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思いが現実になる

 

朝、荷物を配達し終えました帰り道、左折しようと曲がり始めましたとき、向こうから来ました車と、もう少しでぶつかるところをストップしました。

相手の運転手は怖い顔をして文句を言っていました。

それからバックし出しましたので、その横を通って進みましたが、なおも怒りをあらわにして怒鳴っている様子でした。

 

出会い頭での出来事でしたので、どちらが悪いとかは決められませんのに、どうしてあの人はあんなにも腹を立てていたのでしょうか。

たまっていました欲求不満を発散させたのかもしれません。

 

よく考えてみますと、自分にも身に覚えがありますので、相手の言動をとやかく言う立場にありません。

でも、あの人はなぜあんなにも怒っていたのだろうかと不思議に思ったことが、今までになかったでしょうか。

 

ムシャクシャした気持ちを持っていますと、それを逆なでしますような事態に遭遇するものであります。

また、何気なく思っていますことが、たちどころに現実となりますケースは意外と多いのではないでしょうか。

 

たとえば、目の前の信号が赤になるかもしれないと思って進みますと、その通りになってストップしましたのは一度や二度ではありません。

起こってほしいことよりも、起こってほしくない状況を考えてしまうのが常でありまして、それこそが問題ではないでしょうか。

 

最近は、起こってほしいことだけを思うように心がけております。そうしますと、たいがいはその通りになりますから面白いです。

 

 

自分の思うところ

 

正直なところ、自分の思うところのものを、必ずしも尊重して来ましたとは申せない気がいたします。

むしろ無視をして来ましたのが、大半でありましたようにも思います。

自分に自信が持てなかったからでありますが、そうは言いましても無視の出来ないことも何度かありました。

 

たとえば、食べ物に対する安全意識は人一倍に強く感じておりました。

野菜作りを始めましたときは、無農薬による有機栽培にこだわり続けていました。

パン作りにおきましても、ずっと無添加の天然酵母パンのみを焼いているわけです。

ときどき自分でも、なぜここまでこだわってしまうのだろうかと不思議に思ったりいたします。

 

また、普通の人なら読まないであろうと思われます本に興味を抱きまして、少々高くても手にしまして読み始めるのです。

一時期、古代の日本歴史に、はまり込みまして日本のルーツを探りますのに熱を上げていました。

 

学校で歴史を習いましたときには、まったく関心がなかったのにおかしなものです。

教科書に載ってはいない出来事や表に出ていない事柄の中に、もっと何か真実が含まれていますような気がしましてならないのです。

 

これは日本だけでなく世界の国々におきましても、過去におけます大半の史実の数々は捨て去られました形跡が残っています。

ですから、知らされていない事実は膨大でありますに違いないのです。

このブログを続けていますのも、思うところがありますからそれに従っているのです。

 

 

個は全体の縮図

 

なぜ、心を閉じてしまうのでしょうか。もうこれ以上は、そとの世界にかまってはいられない、受け入れられないと思ってしまうからです。

どうしてそこまで、しなくてはいけないのか、あるいはこんな好きでもないことをやりますのは、もうたくさんだと思うわけです。

 

好きか嫌いかに振り分けまして生きて行こうとします。個人的な意志を捨てていきます方向から自ら、はずれて行くつもりなのです。

これでは、またまだ個人的な執着が手放せない状態でありますのを認めなくてはなりません。

 

嫌がっています心に無理強いをいたすのは慎まなければならないからです。

未だ個の確立が成し得ていないことをここで率直に認めます必要があります。

 

そうしますと、これから改めて個の確立に向けましての軌道修正から行っていかなければなりません。

個を確立するとは、どういうことなのでしょうか。まず個別であります意味を理解していなければならないでしょう。

 

個別を重んじますとき、自己の思うところのものを尊重して行きます態度に揺るぎがありません。

つまり自己は他と違っていまして構いませんし、むしろ違って当然であると自覚しています。

しかも、根本におきましてはまったく同一でありますことや、個としましての自分というものが全体の縮図に過ぎないのも熟知しております。

 

 

つながりを取り戻す

 

ある面で今の社会は、私たち一人一人をまず分断させておいて生き延び、そして孤立させまして繁栄を誇っていますように見えてしまいます。

かつて小さい頃、周りにいますのは、ほとんどが顔見知りの人たちばかりでした。

 

両親だけでなく、そういう人たちからも怒られたりほめられたりして育って来ました。

隣近所はお互いに助け合うというのも普通でありました。それが今はどうでしょうか。

 

子どもの数が減りましたからでもありますが、外で遊ぶ機会が少なくなって、隣近所もあまり知らない人たちばかりです。

たまたまそういう人と出会いましても、お互いによそよそしく接してしまいがちです。

アパートやマンションなどでは隣同士で挨拶したり話したりはおろか、顔さえ知らないのが普通になっています。

 

家庭も核家族が増えましてお年寄りの知恵は途絶え、同居によって年長者が果たして来た役割は失われました。

また、共稼ぎが当たり前になり生活面で気楽であります反面、子育てなどで相談相手がいなくて一人で悩みをかかえ込む結果になりました。

その一方で、三世代同居の時代では考えられなかった老後の問題がのしかかって来ます。

 

小世帯が増えて行きますと、住宅や生活必要物資などの需要が伸びて各企業は潤います。

老人世帯が多くなりますと、民間の医療や介護サービスの充実が一層求められて来ます。

 

普段、人の身に起こりましたことは、他人事だとしてつい見過ごしてしまい、自分に降りかかって来てから大あわていたしますのが常であります。

人のことを自分ごとと思えない、対岸の火事してとらえてしまう、その理由は何でありましょうか。

 

 

信頼を確立

 

どうして自己中心的になってしまいますのか?この問いから始めてみます。

人間としてまだまだ未熟であります証拠と申せますが、何よりも自己の確立が出来ていないからではないでしょうか。

 

例えば、仮に一人ぼっちになったとしましても、生きて行くだけの強さが自分にありますのかどうか。

また、人からどんなに誤解されましても、なおもその人と友好的に接することが出来ますでしょうか。

 

要するに周りの状況がどのようにありましても、自分が正しいと思うところを一貫してやり通せるのかどうかなのです。

どんな災難が身に降りかかって来ましたところで、あたふたせず冷静に見極めて対処できる、そうした生き方というのは、どこから生まれて来るのでしょうか。

 

それは、自己に対する揺るぎない信頼から生まれるのではないでしょうか。

自己信頼を取り戻して行くには、一朝一夕で行えるものではなく、ほんの小さな自信をいくつも積み上げて出来上がります自己像を、

内面に繰り返し印象付けて行きますことで徐々に回復するように思われます。

 

肯定します心のみが力を増して行きまして全体を満たしたとき、すべてが自分として認識し、他者というものはあり得なくなります。

争いはどうして起こりますのかと言いますと、相手を否定し認めようとしないから起きますのではないでしょうか。

 

相手を理解しようと全力を傾けまして、あくまでも尊重して行く姿勢で応え続けますれば、争う理由がどこにもありません。

他者を否定しますのは、自己を否定しますのと同等でありますから、自分自身への信頼が未だ確立出来ていないと認めますのが先決でしょう。

 

 

無害性を引き出す

 

無害性を表していきますのに、自分に非があります場合はもちろん、相手に非がありましても、それを基に

争ってみましたり、とがめましたりは決してするまいと、誓っておきますのも非常に有効であります。

 

先日、ある取引先から賞味期限切れの品が届きましたので、電話で問い合わせてみました。

ただ事実だけを述べました後に、こちらの希望を伝えましたところ、早速引き取って新しい品をお届けしますとの返答でした。

 

相手も自分も、とても気持ちよく応対ができました。

そこに抗議や釈明、苦情めいた話などが一切なかったことによりまして、無害性を引き出せました。

 

考えてみますと、人はどうして害を与え合うような生き方を選んでしまうのでしょうか。

その理由としまして、ストレスから来る単なる気晴らしでありますとか、やられましたらやりかえすという論理などが上げられそうです。

 

つまり、いずれ自分に降りかかって来ます災難を、自ら作り出しているに等しい行為を、平気でやっているのです。

自分が何をしていますのか、全く見えていない状態なのです。

少し冷静になって考えてみれば、わかりそうなものですのに、それができないというのはどうしてなのでしょうか。

 

ひとつ言えますのは、自分の言動を見つめる目を、普段から養っていないからではないでしょうか。

こうした状況を考えますと、内側を観察する視点を発掘して行きます重要性と、それを開発して行きます必要性が増して来そうな気がします。

 

 

観察に専念する

 

主に黙想を通しまして、自分を観察するようにしています。

当初は思考します自分と観察しています自分とを、同時に共存させますのがきわめて困難でありました。

ある考えに、はまりきってしまうか、あるいは観察の視点をもつときかの、どちらかでありました。

 

ごくたまにでありますが、想念をいだいていますところを、離れて見ている状態になれる瞬間がありました。

このまま時間をかけて行っていきますと、観察者の目で自分の思考や感情を追って行けそうに思います。

 

ここで注意しなければいけないことがひとつありました。観察する側に立った自分は、ただそのことだけに専念し続けます。

このとき、決して思考をコントロールしようとしてはならないのです。

あるとき誤ってそれをやりまして一瞬、頭がおかしくなって混乱してしまいました。もう二度とやるまいと思いました。

 

自分の心をただ見つめるだけに集中しておりますと、時間の経つのがとても速いように感じます。

そこで次からは、思考や感情をどれだけ詳細にわたって眺められるのか、そこに気をつけながら進めて行きましたら、もっと時間を有効に使えそうな気がいたします。

 

 

自分の可能性

 

最大の関心事は何でありましょうか。寝ていましても覚めていましても、そのことだけを考えている、興味津々なものは何でありましょうか。

いまの自分にはないと申せます。より近いものでしたら、どうでしょうか。

このブログ更新を続けていきますことが、あるいはそれにあてはまりそうです。

 

しかし、書いていく内容につきましては書き始める前まで、特に考えておりませんし、ごくたまにテーマが浮かんで来るぐらいであります。

ただ努めていますのは、朝から何度も、何かを必ず書き上げるようにと自分に言い聞かせております。

このように見ていきますと、ブログを続けるのが現在の最大の関心事とは申せないでしょう。

 

書く内容では、どうでしょうか、自分にとりまして注目に値するような主題か何かは、ありますか。

思い巡らしましたが、これと言って見当たらないのです。いま差し迫った状況にはいないと言い変えましてもいいと思います。

ある意味におきましては、これはこれで喜ぶべきなのかも知れません。でも、もしかしましたら大事なことを、見落としている場合も考えられます。

 

確かに、何かとても大切な教えを見逃しているような気がします。そのときに見合いました課題が提示されているはずですから。

それを真っ先に取り上げまして、可能な限り掘り下げていかなければならない、そのような主題があるはずです。

また、そのようであってほしいと望みます。自分であるからこそ行えます役柄に、応じたいだけなのですが。

一晩、考えまして続きを記すことにいたします。