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完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。

 

 

望むことに集中

 

これまでで、なぜ心の休まるときがないのだろうかと、疑問に思ったことはないでしょうか。

一日のあいだでも、落ち着いているときもあれば、何かにせき立てられていたり、ちょっとしたことが思い通りにならないので、イライラするときがあったりします。

 

何をするにせよ、また何があろうとも、出来れば心はつねに平静でいられるに越したことはありません。

充実した毎日を過ごすうえで、いつも気にかけておくべきことが、何かきっとあるはずです。

 

そのひとつとして、いわゆる放心状態のときをなくすことが上げられます。

何かに集中しているときや、目的をもって何かをしているときというのは、心が定まっているので特に問題はないといえます。

気を付けなければいけないのは、何となく過ごしているときや、感情的になっているときです。

何となくやっていると、気がゆるんで心にスキができます。そこに好ましくない想念が忍び込んで来たり、魔が差すこともあるので注意しなければなりません。

 

感情的になっているときは、何をやってもうまく行かないはずですので、そんなときはいったん手を休めることです。感情が通り過ぎるまで、待つ必要があります。

イライラしたりする原因となるような、しこりを心に残さないためです。気持ちが落ち着いて来たら、そこで再開すれば問題はないでしょう。

 

ここまででわかったことは、ものごとに取り組む際には、その目的なり何らかの意図を持ってやり始めることです。そうすれば、望む結果も生まれやすいということです。

また一日を始めるにあたっては、今日をどんな日にしたいかを考えてみることです。そして、声に出して言ってみることです。その後で、忘れてしまってもいいのです。

 

自分はどんな日にしたいのかを考え、それを声にして言うことが大事なのです。望むことに集中する時間をもつことなのです。少なくとも望まないことを描くことはないはずです。

 

 

信頼する人に

 

これまで、多くの人と関わってきた中で、この人は信頼できないと思ったことは、それこそ何度もありました。

しかし、この人はほんとに信頼できる人だ、と心から思ったという記憶がないのです。

 

いまだから言えることは、信頼できる人はまわりにたくさんいたはずです。

自分が心を閉ざしたまま信頼しなかったために、人を信頼できたという体験にまで至らなかっただけだということです。

ですから、もっとも必要なことは「信頼する」体験を積むことだといえます。

 

いままで何をするにも、どちらかといえば半信半疑で取り組んできた傾向があったことです。

その結果、人への不信感をつのらせ、人からの助言を疑い、自分の可能性や能力などを過小評価する自信のなさなど、悪循環にはまっていたということです。

 

自分で人間不信をまねくような原因を作っておいて、一方で人は信用できないと思い、自分も信じられず、信じられるものが何もないと落ち込んでいたのです。

まさに自業自得(じごうじとく)といえるのかもしれません。

 

こうした体験から学べることは、自分もふくめてどの人も、根本的には信頼に足る人だということです。

こうして生きているという事実が、その理由です。

もし信頼に足る人でなかったとしたら、その人は生きていられないからです。

 

生かされるものは、自分が信頼に足るものであることを、本能的に感じ取っているはずです。

大きくとらえれば、存在するものすべては、大自然から必要とされ信頼に足るものである、だからこそ現にこうして、ここにあるのだと思います。

 

信頼しないというのは、自然に反する選択だったのです。だから悩んだり苦しんだりするのです。

「信頼する」ことこそが、自然なことなのです。

決断のとき

 

人はときとして新たな体験をめざし、住み慣れた地から出ていくように促す、抗しがたい衝動にかられるものです。

そこに考える余地はまったくなくて、ただ「行かなくては」という思いに突き動かされるのです。

 

思えば、ある意味で快適で便利だった東京での生活を捨てて、何の当てもなく見知らぬ土地に家族ぐるみで足を踏み入れたのは、いまから26年前でした。

それは、生まれ育った故郷より単身で東京に出て来てから、10年目にしての更なる転身でした。

 

確かに以前の地にいては有りえなかった、人々との出会いや数々の体験があって、より成長できたこと、それによっていまの自分があること、そう思うと感謝せずにおれません。

二度の節目での決断は、それぞれ間違ってはいなかったのです。

あの当時の自分は、先でどんな結果が待っていようとも、とにかく前進するしかほかになかったというのが正直なところです。

 

山田洋次監督の「家族」を見終わってから、以上のような思いが一気にかけめぐったのです。

この映画では長崎県の伊王島から、はるばる北海道の根室にたどり着きます。

 

人はどんな困難や苦労もいとわず、新天地をもとめて第一歩を踏み出さずにはおれない宿命かもしれません。

これは「あらかじめ入念に計画を練って、あらゆる想定を考え抜き、万全な準備を整えてから」というような、石橋を叩いて渡るものではないのです。

 

その決断するときというのは、どちらかといえば、イチかバチかの勝負にのぞむような心境で、もうあとがない瀬戸際に自分は立つのです。

自分を信じるか否か、有無を言わさず自分を試すときです。

どうも人間には人生の節々で決断し、それを超えて行く必要があるように思います。

 

 

1日1食体験記11~昼食を軽く摂る

 

1日に1食を摂るのと1日に2食を摂るのとで、その大きな違いはお腹の感覚がつかめるようになって、はっきりわかりました。

2食摂った翌朝は、起きた時に昨日の食べものがお腹に残っている感じがして、気持ち的にもあまり良くありませんでした。

 

それに比べ1食だけの時の、翌日のお腹の爽快感は格別でした。味わってみないとそれはわからない感覚なのです。

一度でもそれを味わってみると、ほかの状態の異常さがやっとわかり、今までの考えの誤りにも気づくことができたのです。

 

もう一度、次の日も昼食を摂ってみることで、よりはっきりすることになりました。

 

1日1食体験記8~少し慣れて来た感じです

最近、消化吸収による一時の疲れ以外に、肩こりとか眠気とかはほとんど感じなくなりました。むしろ、身体は快調な感じがします。

それは少しの食べものしか身体にないからで、もし全く食べものを摂らなければ身体は最高にいい状態になるのではないかと予測できます。

 

1日1食が定着できた後は、行く行くはそこまで持って行って実際に体験してみたいと楽しみにしています。

今はごくたまにある食べたいとか飲みたいという衝動とどう付き合って行くかで、日々試行錯誤を繰り返しています。

 

あまり我慢はしないで、食べたかったら食べ飲みたかったら飲んで、その結果を体験してから今後どうするかを決めるようにしています。

焦らずに気長にやって行くことがもっとも大切だと毎日、自分に言い聞かせているところです。

 

1日1食体験記①~1日2食は食べ過ぎ!

 

もっと早く気づいても良かったと思うのですが、ある本「食べない人たち」と巡りあって、ようやく食べ過ぎだということに気がつきました。

しばらく慣れるまで疲れを覚えることになりますが、以前の2食に切り替えた時に味わったことでもあり、乗り越える自信はあります。

 

しかし、今回は24時間ほとんど食べものを体内に入れないので、2食の時の18時間とはまた違った展開になるかもしれないと予想しています。

体がそれだけ浄化に向かうことなので、正直その結果にとてもワクワクする気持ちが湧いて来るのです。

 

また、これまで時間が足りない状況の中、昼食時間や昼寝に要していた時間を今後、自由に使えるだけでも大きなメリットです。

 

周りを巻き込めた時が最高の状態

改めて振り返ってみますと、自分が描いたとおりの結果になっていました。

野菜、果物だけでなく花や花苗、お餅や山菜おこわ、赤飯のお弁当などを取り揃え、曇り空の下で1時間足らずに売り尽くすというイメージでした。

 

私の意図を汲み取り、まわりの人たちもその通りに動いてもらったことなど見えない天のはからいにも思わず感謝していました。

望んだ通りの結果を手に出来たのです。私のこれまでの最大のネックは人に頼めない、頼りたくないという負け惜しみと片意地なところでした。

 

それを見事に覆すことが出来ました。実は私のまわりは全て協力者でした。

自分に出来ることとは、この自分1人に出来ることだけではなく、まわりの人たちも含めた中での出来ることだったのです。