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限界のある前提

 

以前と比べまして、カチンと来ましたりムキになったりすることがほとんどなくなりました。

自分を含めた全ての人たちに対して、寛大な態度で接する心境になりつつあります。

 

人間として肉体に宿ったからには、限られた知識と限定された視野でもって、しかも制限された脳でしか考えられないのです。

この物質世界での人生は数多くの失敗や誤りを犯して、そこから学び成長して行くように運命づけられているのです。

 

誰一人として、そうした制約から逃れられません。

ですから気に入らないからと言って、人に根を持ちましたり仕返しをしたりしようなどと思わないことです。

 

どのような思い込みや誤解が生じましても冷静に対処できますように自分を引き上げます。

少々のトラブルに遭遇しましても、いっさい動じない強い精神の持ち主でなければなりません。

 

もともと不完全な状態で生まれ落ち、完全さを求めまして成長を続けますのが人間の宿命なのです。

そんな境遇をすべて承知した上で人生に取り組んで行きましたら、無知のままのときよりもずっと楽しめそうです。

 

 

成熟した人間

 

「臨死 そして与えられた二度目の人生」を読んでいます。

どれだけ努力して欲望が満たされましょうとも、それらは全くと言って良いほど価値はなく重要でもなかったのに気づきます。

 

人生を終えた後で心から喜べますのは、どれだけの愛を周りに与え尽くしたのかという一点であったのです。

特に人間関係におきまして、どれほど愛し合うことができたのかという問いに躊躇せず答えられますかどうかなのです。

 

実際には愛するよりも、愛され認められることに夢中になって、人を傷つけて来ましたのが大半でありました。

今こそ、これまで気づかずに恩恵を受けていました、真実の愛を思い起こさなければなりません。

 

人々の思いにもっと目を向けて行くべきで、忍耐や寛容さ、誠実さを備えました人になって行かなくてはならないのです。

それは成熟した人間へと成長して行く決意をし、実践しますことでもあります。

 

 

心を砕くこと

 

前にも触れましたが身の回りには、人間や霊や星々などから発せられる、あらゆる想念のエネルギーが飛び交っています。

そのときの自分の関心事や思いによって、それに見合った波長の想念を引き寄せることになります。

 

霊界ではそれが顕著に行われ、尚且つその一部始終を他者は知ることとなるようです。

受け取ります想念のレベルは、受信する人によってピンからキリであろうと思われます。

 

もっとも高いレベルのものは、それ相応の高い人徳を備えていなければ得られない仕組みになっているようです。

地上生活において、できる限り小さな徳を積んで行く大切さが伝わって来ます。

少なくともみんなの幸せ、全体のことにいつも心を砕くまでに成長していなければなりません。

 

 

最大の願い 

 

霊的に成長して来ますと、いかなる状況にありましても、みんなの幸せをいつも考えています。

みんなが幸せになれる社会をめざしますのが、個人としての最大の願いなのです。

 

全ての人が幸せになりますこと。この祈願は自分が何をいたしますときも組織にいましても、重要な決定を下すときの大原則なのです。

一人一人の人間は常に全体を最優先に考えていますので、当然ながら定められた社会制度の全てはことごとく一人一人のことを最大限に配慮した内容になっています。

 

まさに宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」を、個人個人が現実に体現しているのです。

よく言われます、個人か全体かという二者択一の問題にすり替えてはならないのです。

 

あくまでも、一個人それぞれが原因となりまして、全体の幸せという結果を産み出し、各個人の幸せがもたらされるのです。

この順序の逆は、存在しないのです。

 

高度に進化しました人と言いますのは、全体の進化のことしか眼中にはないのです。

しかし、そういう人たちも元をたどりますと、今の私たちと同じ段階を通ってそこまで進化を遂げられたのです。

 

より霊的に成長します鍵となりますのは、いかに全体のことを自分事として受けとめられるかであります。

これは別に自己犠牲をすすめているわけではありません。

 

深いレベルにおいて、全体の一人一人が自分自身でもあると気づいていますので、全ては自分事としてしか考えられないのです。

自分とは何かを、どれだけ霊的な意味で会得していますかどうかにも関連して来るのであります。

 

 

霊的な成長

 

人が生きている意味は、霊的に成長して行くことにありました。

いろいろな本で読んで来まして、それをようやく知り得ましたが、そういう核心的な事柄を、どうして学校では教えないのでしょうか。

毎日、生活費を稼ぐために仕事をし、欲望を満たして消費するだけが人生のすべてであるとは、とうてい思えません。

 

人間が霊的に進化しますとは、どんなことでありましょうか。

高度に進化した人というのは、普通の人にはない雰囲気(オーラ)をまわりに漂わせていると言われています。

どんな人にもその人独自の雰囲気をまわりに放ってはいるのですが、その力が微弱なため他の人には感じられないだけかも知れません。

 

霊的に進化しますと人が本来、持っています各能力は高まりますと共に、特殊な能力も発揮できるようになると言います。

もっとも、そうした超能力なるものは成長して行く過程で起きます付随的な出来事でありますので注意しなくてはなりません。

 

霊的に成長するとは、イメージとして何となくわかるような気がしますが、ほんとうはどういうことなのか、まだ完全に把握できているわけではありません。

イメージ的には次のようなものが上げられそうです。自我や感情をコントロールできますのと、意識が高く大きな視野で物事を深く思考できて来ます。

人間の起源とその本質、地球や宇宙の成り立ちが理解できております。

 

 

完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。

 

 

当たり前のこと

 

ある女性から「一日だけ、はさみを貸してください」と言われて、手持ちのはさみを貸しました。

一日ぐらいなら、それがなくても別にどうってことはなかったのですが、二、三日たってもはさみが返ってきません。

さすがに不便を感じることがあり、貸した人に返してもらわなくてはと思っていました。

 

やっと、その人に聞く機会がありましたので「はさみは、どうしましたか?」とたずねたところ、

「忘れていました。返そうと思っていたのですが…」という答えでした。

これを聞いて、その人に対してどんな印象を私が持ったのかは、想像がつくと思います。

 

この人は、自分の言ったことでさえも、守れないのだ。借りたものは返すのが当たり前、と思っているだけで、なかなか実行しない人なのだ。

すぐ返さなくても、貸した人は別段、困ることもないだろう、などと自分勝手なことを考えている人だ…。

 

ちょっとしたことをきちんと守る習慣ができていない人は、いくら着飾ってみても、人から好印象を持たれることはまずないでしょう。

本人がそのことに、いち早く気づいて、心を改めていけば、何の問題もないことです。

その女性は、はさみをすぐ返しに来たので、相手から言われる前に、自分から返すことを心がけるように、と伝えました。

 

ちょっとした約束ごとなのに、人はどうして守れなくなるのでしょうか。

おそらくそれは、子どもの頃には褒めてもらえたのに、大人になってからは、ちょっとした約束ごとをしっかり守り通してきたとしても、それは当たり前のことなので、高く評価してくれる人や感謝してくれる人がいなくなったからではないでしょうか。

もしそうなら、誰も褒めてくれなくても大丈夫です。

 

この次から自分が、当たり前のことを当たり前にやれたときは、自分で自分を、うんと褒めて上げればいいのです。

それじゃー、さびしいですか。

でも、当たり前のことを、当たり前にやることこそ、ほんとうは一番むずかしいことを、ほとんの人は知らないのですから、

このことの方が、よほど悲しいのではないでしょうか。

 

 

高め合う生き方

 

人間の役割は最高の人間をめざすことだと思っています。地球上の他の生物や鉱物資源などを支配することではないのです。

あらゆる存在を敬い、彼らの進化・成長を促すものであると思います。最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。

 

神にもっとも近い存在といえるほどに、進化した人間のことではないでしょうか。

この進化し成長を遂げることが、人類をはじめとして、全宇宙のありとあらゆるものの存在理由でもあると言えるでしょう。

 

もしも、進化の道からはずれた場合は何であれ、滅んでいく運命にあるのです。

いまの人類は、その崖っぷちに立っていると言えます。一人ひとりが、いま自分は進化の道にいるのだろうか、退化の道をたどってはいないだろうかと自問すべきなのです。

 

別に難しいことではなくて、昨日よりも今日の自分は、少しは進歩したかどうか、一日の終わりにざっと振り返ってみるだけでもいいと思うのです。

たとえば「今日、あの人に厳しいことを言いすぎたので、明日はやさしい言葉をかけてみよう」とか、そういった相手も自分も高めてくれるようなことを実行して行くだけで十分です。

 

ほんの小さなことであっても、自分の本心から出て来たことを、そのまま行うように心がけていけば変わって来るものです。

少なくとも人と争ってみたり、不平や不満を言ってみたり、投げやりになって仕事をするようなことは、自分から慎んでいかなければなりません。

 

共同生活を営む私たちは、お互いに高めて合って生きていくようにできているのだと思います。

ときには厳しいことを人に告げなければならないこともあれば、反対に人から手厳しいことを言われることもあるものです。

 

また、困難なことが立ちふさがり、もう絶望するしかない状況に直面したときでさえも、私たちは支え合って、その難題を乗り越えていくだけの知恵と勇気を持ち合わせているものです。

人はそうした局面にぶち当たってこそ、めざましい成長を遂げるものでもあるのです。