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豊かさを求める

 

この宇宙が生まれました理由のひとつは、より豊かさを追求するためではないかと思われます。

それを実現して行く媒体として人間や他の生物が創造されまして、豊かさを生み出す源泉として自由意志や創造性、想像力などが賦与されたように思うのです。

奴隷のように酷使されたり、操作されたりするために人類が生まれたのでは決してありません。

 

全体がより豊かになりますには、構成員の個々が創造性を発揮して豊かになり、更なる豊かさを求め続ける意思を貫かなければなりません。

それから各個人が個人の域を一刻も早く抜け出し、グループから全体へと思考の枠を広げて行きまして、知恵を最大限に働かせる必要があります。

真の個人の豊かさは全体の豊かさから、もたらされるものであるからです。

 

個人が行います第一歩としまして、信頼に裏付けられました愛を自身と周りにできる限り満たします。

そして、周りのありとあらゆる存在の本質である愛を見届けます。

どんな出来事にも意味があることを認め、それらを謙虚に受けとめます。

この人生は自分を磨く修行の場と考えますと、何が来ようとも恐れるに足らずです。

 

 

心を満たしておく

 

何かをやっていますときに、それが少しでもうまく行かないとイライラし、「いい加減にしてください」という言葉が出て来る場面にときどき遭遇します。

なぜイライラするのでしょうか。また愚痴る声は、いったいどこから出て来るのでしょうか。

 

そもそもそんな些細なことで、イライラするほどに短気でいますのが不思議でありまして信じられないのです。

まったく意識できていませんでしたが、そのときの心はここにあらずの状態であったことです。

 

そして別人のようになって、言うことを聞かない相手やモノに恨みを晴らしていたようなのです。

それは一瞬のうちの出来事でありまして、すぐに自分の異常な行動に気づいて我に返るという具合でした。

 

ずっと以前に取り上げました記事と重なる内容でもあります。

心にスキがありますと、いつでもこうした事態を招くというのがようやくわかって来ました。

 

愚痴が出て来ますのは何かコントロールしようとしまして、それができない焦りからではないかと思われます。

自分の内側や外側には、いわゆる闇の部分に当たるものが存在します。

だからといって、それらを敵視したり恐れたりしますと、ますます相手を助長してしまいます。

 

どのように向き合って行けばいいのでしょうか。

闇には闇の存在理由がありますのを、まず認めて行かなければなりません。

 

同胞と向き合う

 

先日、久しぶりに親しい人と話す機会がありました。相手の方が一時、体調を崩されて、その理由をいろいろと言われていました。

それを聞きました後、そうではなくこうすべきだと諭すように自分は言っていたのです。相手のあり方を駄目だと否定していましたのに、後で気がつきました。

 

どれだけ優しく言ったとしましても、自分の意見を押しつけていたことに変わりはありません。どうしてこうした行動に走ってしまうのかを考えてみました。

ひとつには、相手を上から目線で見ていました。気づかない内に傲慢な姿勢で応対していました。そうでなければ、相手を批判するような接し方は生まれて来なかったはずです。

どんな高尚なことを考えて行きましても、人を見下し驕りある態度が出て来ます素地が自分にあるということです。

それを認めて警戒を怠らないで行きますと共に、謙虚さをもっと養って行かなければと思いました。

 

ふたつ目としまして、人にはそれぞれ、その人自身を常に見守っています存在がいます。

ですから、人のことはその人に任せまして自分が心配します必要はなく、それよりも自分を正しますことに専念すべきなのです。

 

みっつ目として、ひとつ目と関連しますが、相手が誰でありましても、その相手と自分とは人間的に全く対等であります点です。

たとえ年齢や地位などがどんなに離れていましても、それらは本質にはいっさい関係がないのです。

同じ道を歩みます同胞として、お互いに向き合っているのですから、それを決して忘れてはならないと思いました。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

全肯定の選択

 

自分とは何かにこだわっていましたのは、何か自分が特別な任務を背負っているかのように思っていたからでした。

と言いますのは、本質的には他の人たちと異なるものではないと認めてみますと、自分が何者であるかに執着する理由がなくなっていますのに気がついたのです。

 

ありのままの自分を素直に受け入れられまして、思うところに従いまして生きて行けそうなのです。

ずっと問い詰めていました重圧が取れましたような身軽さを感じています。

これまでやって来たことに間違いはなかったという肯定感に包まれまして、今やっていますこともベストな選択でありますのがわかるのです。

 

何を選びましても、最終的な目的地にたどり着く道を歩んでいますのに変わりがないのです。

悩んだりあせったりする必要はまったくなく、失敗を恐れます根拠もいっさい見あたらなくなりました。

これまで問題と見なしていました、どんな事態も全て善なるものであったのがわかります。

 

そうした出来事のどれひとつでも欠けていましたら、今の自分はあり得なかったのですから、全部が正解の連続であったと言えます。

これから行いますのも、好ましい物事しか考えられません。

どれもが正しいのですから、よりワクワクするようなこと、自分に一番マッチしそうなものを選ぶだけでよいのです。

間違いや後悔する場合がなくなり、そこにありますのは信頼です。

 

 

望むことを生きる

 

これだけは捨て去るわけにはいかない願望、あるいは理想はいったい何なのでしょうか。

そういうものが果たして自分にもありますのでしょうか。

勝手に向こうの方から表れて来るのではなくて、やはり自分で見つけ出して行かなくてはなりません。

 

これまでに、どういうときに、どんなことを願っただろうかと振り返ってみました。

困りきって立ち往生しましたときに、すぐそばに力になってくれます人がいたら何と心強いかと思いました。

 

また、逃げ出したいほどみじめな目に会いましたとき、自分にどんな状況でも乗り越える強さと勇気を持ち合わせていたならと、願わずにいられませんでした。

大勢の人が寄り集まりました席で、自分が名乗り出るチャンスがありましたときも、何ものをも恐れない勇気と自信がみなぎるほどあれば、即座に行動しましただろうにと思うのでした。

 

ほかにも似た例がたくさん出て来そうですので、集約してみますと、

①いざというとき、必ず頼れる人がいると確信している。   ②すでに勇気や強さが自分に備わっていることを認めている。 ③自分は信頼に足り得ると知っている。

結局のところ、人間の本性を信頼する自分が、強さや勇気、自信の源泉となりますこと、自分が信頼に値しますことを自覚しているのです。

 

 

個は全体の縮図

 

なぜ、心を閉じてしまうのでしょうか。もうこれ以上は、そとの世界にかまってはいられない、受け入れられないと思ってしまうからです。

どうしてそこまで、しなくてはいけないのか、あるいはこんな好きでもないことをやりますのは、もうたくさんだと思うわけです。

 

好きか嫌いかに振り分けまして生きて行こうとします。個人的な意志を捨てていきます方向から自ら、はずれて行くつもりなのです。

これでは、またまだ個人的な執着が手放せない状態でありますのを認めなくてはなりません。

 

嫌がっています心に無理強いをいたすのは慎まなければならないからです。

未だ個の確立が成し得ていないことをここで率直に認めます必要があります。

 

そうしますと、これから改めて個の確立に向けましての軌道修正から行っていかなければなりません。

個を確立するとは、どういうことなのでしょうか。まず個別であります意味を理解していなければならないでしょう。

 

個別を重んじますとき、自己の思うところのものを尊重して行きます態度に揺るぎがありません。

つまり自己は他と違っていまして構いませんし、むしろ違って当然であると自覚しています。

しかも、根本におきましてはまったく同一でありますことや、個としましての自分というものが全体の縮図に過ぎないのも熟知しております。

 

 

自分を取り戻す

 

最高の人間について自由に想像し、それを理想として励んでみるのも有益だと思います。

しかし、究極の進化について正確に推し量るのは、よほど進化した人間でもなければ、できるものではなかったのです。

 

それよりも、努力すれば解決できる、目の前の問題に、もっと目を向ける必要がありました。

いま、かかえている個人の問題から始めて、地球全体の問題にまで視野を広げてみるという意味です。

 

たとえば、いま個人レベルで気をつけていますのは、①ブログ更新を継続していく、②日々仕事の改善をはかる、③家族のコミュニケーションを深める、などが上げられます。

そして課題となっているのは、毎日の生活で、どのようにして黙想を定着させていくかです。

 

黙想する重要性については、すでに著名な方々が、各方面で指摘されています。

ここで申し上げたいのは、「自分自身」を取り戻すには、黙想が最良の方法であるという点です。

 

結局のところ、個人レベルで抱えているのは、いかに「自分自身」と根気よく向き合っていくかという問題です。

そして、つぎの言葉が現実味を帯びて、よみがえって来ました。

「自分自身に連れ行ってくれる道をたどるほど、うとましいことはありません!」

このうとましく思っています自分と、今後どのようにして折り合いをつけますか、それが最優先の課題であります。