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考えが現実に

 

たとえ、どんな厳しい状況下に置かれたとしましても、そこを切り抜けて行きますには、自分が何を信じどのように考えて行くのか、が要となるように思うのです。

心より考えました通りに物事は展開して行くものであるからです。

 

そういう意味でも、普段から何を信じて生きているのか、がとても重要だと言えます。

どうしても自分が信じている範囲のことしか頭に浮かばす、それしか考えられないものなのです。

 

もしも自分の可能性をどこまでも信じますならば、あらゆる場合について思考をめぐらすことができますので、相当のところまでやり遂げられるはずです。

自己実現された人たちというのは、ほとんどがそういう人々であったのではないかと思います。

 

信頼に足る自分を確立しますには、様々な執着や思い込みなどを手放して純粋性を取り戻します。

自分自身への信頼を揺るぎないものにする努力と共に、望むような現実を心の中でどれだけ微細にわたり創り上げて行くかが最重要であり、それが最大の関心事となります。

 

 

可能性に挑む

 

人間はひとりで生きられないと言われますと、自分には何か欠陥があって限界があるように思ってしまいます。そこから見直していかなければなりません。

 

ひとりで生きる必要はまったくなくて、それにみんなで一つなのだと認めれば何も問題はないことがわかります。

自分を制限します思い込みを何もかも手放して、新たな可能性に挑むときのようです。

 

元々一番知りたいと思っていますのが、自分は何者であって、どんな役割を担うために生まれて来たのかです。

それについて少しのあいだ考えてみましても答えは出てきませんので、もうそれ以上は考えようとしませんでした。

あるいは適当なところで考えを打ち切ってしまい、根本的な問いかけを忘れ去ろうとして来たのです。

 

ですから何かの拍子にその問いが頭をもたげて来て、その度に大事な何かを思い出そうとするのでした。

本などで、あなたにはこういう使命がありますというような文言を目にしますと、すぐ自分もそうかもしれないと真に受けたことが幾度もありました。

どうしても、それに関連しました内容に引きつけられてしまうのでした。

 

今を生きていますこの時代で、すべてが地球的規模で大きく変わろうとしていますのを感じます。

琴線に触れるものに出会いますのも、この時期でしかないように思われるのです。そうしたサインを見逃さないように過ごしています。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

霊的な成長

 

人が生きている意味は、霊的に成長して行くことにありました。

いろいろな本で読んで来まして、それをようやく知り得ましたが、そういう核心的な事柄を、どうして学校では教えないのでしょうか。

毎日、生活費を稼ぐために仕事をし、欲望を満たして消費するだけが人生のすべてであるとは、とうてい思えません。

 

人間が霊的に進化しますとは、どんなことでありましょうか。

高度に進化した人というのは、普通の人にはない雰囲気(オーラ)をまわりに漂わせていると言われています。

どんな人にもその人独自の雰囲気をまわりに放ってはいるのですが、その力が微弱なため他の人には感じられないだけかも知れません。

 

霊的に進化しますと人が本来、持っています各能力は高まりますと共に、特殊な能力も発揮できるようになると言います。

もっとも、そうした超能力なるものは成長して行く過程で起きます付随的な出来事でありますので注意しなくてはなりません。

 

霊的に成長するとは、イメージとして何となくわかるような気がしますが、ほんとうはどういうことなのか、まだ完全に把握できているわけではありません。

イメージ的には次のようなものが上げられそうです。自我や感情をコントロールできますのと、意識が高く大きな視野で物事を深く思考できて来ます。

人間の起源とその本質、地球や宇宙の成り立ちが理解できております。

 

 

全肯定の選択

 

自分とは何かにこだわっていましたのは、何か自分が特別な任務を背負っているかのように思っていたからでした。

と言いますのは、本質的には他の人たちと異なるものではないと認めてみますと、自分が何者であるかに執着する理由がなくなっていますのに気がついたのです。

 

ありのままの自分を素直に受け入れられまして、思うところに従いまして生きて行けそうなのです。

ずっと問い詰めていました重圧が取れましたような身軽さを感じています。

これまでやって来たことに間違いはなかったという肯定感に包まれまして、今やっていますこともベストな選択でありますのがわかるのです。

 

何を選びましても、最終的な目的地にたどり着く道を歩んでいますのに変わりがないのです。

悩んだりあせったりする必要はまったくなく、失敗を恐れます根拠もいっさい見あたらなくなりました。

これまで問題と見なしていました、どんな事態も全て善なるものであったのがわかります。

 

そうした出来事のどれひとつでも欠けていましたら、今の自分はあり得なかったのですから、全部が正解の連続であったと言えます。

これから行いますのも、好ましい物事しか考えられません。

どれもが正しいのですから、よりワクワクするようなこと、自分に一番マッチしそうなものを選ぶだけでよいのです。

間違いや後悔する場合がなくなり、そこにありますのは信頼です。

 

 

ほんとうの自分

 

個は全体の縮図とも言われますように、ほんとうの自分とは、考えられます全てを有する存在でありますに違いないでしょう。

つまり自分というのは、何者でもない者かも知れません。

絶えず流動的で、とらえどころのない、あらゆる可能性そのものが、本来の自分かも知れないのです。

 

もしそうだとしますと、明確にこれだと特定しますのは、そのほかの全てを否定しますのと同じになってしまいます。

自分の一部分をもって、全体もそうであるかのように言ってしまうのです。

 

これは言葉で言い表せませんのに、そうしようと試みるからでありまして、ある意味ではそれも仕方のないことです。

自分という者を敢えて表そうとしますには、たくさんの要素からいくつかだけで表現せざるを得ないのです。

 

ですから問題となりますのは、その内のどれをもって表現するかでありますが、

自ずと意識に上がって来ましたものや、頭に浮かんで来ましたもので限定するほかはありません。

 

それは脳に刻まれました記憶の中から特に、一番心に響きました事柄でありましたり、強く印象に残った体験の断片であります。

それらはどれも全体の縮図を宿してはいますが、ほんの一例に過ぎないこと、自分の全てを表してはいないことをわきまえています必要があります。

 

 

体験を観察する目

 

日々の生活とは、まさに大小さまざまな体験の連続ではないでしょうか。

その際に大切なことは、体験しました中から情報をどれだけ拾い出せますかどうかです。

それと新たに思うところがありますなら奮ってその体験に乗り出してみますチャレンジ精神ではないでしょうか。

 

少なくとも、決まり切った生活パターンに埋没してしまわないように普段から注意していなければなりません。

具体的にどうして行けば良いでしょうか。ひとつには、ときどき立ち止まって自分の行動を振り返りまして、じっくりと観察してみます。

 

日にひとつぐらい、新しい何かをやってみますとか、やり方を少し変えてみてはどうでしょうか。

例えば、興味のあります本を読み始めましたり、部屋の模様替えをしましたり、初めてのお店や場所を訪れたりしてみます。

そこで大事なのは、そうした新たな体験をしていますときの気分を思う存分に味わい、どんな感情に自分が包まれているかに気づいていますことです。

 

さらに、五感のそれぞれを働かせまして、体験していますことから吸収できますものは何でも受けとめてみます。

まるでこのときが永遠のように感じられましたり、知らなかった自分の能力の一部を垣間見まして驚いたりするかもしれません。

こういうとき、意識も新たにすることが出来ます。

決断のとき

 

人はときとして新たな体験をめざし、住み慣れた地から出ていくように促す、抗しがたい衝動にかられるものです。

そこに考える余地はまったくなくて、ただ「行かなくては」という思いに突き動かされるのです。

 

思えば、ある意味で快適で便利だった東京での生活を捨てて、何の当てもなく見知らぬ土地に家族ぐるみで足を踏み入れたのは、いまから26年前でした。

それは、生まれ育った故郷より単身で東京に出て来てから、10年目にしての更なる転身でした。

 

確かに以前の地にいては有りえなかった、人々との出会いや数々の体験があって、より成長できたこと、それによっていまの自分があること、そう思うと感謝せずにおれません。

二度の節目での決断は、それぞれ間違ってはいなかったのです。

あの当時の自分は、先でどんな結果が待っていようとも、とにかく前進するしかほかになかったというのが正直なところです。

 

山田洋次監督の「家族」を見終わってから、以上のような思いが一気にかけめぐったのです。

この映画では長崎県の伊王島から、はるばる北海道の根室にたどり着きます。

 

人はどんな困難や苦労もいとわず、新天地をもとめて第一歩を踏み出さずにはおれない宿命かもしれません。

これは「あらかじめ入念に計画を練って、あらゆる想定を考え抜き、万全な準備を整えてから」というような、石橋を叩いて渡るものではないのです。

 

その決断するときというのは、どちらかといえば、イチかバチかの勝負にのぞむような心境で、もうあとがない瀬戸際に自分は立つのです。

自分を信じるか否か、有無を言わさず自分を試すときです。

どうも人間には人生の節々で決断し、それを超えて行く必要があるように思います。