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やれる範囲内で

 

もっとも成長を遂げました段階にいますのがいまの自分なのですが、何とも心もとない心境におちいってしまいがちです。

例えば、いま感じています大切なことを書こうとしましても、なかなか言葉が浮かんで来ないのです。

 

着実に進化の道を歩んでいるのでしょうか、という不安がよぎって来ます。

しかし、この「着実に」というのが、ある意味でくせ者かもしれません。

 

人生は一直線に進んでは行かないのは、少し考えてみればわかりそうなものです。

実際、人生は紆余曲折の連続でありますのが実情なのです。

 

あの世はもちろんのこと、この世でさえも、わからないことだらけなのですから、手探りで進みますしかありません。

いくら頑張ったとしましても、いまの自分がやれます範囲内のことしかできないという気づきに至ってようやく落ち着くのです。

 

 

大きなスケールで考える

 

毎日、30分ほどの散歩をしております。実は道ばたのあちこちにゴミが落ちていましたが、これまで素通りしておりました。

先日、それらのゴミを拾うことを決めて取りかかりました。

 

しかし、そこまでしなくてもいいのではないかと言われたりもしました。

そういう人も自分の庭先にゴミが落ちていましたら、すぐに拾っているでしょう。

私も道のゴミをこれ以上見過ごすことができなかったのです。

 

用意した袋に入りきらないほどの、たくさんのゴミでありましたのには驚きました。

その翌日から、とても気持ちよく散歩ができたのです。なぜ、早くやろうとしなかったのかと思いました。

 

もっと身近なところであれば、私もすぐにゴミを拾っていたでしょう。

このように無意識に区別していましたのは、利己主義という考えから来ていたのです。

 

ほんとうは、すべての場所が自分の庭先であったことにようやく気づきました。

自分というものをずっと大きなスケールでとらえるようにすれば、内にあります利己主義をかなり消し去って行けそうな気がします。

 

 

気づいては改める

 

どうしても日常の取るに足りない些細な状況に、気が滅入るときがあります。

しかし、すぐに観察者の視点に立ちまして、こう言い聞かすのです。

「もっと大事なこと、霊的成長につながることだけに目を向けましょう。この世での出来事というのは、どのようであってもいいのですから」と。

 

霊的な成長とは、どのようなものなのでしょうか。

理解できました範囲で言えますのは、どれだけ人々の幸せを思い、人々に尽くせる人間になれるかです。

持っているあらゆる能力を奉仕活動にどれほど注ぎ込めますかどうかです。

 

いちばん肝心なのは、自分が人のためにやれますことを、充分にやり尽くしているだろうかと問うことなのです。

そう考えてみますと、まだまだやり足りないのがわかりまして、これではいけないと自分を叱咤激励いたすのです。

 

自己満足に陥ったり不平不満を持ったりと、またもや自己中心的な考えに占拠されていたのに気づかされます。

何度も気づいては改めるの繰り返しではありますが、少しずつでも前進する以外に道はありません。

焦らず、たゆまず、怠らずを合い言葉に歩むのみです。

 

 

気づいた人間から

 

「自分を信頼している」と絶えず自分自身に言い聞かせていますと、無気力さや荒々しさなど好ましくない雑念を振り払うことが出来ます。

また、空気中にはラジオやテレビの電波をはじめとしまして、人間や高等生物などが発します想念が飛び交っています。

 

それを忘れてしまって無防備な状態にいますとき、否定的な考えやエネルギーなどを取り込んでしまいがちです。

そこを充分に注意しなくてはならないのです。

 

それでなくても、すでに心身を思い込みや化学薬品などで毒されており、洗い清めて行く努力が求められているのです。

たとえば、社会を良くしようとしても無駄であるとか、自分ひとりの力ではとても無理であるとか、誰も聞く耳を持たないし相手に歯が立たないから何をやっても無意味であるとか、そうした無力感に包まれています。

 

学校や職場では競争し、核家族化とスマホが行き渡り会話のない家庭が増えるに至って、私たち一人ひとりは完全に分断されて孤立状態と言えます。

大都会ではもちろん地方に住んでいましても、お互いに助け合うということが出来にくい状況にあるのではないでしょうか。

 

社会は急速に分業化が進んで、共同社会は確実にくずれつつあります。

気づいた人間があきらめずに、出来ますことを手がけて行くしか道はないように思われます。

 

 

体験から学ぶ

 

いわゆる闇に対しまして、どのように対処していけばいいのでしょうか。

光だけを受け入れて闇には断固として拒絶すれば、それですむのでしょうか。なぜ闇と称せられるものが存在するのでしょうか。

 

この世の中に無駄なものは何ひとつないと考えますと、闇にも何か重要な役割がありますように思われます。

諸々の誘惑に負けましたり退廃的な行動に走ってしまったりしますのも、その根となる怠惰な性質が自分の内にもあったからです。

そのことに気づけましたのも、引き金となります魔の力に出会ったからです。

 

これではいけないと思って強くあろうと努力し、自分の身を立て直す方向に行かせるきっかけを与えてくれたのです。

あるいは、そのままズルズルと深みにはまってしまって、頭をガツンとやられるまで気づかない場合もあります。

いずれにしましても、学びがそこに生まれるわけです。

 

闇と呼ばれますものの中には、様々な試練を人間に与えますことで、向上しようという意欲を呼び覚ます役目になっています。

それに関連しまして、下降があってはじめて上昇が生まれるという構図もあります。

 

成長しますには、それを阻む要因を必要とするのです。不幸な体験を経ましたからこそ、幸福の有り難みを実感できるのと同じです。

夜の明けない朝はないと言われますように、仮にどんな逆境に見舞われましても、いつかは去って行くものであって耐える力を養うときであります。

 

 

可能性に挑む

 

人間はひとりで生きられないと言われますと、自分には何か欠陥があって限界があるように思ってしまいます。そこから見直していかなければなりません。

 

ひとりで生きる必要はまったくなくて、それにみんなで一つなのだと認めれば何も問題はないことがわかります。

自分を制限します思い込みを何もかも手放して、新たな可能性に挑むときのようです。

 

元々一番知りたいと思っていますのが、自分は何者であって、どんな役割を担うために生まれて来たのかです。

それについて少しのあいだ考えてみましても答えは出てきませんので、もうそれ以上は考えようとしませんでした。

あるいは適当なところで考えを打ち切ってしまい、根本的な問いかけを忘れ去ろうとして来たのです。

 

ですから何かの拍子にその問いが頭をもたげて来て、その度に大事な何かを思い出そうとするのでした。

本などで、あなたにはこういう使命がありますというような文言を目にしますと、すぐ自分もそうかもしれないと真に受けたことが幾度もありました。

どうしても、それに関連しました内容に引きつけられてしまうのでした。

 

今を生きていますこの時代で、すべてが地球的規模で大きく変わろうとしていますのを感じます。

琴線に触れるものに出会いますのも、この時期でしかないように思われるのです。そうしたサインを見逃さないように過ごしています。

 

 

信頼する人生

 

もっと意識してまわりに信頼を寄せてもいいのではないかと思っています。

こんなことまで頼んではいけないなどと、いつも遠慮し心配しすぎておりました。

 

人生が与えてくれます機会を100パーセント信頼して、身を委ねる気持ちを大きく持ちますのが大切なのです。

どうあって欲しいのかを、もっとはっきりとした上で、それを注文すればよいのです。

 

何が望みなのかを明確に宣言しますのを、これから実践して行けばいいのです。

みんなの幸せを願い、奉仕しますことを意図します。

どうすれば喜んでもらえるか、それについていつも思考をめぐらし、出てきたアイデアはすぐ形に表して行きますのを意図します。

 

このブログにおきましては、新たな気づきや発見しました内容などをどしどし書き込んでいけますように望みます。

驚きと感動を与えますような作品が、次々と生まれますのを望みます。

潜在的な能力がいくつも開花しまして、この人生において思う存分に活用できますのを意図します。

 

世界からあらゆる不幸な出来事が徐々になくなり、分かち合いと調和を重視します気運が急速に広がって行きます。

地球上のすべてにとって、考えられないほど素晴らしい時代がもうすぐ訪れます。

 

 

進化と奉仕の道

 

気がついて感謝したとしましても、その後がいつも通りでありましたら、あまりにもったいない話です。

何も知らないでいるより気づけましただけでも幸運だったわけですが、それを今後に生かしていくには、どうすればいいのでしょうか。

 

愛するものに囲まれている自分とは、いったい何者なのでありましょうか。もっと自分自身について知る必要があります。

すべてのものにも意識があるとしますと、それらは黙って人間に奉仕していますように考えられます。

なぜそうするのでしょうか。そのことによって、かれらは着実に進化の道を歩んでいるようなのです。

 

同じように進化をめざしています人間は、誰に奉仕していけばいいのでしょうか。

その相手とは同胞の人間であり、それ以外には考えられないと思われます。

 

ひとつの生命は他の多くの生命に依存し、生命同士がお互いに支え合って生きています。

今の自分がありますのは、計り知れないほど多くの生命の奉仕による恩恵を受けているからと言えます。

そのことにどれだけ気づいて生活しているのか、それが問われています。

 

意識していませんが、まわりの奉仕する心に自分は信頼をおきまして、現在もこうして生きようとしています。

全体を思いその幸せを願う身であります故、他者から信頼に値するものでありたいと切望せずにはいられないのです。