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自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。

 

 

最大の願い 

 

霊的に成長して来ますと、いかなる状況にありましても、みんなの幸せをいつも考えています。

みんなが幸せになれる社会をめざしますのが、個人としての最大の願いなのです。

 

全ての人が幸せになりますこと。この祈願は自分が何をいたしますときも組織にいましても、重要な決定を下すときの大原則なのです。

一人一人の人間は常に全体を最優先に考えていますので、当然ながら定められた社会制度の全てはことごとく一人一人のことを最大限に配慮した内容になっています。

 

まさに宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」を、個人個人が現実に体現しているのです。

よく言われます、個人か全体かという二者択一の問題にすり替えてはならないのです。

 

あくまでも、一個人それぞれが原因となりまして、全体の幸せという結果を産み出し、各個人の幸せがもたらされるのです。

この順序の逆は、存在しないのです。

 

高度に進化しました人と言いますのは、全体の進化のことしか眼中にはないのです。

しかし、そういう人たちも元をたどりますと、今の私たちと同じ段階を通ってそこまで進化を遂げられたのです。

 

より霊的に成長します鍵となりますのは、いかに全体のことを自分事として受けとめられるかであります。

これは別に自己犠牲をすすめているわけではありません。

 

深いレベルにおいて、全体の一人一人が自分自身でもあると気づいていますので、全ては自分事としてしか考えられないのです。

自分とは何かを、どれだけ霊的な意味で会得していますかどうかにも関連して来るのであります。

 

 

自分とは何者か

 

自分が体験する者でありますことを理解できましたとしても、ほんとうは何を体験したかったのでしょうか。

自分とは何者であるかを知り尽くしますこと。

 

これは体験を通じてでしか、知りようがありません。

どんな体験をしましても、そこから何か自分を知る手がかりを見つけ出さなければ、意味がないことになります。

 

体験を通してでなければ知り得ないというのは、そもそもどういうことでしょうか。

何を体験しましょうとも、行動し実践するという能動的な要素が不可欠であると言えます。

受け身的な体験もないわけではありませんが、被害者意識に見舞われましたり、運を天に任せましたりして、主導権を他者に明け渡す結果になりますので却下すべきでしょう。

 

体験に先立ちまして、何らかの動機ないし意図が脳裏にありまして、それが体験の出発点になるように思います。

どんな動機や意図が考えられますでしょうか。

 

例えば、自分とは何者かという問いから派生しました問題意識に、突き動かされました様々な動機が考えられます。

あるいは、自分自身を知る絶好の事態を前にして新たなる課題に気づき、それを解決します意図かもしれません。

 

もっとも体験のすべては、自分を知る材料をことごとく提供してはいるのです。

ただ自分がそれらを、どれだけ受け取れる用意がありますかどうかだけなのです。

 

 

個は全体の縮図

 

なぜ、心を閉じてしまうのでしょうか。もうこれ以上は、そとの世界にかまってはいられない、受け入れられないと思ってしまうからです。

どうしてそこまで、しなくてはいけないのか、あるいはこんな好きでもないことをやりますのは、もうたくさんだと思うわけです。

 

好きか嫌いかに振り分けまして生きて行こうとします。個人的な意志を捨てていきます方向から自ら、はずれて行くつもりなのです。

これでは、またまだ個人的な執着が手放せない状態でありますのを認めなくてはなりません。

 

嫌がっています心に無理強いをいたすのは慎まなければならないからです。

未だ個の確立が成し得ていないことをここで率直に認めます必要があります。

 

そうしますと、これから改めて個の確立に向けましての軌道修正から行っていかなければなりません。

個を確立するとは、どういうことなのでしょうか。まず個別であります意味を理解していなければならないでしょう。

 

個別を重んじますとき、自己の思うところのものを尊重して行きます態度に揺るぎがありません。

つまり自己は他と違っていまして構いませんし、むしろ違って当然であると自覚しています。

しかも、根本におきましてはまったく同一でありますことや、個としましての自分というものが全体の縮図に過ぎないのも熟知しております。

 

 

関心事を絞る

 

最大の関心事は、状況によって変わって来ますのが普通であります。たとえば、トイレに行きます場合もあれば、喉の渇きから水を飲むなどがそうです。

そうしたいろいろな関心事から、いま必要なのは何かを見分けなくてはなりません。

 

何事にも関心を持ちますのは悪いことではありませんが、自分にはこれだと言いますものを持っていませんと、見分ける基準も定まっていないのと同じです。

自分にとって一番大事なことは、何なのか?それを興味のありますものの中から、絞り込んで行かなくてはなりません。

 

そうしますと、見えて来ますのがひとつありました。簡単に言いますと「なぜ宇宙が生まれ、人間が生まれたのか?」です。

この根源的な問いの答えといいますか、その目的は何か、をずっと以前から探し求めておりました。

 

そして、つい六ヶ月ほど前に、ジョシュア・D・ストーン著「アセンション・マニュアル」上下巻に出合ったのであります。

その中に、求めていました答えをようやく見つけ出しました。ところがです。読み始めましても、まったく歯が立たないのであります。

 

副題には「わかりやすいスピリチュアル全書Ⅰ」と書かれていますのに、難しい用語が続出しまして、意味をつかもうとしましてもなかなか理解できずに手を焼いておりました。

取っかかりとなりそうな入門書をいくつか見つけ出しまして、挑みましたものの、それでさえも入り口付近をモタモタしておりますのが実情です。

 

 

自分を振り返る

 

昨日、求めていましたテンピオーブンをオークションで見つけまして、落札できました。

近いうちに商品が届く予定でありますが、今日は朝から何か落ち着かないところがあります。

どうしてそうなのか、自分の思いをたどってみました。

 

先日、台風の影響で早朝の3時間あまり、停電に見舞われました。ちょうどパンを焼き始める時間帯でありました。

最初はすぐ復旧するものと思っておりましたので、たいして気にかけておりませんでした。

 

ところが30分、1時間たちましても電気は止まったまま、電気オーブンが使えない状況が続きます。

その間にも、パンの生地は発酵がどんどん進んでいきまして、とうとう廃棄という事態になってしまいました。

 

このときのガスオープンさえあったら焼けていたのに、という悔しい思いから、停電になっても使用できるオーブンを探し始めるのでした。

ガスオーブンで焼きますと、電気オーブンより味がよいことも、頭から離れなくなっていました。

 

ガスコンロを使用したオーブンが、どこまでガスオープンの味に近づけられますか、まったくわかりません。それでも、どんなパンが焼けるのかとワクワクしておりました。

 

あまり期待しすぎますと、その通りに運ばなかったときの気落ちの度合いも大きくなりがちです。そのように考えていますと、どうにか落ち着いてきました。

もっとも、テンピオーブンで焼けますパンの量は少なくて気休めでしかないわけですが、試作品をたくさん焼いて楽しみたい気持ちがそこにありました。

 

送られてきますのは、30年以上も前に流行しましたピーステンピの751型コンロ上置きオーブンであります。

いまアウトドア用品として、テンピオーブンに人気が集まっています。今回はテンピの紹介で終わりそうです。

 

 

高め合う生き方

 

人間の役割は最高の人間をめざすことだと思っています。地球上の他の生物や鉱物資源などを支配することではないのです。

あらゆる存在を敬い、彼らの進化・成長を促すものであると思います。最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。

 

神にもっとも近い存在といえるほどに、進化した人間のことではないでしょうか。

この進化し成長を遂げることが、人類をはじめとして、全宇宙のありとあらゆるものの存在理由でもあると言えるでしょう。

 

もしも、進化の道からはずれた場合は何であれ、滅んでいく運命にあるのです。

いまの人類は、その崖っぷちに立っていると言えます。一人ひとりが、いま自分は進化の道にいるのだろうか、退化の道をたどってはいないだろうかと自問すべきなのです。

 

別に難しいことではなくて、昨日よりも今日の自分は、少しは進歩したかどうか、一日の終わりにざっと振り返ってみるだけでもいいと思うのです。

たとえば「今日、あの人に厳しいことを言いすぎたので、明日はやさしい言葉をかけてみよう」とか、そういった相手も自分も高めてくれるようなことを実行して行くだけで十分です。

 

ほんの小さなことであっても、自分の本心から出て来たことを、そのまま行うように心がけていけば変わって来るものです。

少なくとも人と争ってみたり、不平や不満を言ってみたり、投げやりになって仕事をするようなことは、自分から慎んでいかなければなりません。

 

共同生活を営む私たちは、お互いに高めて合って生きていくようにできているのだと思います。

ときには厳しいことを人に告げなければならないこともあれば、反対に人から手厳しいことを言われることもあるものです。

 

また、困難なことが立ちふさがり、もう絶望するしかない状況に直面したときでさえも、私たちは支え合って、その難題を乗り越えていくだけの知恵と勇気を持ち合わせているものです。

人はそうした局面にぶち当たってこそ、めざましい成長を遂げるものでもあるのです。

 

 

理解することから

 

これから人といい関係を築いていくにあたって注意することがあります。

それは、相手が根本的に信頼に足る人だとしても、その人を頭から信用して大丈夫だとは言いきれないことです。

また、こちらがいくら信頼をよせたとしても、相手がその信頼にこたえるとは限らないことを承知しておく必要があります。

 

ほかのことでもいえることだと思いますが、見返りを期待して何かを行うときは、往々にして望ましくない結果を招くということです。

信頼関係を何かの手段に利用してみたり悪用しようとする人は、二度と周りからは信用されなくなるでしょう。

 

信頼できるというのは、生き方に共鳴できると言い換えてもいいのかもしれません。ですから、何も知らない人に信頼を抱くことは基本的に出来ないわけです。

相手のことをよく知ることは、人と関わって行くのに欠かせません。お互いに理解し合っているからこそ、信頼関係が生まれてくるからです。

 

いきなり信頼することをめざすのではなく、相手を理解することから始めて行くことが大切かもしれません。

理解しようとする心に、見返りや打算、損得勘定の入る余地はないはずです。

 

自分への信頼を深めていく上でも、自分を知ること、理解することに焦点をしぼって取り組めば、自然と自分のことがより好きになって行くものだと思います。

自分のことは知っているつもりでも案外、自分のことを理解できていないものです。

 

なかなか自信がもてないのも、自分のことがよくわかっていないからかもしれないのです。

たとえば、失敗したときのくやしい思いとか大恥をかいたことなど、過去のさまざまな痛手で、いまもなお傷ついたままの幼いころの自分がいることを知っているでしょうか。

 

何かの拍子に忘れていた過去のことがチラッと浮かんで来たり、理由もわからず突然泣き出してしまった自分にびっくりしたことはありませんか。

思い出せる範囲で一度、過去の自分にさかのぼって、そこで自分をいじめた人たちと向き合い、彼らを許すことを学ぶ必要のある場合があります。

 

自分がそうだったのです。許すことができただけで、ずいぶんと心の重荷が減ったように思います。