自分自身に問う

 

「自分の中に毒を持て」では、自分自身の最大の敵は、他人ではなく自分自身だと言い切っています。

事実その通りでありまして、認めないわけには参りません。

 

少し考えてみればわかりますが、小さな事柄から大きな決断まで、日常ではそれこそ瞬間瞬間、選択に迫られているのです。

そして気づかないうちに、いろいろ言い訳をしながら楽な方を、あるいは安全な道を選んでいるケースが大半です。

 

著者の岡本太郎氏は言います。

『ぼくが危険な道を運命として選び、賭ける決意をはっきり自覚したのは二十五歳のときだった』

『それまで、ぼくでもやっぱり迷い続けていた』と。

 

やがて『人間の本当の生き方は…もっとひろく、そしてもっとぎりぎりの、自分という人間の全存在、

生命それ自体が完全燃焼するような生に賭けるべきなのではないか、

そういう自分自身への問いに全身でぶつからずにはいられなかった』

と語っています。

全くのところ、自らの根源的な問いに全身でぶつからなければ、いつまでも迷い続ける習癖を断ち切ることができません。

 

 

真心を尽くす

 

困難や苦しみを避けていましては、いつまで経っても人間的な成長は望めません。

思考の限界を突き破ることができず、より高い見地に立てないのです。成長に現状維持というものはあり得ません。

 

甘んじて後退するか、それとも勇気を振り絞って前進するのか、のどちらかしか選べないのです。

楽な道を選ぶのか、あるいは険しい道を敢えて選ぶのか、という二者択一です。

なぜ楽な方ではなく、険しい方を選択しなければならないのでしょうか。

 

岡本太郎著の「自分の中に毒を持て」を再度、読み返してみました。生ぬるいことを言っている場合ではない、と思い知ります。

瞬間瞬間を新しく生きますには、過去の蓄積物をどんどん捨てて行くことでした。

何も持たずに無条件でありさえすれば、自ずと心身とも身軽になって行くではありませんか。

 

本当に生きるためには、自分と闘わなくてはなりません。

自分らしくある必要はなくて、むしろ人間らしく生きる道を考えればよいのです。

 

『自分に対して真心を尽くすというのは、自分に厳しく、残酷に挑むこと』

であったのです。

 

霊優位の生き方2

 

自分の全人生を賭けますほどに価値のあるものとは、いったい何でしょうか。

次から次へと自分を駆り立てます、肉体本能や欲望をすべて満たすことでしょうか。

 

あるいは、この世に生まれて来た目的を忠実に果たすことなのでしょうか。

理性的に考えてみれば、後者でありますのに疑う余地はありません。しかし、その理性がいつも優位に働くとは限らないのです。

 

内からの抑えがたい、様々な感情や衝動に圧倒されてしまうときもあります。

その際に、どのように対処しますのかがとても大切で、頭から無視をしようとしても徒労に終わってしまうものです。

 

そうした感情がなるべく速やかに過ぎ去って行きますように、賢明な態度をいかにして取れますかどうかです。

日々、その訓練の場と考えなければなりません。

 

一時的に屈服したとしましても尾を引かないように気持ちを切り替え、人生の目的に照準を合わすことが重要です。

いずれにしましても苦しみを味わいながらも厳しい状況を乗り越えないと、価値あるものは手に入らないのです。

 

 

人生は短い

 

どんなに長く寄り道をしましょうとも人間であります以上、いつかは霊的成長の道を歩み続けます運命にあるようです。

最終的に目指すべきところは、すでに決まっているということなのです。

 

ほかにやりたい事柄があります内は、それを手放して忘れ去るのはとても難しいものです。

無理に押さえつけようとしましても欲求不満に陥るだけでして、そんな状態ではどんな崇高なこともできません。

 

やり残しがないように、やり遂げたい目標や望んでいます夢などを思う存分に追い求め、叶えればよいのです。

そして、もう十分にやれた、飽き飽きして来たと言えるような境地に至りましたら、そこから霊的成長をスタートさせればいいのです。

 

ただし、この地上で個々に与えられています時間はわずかであり、人生はあっという間に終わってしまうものです。

この世を去りますときになって、人生を本当に価値のあることに費やさなかったと後悔しても遅いと思うのです。

 

 

大家族の一員

 

人のために自分を役立てることが、唯一の宗教だとシルバーバーチは繰り返し説いています。

霊界では、それが常識となっていまして、地上界でもそうなりますように何度でも述べて行くつもりだとも言っています。

 

それを単に知っていますのと、そのように生きますとの間には格段の差があります。人の役に立つようにと、幾度も思い起こして行くしかありません。

人間は肉体を通して自我を表現している霊魂だとしますと、自我というものをどのようにとらえているのかが重要になります。

 

神であります大霊から分霊をいただいて、それを宿していますのが人間と言われています。

それは取りも直さず、私たち人間が大霊を親とした大家族の一員だということです。兄弟姉妹でありますからには助け合い、協力し合いますのは当然でしょう。

 

同じ家族内で奪い合ったり、争ったりは本来できるものではないのです。そして大霊からは限りない親の愛を受け続けています。

にもかかわらず、地上においてそのことになかなか気づけないでいますのが現状です。

守護霊に見守られて

 

臨死体験をした人たちが口をそろえて、天国でイエス様か神様のような光り輝く存在に出合い自分に優しく接してくれるのだったと言います。

その光の存在というのは、誰にでも付いているという守護霊ではないかと思われます。

 

この世に誕生して以来、ずっと見守り導いてくれています霊的存在です。

人生の節目となります大事な場面で、くじけそうだったときに勇気と励ましを与えてくれていたのです。

 

大変なときにも何とかくぐり抜けて来られましたのも、自分を影で鼓舞してくれていたからだったのです。

そして、死後も霊界の案内人として、引き続き付き添ってくれる有り難い存在です。

 

人生で自分がやったことや思ったことなど、何もかも自分以上に知り尽くしていますのが守護霊なのです。

その霊とあの世ではじめて対面し、これからの自分の進むべき進路を的確に指し示してくれるのです。

 

 

知識と責務

 

霊的視野で見るとはどういうことなのか、それは思っていますほど簡単にできるものではありません。

普通に上辺だけを見がちなところを霊眼で見るように、ある普遍的な視点で深く見て行くことなのでしょう。

 

これは本当に「知る」とは、どういう意味かという問題にも関係して来るように思います。

限界のあります五感を使って知るのですが、本質をつかむように努力しますしか方法が見当たりません。

 

死後、永遠に生きますのに比して、つかの間に過ぎない地上世界でのどんな出来事にも、右往左往しないことです。

霊的な摂理をもっと理解して行かなければなりません。摂理に則った生き方に焦点を合わせて行くのです。

 

シルバーバーチは言います。

『知識は掛け替えのない宝です。人生の全体を視界におさめて、いかに生きるべきかを教える羅針盤のようなものです』と。

 

知識は絶えず求め続けるべきものであると言います。また、

『その知識には、責任が生じることを忘れてはなりません。

一方において知識を得れば、他方においてそれを生かして使うべき責務が生じます』

とも言っています。

責任を背負ってでも、知らないよりは知っている方を選びたいです。

 

 

霊的真理の学び方

 

自分は霊的存在でありますことは頭の隅にあるのですが、だからどうなのか、どうすればいいのかがまだよくわかっていません。

人生の目的は霊的成長にあるのですが、そのための計画や目標というものを持たずにいますから、こういう状態になるのでしょうか。

 

霊的真理の学習にしましても特に取り決めていませんので、思いついたときにあるところを学んでいるというのが現状であります。

少なくとも学習のアウトラインだけでも決めておいた方がいいのかもしれません。

 

テキストとしまして、スピリチュアリズム普及会の「スピリチュアリズム入門」「続スピリチュアリズム入門」「シルバーバーチの教え」を使い進めています。

一通りは読み終えておりますが、再度メモを取りながら学ぼうとしているところです。学習の進め方にも創意と工夫が欠かせないようであります。