色透明であって純粋に観察する者なのです。それが私であり、あなたなのです。

 

 

地上的な生き方

 

本能のまま、あるいは欲望に従い生きますなら何ら動物と変わらなくなります。

霊優位の生き方をめざすべきなのですが、なかなか思うようには行きません。

 

まだまだ満たされない思いが渦巻いておりますのが現状です。

ところで、死を迎えました人がまず赴くところは、地上界とよく似た幽界またはブルーアイランドと呼ばれています。

 

そこでは望みましたことが、すぐ現実となる世界であります。

まさに天国のようなところなのですが、そこで思う存分に欲望を満たしきった後で、誰もがその空しさに気づき飽きてしまうということです。

 

心は自ずと精神的なものを追い求めるようになると言うのです。

段階を踏んで地上的な欲望や喜びから卒業し、新たな霊界の世界へと進んでいくのです。

 

一部の人々を除いて誰もが幽界で過ごした後に、霊的な生き方へと旅立っていくわけです。

ですから望むことを無理矢理に捨て去らなくても、いいのではないかと思うのです。

 

 

やれる範囲内で

 

もっとも成長を遂げました段階にいますのがいまの自分なのですが、何とも心もとない心境におちいってしまいがちです。

例えば、いま感じています大切なことを書こうとしましても、なかなか言葉が浮かんで来ないのです。

 

着実に進化の道を歩んでいるのでしょうか、という不安がよぎって来ます。

しかし、この「着実に」というのが、ある意味でくせ者かもしれません。

 

人生は一直線に進んでは行かないのは、少し考えてみればわかりそうなものです。

実際、人生は紆余曲折の連続でありますのが実情なのです。

 

あの世はもちろんのこと、この世でさえも、わからないことだらけなのですから、手探りで進みますしかありません。

いくら頑張ったとしましても、いまの自分がやれます範囲内のことしかできないという気づきに至ってようやく落ち着くのです。

 

 

選択を意識する

 

自分の約束事は必ずやり通すという、けじめだけはこれからもしっかりと付けておく必要があります。

約束事とは今後、選択に迷ったときは心の声に従い、危険な道の方を選ぶことです。

 

もう一つは、以前から続けています一日の日課を黙々とやり抜きます。

特に注意しなければいけないのは、今まで決断を避けて適当に済まそうとするときが往々にしてあったということです。

 

決めなければならないときは先送りせずに、その場で心に向き合って危険な方を選択しますように努めます。

まだ誓うまでには至っていませんので、努力に委ねるしかありません。

 

本当にやりたいことというのは、ほぼすべてが危険な道でもあります。意識して選択しなければならないのです。

 

 

危険な道

 

再度、岡本太郎氏の「自分の中に毒を持て」を読んでいまして、次の言葉が目に飛び込んで参りました。

 

『危険な道をとる』

いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。

死に対面する以外の生はない。

ぼくの…ポジションはその決意の実践だった…

 

安全な道をとり続けるか、あるいは危険な道をとるかを決断し、自ら誓うまでに自分を追い込まなければならないのでした。

そして決意しましたからには当然、それを実践しますことが求められます。

 

意識して選択しますときには自分の心に従い、敢えて危険な道をとってきました。

しかし、常にそうではありませんでした。まだまだ安全な道を選びます方が多かったように思います。

 

些細なことばかりでしたが、これまで決意し誓いました約束事はその後、間違いなく実践できていました。

何が問題かが、かなり見えてきましたように思います。