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観察者の視点

 

なぜ自分の思考や行動などを観察することが重要なのでしょうか。

大きな問題としまして、よほど注意していませんと、自分の思考や行動などを、自分そのものと取り違えてしまうことです。

 

そして、それらを生み出しています、主体の自分自身のことをすっかり忘れてしまうからです。

ちょうど自分の肉体が、自分自身であると思い込んでしまうのと、よく似ています。

 

それがどうしていけないのでしょうか。それは、自分の考えや行いなど、そのものに執着してしまうからです。

執着しますと、それを失ったり傷つけられたりすることへの恐れが生まれて来るのです。

それで必死にそれを守ろうとしまして、異常なまでに敵がい心を燃やしてしまうものです。

 

ときには怒りにかられたり、葛藤に巻き込まれたりするのです。

自分の意見やアイデア、手柄などを簡単には手放せなくなって、頑なになってしまうものです。

争いのほとんどは、こうしたことが大きな原因となっているように思います。

 

それに対して、観察する目を養っていきますと、執着する理由がありませんので、はるかに容易に考えを変えることができます。行動を改めていくこともたやすいのです。

いつでも当事者の目線から離れて、第三者の目で物事をとらえられますので、的確な判断を下せるからです。

それに、観察者の視点をもっていますと、自分自身への道を踏み外すことが少なくなって、迷わずに進んで行けます。

 

 

許すということ

 

許すということについて書いてみたいと思います。すると子どもの頃のことを思い出さないわけにはいきません。

たぶん、この何倍も許してもらっていたはずと思いますが、許してもらえなかった自分のことが忘れることが出来ず、

いざ自分が許す立場に置かれるとなかなか人を許すことが出来ないものなのです。

ここで、よくよく考えなくてはならないのです。

 

自分が許してほしかったときに許してもらえなかった、そういう体験があるからこそ、より寛大になり率先して人を許さなくてはならないことを。

いつも相手の身になって人と接するようにと言われるのは、いつか自分も逆の立場で相手から親身になって世話を受けるのであり、そのことへのお返しをすることでもあるのです。

 

人は親切にされたことは忘れやすいものですが、粗末に扱われたことはいつまでも根にもったりして覚えているものです。

ここでまた、よく考えてみます。なぜ人から親切にされたことは、忘れやすいのでしょうか。

 

親切に振る舞うことが、人間の自然な姿だからではないでしょうか。人を粗末に扱うというのは、本来の人間のあるべき姿ではないのです。

だから、意外なことを人はいつまでも覚えているのだと思います。「許す」ことにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

人は自然のあらゆることに対して、それを受け入れ認めて来たという事実があります。そうしないと生きてはいけなかったからです。

人はすべてを許して、生きて来たとも言えます。なのに、どうして人間同士のことになるとすべてを許せなくなるのでしょうか。

あの人や、あのことを許さなくても別段、自分は生きていけると思っているからかもしれません。

 

そういう人は大きな間違いをおかしています。許さないとは、受け入れることを認めないと宣言したことです。

自分の中で、この「認めない」思いだけが刻み込まれます。つまり、いっさいを認めないことであり、自己否定していることと何ら変わらないのです。

相手にしたことが、そのまま自分に帰ってきて、自分に対してしたことになるわけです。

 

結局、人間同士のあいだのことも自然に対するのと同じように、すべてを許し、受け入れていくことが人間の本来のあり方だったのです。

そのことに気づいたいま、いま自分の中にある、これまでの「許せない」ことを手放すときにいるのかもしれません。

 

 

人に尽くす

 

「周りの人たちは、講師の人にこき使われていた!私だったら絶対、こき使われないようにする…」

これは、仕事の関係で研修に行ってきた人の言葉です。

それを聞いていて、ふと思ったことは、こき使われるというのは、そんなに悪いことなのか、という疑問でした。

 

とらえ方の問題になりますが、人によってはこき使われることが必ずしも悪だとは言えないのではないか。

指示通り動くことによって、より完璧な研修になると考えて、その人に従い、尽くそうとしているだけかもしれないからです。

 

もっともエゴにとっては、自分を顧みず人のために尽くすことは耐えられないので、猛反対して来るのですが、そんな声はスルーに決め込んでいます。

 

人に尽くすといっても、別に自己犠牲のことをいっている訳ではありません。

根底には、自分の役割を自覚し、それを忠実に果たそうとしているだけであって、自分を捨てることや降伏することではありません。

 

人に尽くしていくという行為は、自他を区別することなく愛することを呼び覚まし、全幅の信頼を培います。

いますぐ出来ることは、自分に取り組むことです。

自分に取り組むとは、すべての問題の原因を自分の内に見つけることであり、それを何とかすることで対処します。

 

もし人に尽くすことが出来ないときは、そういう自分に取り組んでみます。

なぜ出来ないのか?

些細なことでもいいから、何か出来ることはないのか?

そうしたことを考えてみます。

出来ないことを考えるのではなく、いつも出来ることだけを考えます。

 

 

与える生き方

 

欲望に走ることをやめ、個人的な意志を手放していく

これは私の方針のひとつなのですが、なかなかその通りに実行できずにいます。

 

なぜ欲望に走ることをやめるのかというと、いつまでも小さな自分の世界に閉じこもる元凶になっていることです。

個人的な意志を手放していくのは、どうしてなのか。

個人的なことに時間を費やすことで、独りよがりな性格を助長しており、全体の中の自分だということをすっかり忘れてしまっているからです。

そのことを思い出すためには、いったん個人的な意志を手放すことが重要だと気づいたのです。

 

限定された個人という範囲だけで物事を考え、得ることばかりに注意を向けていました。

だから今度は分かち合うということで個人という枠を外していく必要があるのです。

 

これまで何かが足りないという思いに突き動かされ、その何かを得ようといつも周囲を伺いながら生きて来たように思います。

ほんとうは十分に満ち足りていることをまず知ること。そして奪うのではなく与える側に身を置き、状況を変えて行こうとしています。

 

具体的に何をどのように変えて行けばいいのか、それがいま取り組むべき課題です。

そのひとつの取り組みとして始めていることが、このブログの更新です。毎日重点的に発信して行くことにしたのです。

 

欲望を減らす

 

例えば、車を運転中は、次の信号は青になってくれとか、青のままでいてくれなどと、思っている自分がいました。

またあるときは、前の車はもっと早く走るべきなんだとか、あの車は自分が通るまで待っているべきだとか、自分勝手に思っているのです。

 

これらはすべて、ほんの些細な欲望なのかもしれませんが、小さいからこそ質が悪いことに気がつき始めました。

心の隅には、こうした些細な欲望がひしめきあって、そのおしゃべりを絶えず聞かされているのです。

主人であるはずの自分は、いつもそうした欲望に突き動かされ、無意識にそれに従っているのです。

 

欲望それ自体は別に悪いわけでなく、来ては去って行くだけのものに過ぎず、それに執着しなければいずれ消えてなくなります。

 

そのことに気づいてから運転中は、自分勝手な願望は手放して、信号が青でおれば進むし、赤や黄色であれば止まることにしました。

また人の運転についても、とやかく言うことをやめ、目の前で展開していくままを受け入れて運転するように心がけています。

 

すべてをなくそうとするのではなく、気づいたひとつひとつの欲望から手放していく。その第一歩を踏み出したばかりです。

欲望に走ることをやめて、個人的な意志を手放していく。これがこれからの課題です。

 

 

エマソンの『自己信頼』を読み終えて

自分を客観視できることは人間だけの特権だと言われていますが、私はこの事実こそ
自分というものが、ひとりでない証拠ではないかと思うのです。

陰陽という考え方でいくと、この世は支えるものと支えられるもので成り立っていると
言われています。普段こうしてものを書いたり、見たり考えたりする自分を、いつも影で
支えてくれるものがあるということです。

私を信頼してずっと支えてくれている、そのものにしばらく意識を向けてみると、感謝の
気持ちが湧いてくると同時に、力強い味方がいることに限りない自信が生まれてきます。

ときには私が支える役を買って出ることもあります。本当のところ、私が支える役に終始
しているときの方がうまく行っているのが現状です。

自己信頼の自己とは、影で支えている存在のことです。私のことを何もかもわかって
くれている自己に全てを明け渡して、私はただ信頼して仕える役に徹すればよいのです。

1日1食の体験記21~5日間、朝1食だけです

1日1食の生活をためしてみて、私にわかったことは
ものを食べるから身体が疲れ、休息が必要になるということです。

食べる量をへらすだけで、それにともなって睡眠時間もへり、
自由につかえる時間がふえて行きます。

1日のうち1食をへらすだけでも、慣れてくれば
身体はそんなに休息を必要としなくなるのです。

要するに食べなければ、身体は疲れないということです。
これは私にとって確信にちかい事実になっています。

でも食べないと身体がもたないのではないかと不安に
思われる方もおられると思います。

私も前に食べたものが、やけにお腹にたまっていると
無性に食べたくなり、食べないと身体がもたないという
気持ちにおそわれることがあるのです。

そういう時は無理をせず、素直に
何か口に入れたりしていますが、かならず残ったものをすぐ
出すように心がけています。

1日に3度も食事する生活をしていると、
いつもお腹に食べものがある状態がふつうになっており、
食べたいという思いを常に持ちつづけることになります。

お腹にいつまでも古い食べものが残らないように、
身体はつぎつぎと食べることを要求して来るのではないかと
私には思われるからです。

この状況から抜け出すためには、まず食事の量をへらして
みることが1番だと思います。

つぎにやることは、お腹に食べものをためないことで、
入れる以上に出すことにもっと注意を向けることでした。

毎日私もやっていますが、洗腸することをオススメします。
腸を水で洗浄するカンタンな洗腸機が出回っています。

究極の成功と自分磨き

私の人生で、これだけは守り通したいというものを上げるとしたら、
それは何かというと「人生を肯定し受け入れる心」です。

また、これだけは到底、容認できないというものを上げるとしたら、
それは何か?「生きていく力」を損なうような考え方いっさいです。

最終的に生命を賛歌する力の一翼をにないたいと願っていますが、
いまは人生を容認して生きていくだけで手一杯な状態です。

人間はもともと無垢な形で産まれたように、また無垢な状態で
この世を去ることができれば、それが1番の理想だと思います。

せめて、それに近い形で終わりを迎えられるように、手放せる
ものはすべて手放すことが肝要だと思うのです。

自分を磨くとは、誤って身に付けてしまった思い込みや刷り込み
などを捨て去り、元の姿に蘇っていくことでもあると思います。