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エゴを受け入れる

 

アニータ・ムアジャーニ著の「もしここが天国だったら?」から印象的な言葉を紹介します。

 

エゴは私たちの敵ではなく、私たちはそれに打ち勝つ必要はありません。

エゴは物質世界で生き延びるために必要なものです。

 

精神世界の多くの本では、エゴとか自我意識というものを諸悪の根源のように扱われていましたので、私もそのように受け取っておりました。

しかし、そのようなとらえ方が実は成長の妨げになっているとしましたら、今後はどのように考えて行けばいいのでしょうか。

 

自己実現して行く上でエゴは否定されるべきものであって、抑圧すべき対象として教わってきました。

ところが地上界で生きて行く上で、エゴはなくてはならない要素であったのです。

 

自分の中にエゴがありますからこそ、それと対比します本当の自分に向かって行けるのです。

エゴをしっかりと受けとめ、受け入れれば受け入れるほど利己性がなくなって行くというのは、とても納得の行くとらえ方だと思うのです。

 

 

自分が作り上げている

 

一宇氏の著「人生の法則:3000人の前世療法で明らかになった真実」で、最初に次のように語られています。

あなたの人生は、あなたの思い通りになっています。

 

良い悪いは別にして、確かに自分の思い通りになっていましたのは間違いないと言えます。

例えば、人生とはそんなに甘いものではないと思っています限りは、甘くない人生を歩み続ける羽目になります。

 

これはこういうことだと自分で決めつけ思い続けていましたので、そのようなことが現実化してしまっていたのです。

こうした前提条件をすべて破棄して、真っ新な気持ちで取り組んでみますと、スムーズに物事が進んで行きますのに気づきます。

 

本来、中立ないし好ましいことしか起こらないという言葉にも頷けるのです。

無条件に全てを受け入れて認めます段階に行けますように、心を空にして目の前のことに向き合うことを心がけています。

 

 

ユニークな存在

 

相手の意見がどんなに自分の考え方とかけ離れていたとしましても、そうした相違がお互いに理解し合う上での障害にはならないということです。

むしろ、多様な考え方を受け入れて幅広い視野を持つためには好ましい状況と言えます。

 

たとえ突拍子もない発言に聞こえましたり、相容れない主張と思われたりしましても、その人にとってはそれが真実なのです。

受けて来ました教育や置かれた環境などが人によってまちまちなのですから、培って来ました人生観や世界観なども違っていて当然であります

 

それこそ世界の70億人の一人ひとりがユニークな存在と言えるのでないでしょうか。

自分の考えと違っていますことに腹を立てましたり、相手を否定したりしましても何の意味もないことと言えます。

 

意気投合できた人たち同士でさえも、人が違えば主義主張は同じであるはずがないのです。

そこを念頭に置いて他者と付き合って行く必要があります。

 

 

誤りを認め許す

 

「どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのか!」と過去の自分を悔やむときがよくありました。

その度に自責の念にかられて、いてもいられなくなってしまうのです。

 

当時は、それなりの指針や目的などがあって行ったのであり、いい加減にしたわけでは決してないと認めるまで、自分を苦しめていました。

それ以降は完全に癒やされたとは言えませんが、脳裏にかすめるくらいで済んでいます。

 

過去のすべての行為を認めて自分自身を許しましたが、一度だけく何度も許さなくては拭えないもののようです。

後悔の念と言うものの、その執拗な影響力の大きさを思い知りました。

 

人生に失敗は付きものであって、その失敗の中に新たな気づきや学びが得られるのだと理解しなければなりません。

過去の誤りを、悔いるのをやめて前向きに受けとめ、これからの糧とする決意が必要でした。

 

 

豊かさを求める

 

この宇宙が生まれました理由のひとつは、より豊かさを追求するためではないかと思われます。

それを実現して行く媒体として人間や他の生物が創造されまして、豊かさを生み出す源泉として自由意志や創造性、想像力などが賦与されたように思うのです。

奴隷のように酷使されたり、操作されたりするために人類が生まれたのでは決してありません。

 

全体がより豊かになりますには、構成員の個々が創造性を発揮して豊かになり、更なる豊かさを求め続ける意思を貫かなければなりません。

それから各個人が個人の域を一刻も早く抜け出し、グループから全体へと思考の枠を広げて行きまして、知恵を最大限に働かせる必要があります。

真の個人の豊かさは全体の豊かさから、もたらされるものであるからです。

 

個人が行います第一歩としまして、信頼に裏付けられました愛を自身と周りにできる限り満たします。

そして、周りのありとあらゆる存在の本質である愛を見届けます。

どんな出来事にも意味があることを認め、それらを謙虚に受けとめます。

この人生は自分を磨く修行の場と考えますと、何が来ようとも恐れるに足らずです。

 

 

心を満たしておく

 

何かをやっていますときに、それが少しでもうまく行かないとイライラし、「いい加減にしてください」という言葉が出て来る場面にときどき遭遇します。

なぜイライラするのでしょうか。また愚痴る声は、いったいどこから出て来るのでしょうか。

 

そもそもそんな些細なことで、イライラするほどに短気でいますのが不思議でありまして信じられないのです。

まったく意識できていませんでしたが、そのときの心はここにあらずの状態であったことです。

 

そして別人のようになって、言うことを聞かない相手やモノに恨みを晴らしていたようなのです。

それは一瞬のうちの出来事でありまして、すぐに自分の異常な行動に気づいて我に返るという具合でした。

 

ずっと以前に取り上げました記事と重なる内容でもあります。

心にスキがありますと、いつでもこうした事態を招くというのがようやくわかって来ました。

 

愚痴が出て来ますのは何かコントロールしようとしまして、それができない焦りからではないかと思われます。

自分の内側や外側には、いわゆる闇の部分に当たるものが存在します。

だからといって、それらを敵視したり恐れたりしますと、ますます相手を助長してしまいます。

 

どのように向き合って行けばいいのでしょうか。

闇には闇の存在理由がありますのを、まず認めて行かなければなりません。

 

同胞と向き合う

 

先日、久しぶりに親しい人と話す機会がありました。相手の方が一時、体調を崩されて、その理由をいろいろと言われていました。

それを聞きました後、そうではなくこうすべきだと諭すように自分は言っていたのです。相手のあり方を駄目だと否定していましたのに、後で気がつきました。

 

どれだけ優しく言ったとしましても、自分の意見を押しつけていたことに変わりはありません。どうしてこうした行動に走ってしまうのかを考えてみました。

ひとつには、相手を上から目線で見ていました。気づかない内に傲慢な姿勢で応対していました。そうでなければ、相手を批判するような接し方は生まれて来なかったはずです。

どんな高尚なことを考えて行きましても、人を見下し驕りある態度が出て来ます素地が自分にあるということです。

それを認めて警戒を怠らないで行きますと共に、謙虚さをもっと養って行かなければと思いました。

 

ふたつ目としまして、人にはそれぞれ、その人自身を常に見守っています存在がいます。

ですから、人のことはその人に任せまして自分が心配します必要はなく、それよりも自分を正しますことに専念すべきなのです。

 

みっつ目として、ひとつ目と関連しますが、相手が誰でありましても、その相手と自分とは人間的に全く対等であります点です。

たとえ年齢や地位などがどんなに離れていましても、それらは本質にはいっさい関係がないのです。

同じ道を歩みます同胞として、お互いに向き合っているのですから、それを決して忘れてはならないと思いました。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。