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思考の舵取り

 

これまで人と争ったり事故に出合ったりしましたのは、背後にいます邪(よこしま)な霊が仕向けたり呼び寄せたりしました結果であるかも知れません。

その当時を振り返ってみますと、そうとしか思えないのです。

そのときの争う直前の自分はもう自分でなくなって、別の何者かが乗り移ったかのようでありました。

 

あるいは自分の奥に潜んでいました、邪な部分が全面に踊り出た可能性もあります。

いずれにしましても自分であって自分でない、そういう心境であったのは間違いないようです。

 

その頃は何かしら心も乱れていたようで、それが災いを招いたのだと思います。

今のように地に足を着けた状態を維持していますと、邪な霊につけ込む隙を与えていないのがわかっています。

 

普段から霊主肉従の努力をしていませんと、悪霊たちに引っかかってしまいます。

常に思念の舵取りを意識し、人々の幸せを願う心で満たすことであります。

 

 

どんな動機を持つか

 

何を行うにせよ、その動機が自分の利害に基づくものなのか、純粋に相手のためを思ってのことなのかによって、その行為の質が決定します。

だから自己がどのような動機付けに支配されているのかを知っておくことは非常に重要だとわかります。

 

例えば恐れを回避するための行動ですが、ごくたまにあるぐらいでしたら特に問題はないようです。

しかし、もし頻繁に見られるようになった場合、何か間違った道を歩んでいる公算が大きいので生き方の見直しが必要となります。

 

普段から何を考え、何を意識しているのかが、とても大事だ気づきます。それが動機となって行動に表れるからです。

自分の得ることを最優先に考えているのか、あるいは人にどのように役立てられるか、そのどちらを考えているのかが問題です。

 

 

私と個別意識

 

なぜ、大して重要でないことに思い煩うのでしょうか。

内側の意識に焦点を当てて見ましても、そこには煩った痕跡は見当たりませんでした。

私の個別意識が思い煩っていただけでした。元々実態のないものだけに、絶えず恐れを抱かずにはおれない小心者です。

 

いつかは、この個別意識を手放すときが訪れるような気がします。

だからと言って、それはなくなってしまうわけではなく、隅のほうで観察者の役目を果たしているだけだと思われます。

 

それまでは、この自我意識に振り回される生活が続くことになります。

今後も思い悩んだり、恐れおののいたりすることでしょう。

ただ、それと完全に同一化してしまわないよう気をつける必要があります。

 

 

日々の暮らし方

 

あの世であろうとこの世であろうと結局は、毎日をどのように生きますかが非常に重要だとわかります。

あの世の実態を一端でも知り得た者として、何よりも人の模範となるような生き方をして行かなくてはと思うのです。

 

いい加減な暮らし方をしていては居心地が悪く、とても我慢できるものではありません。

どのような生き方がベストであるかを知りましたからには、それを実践しなくてはいたたまれないのです。

 

一人のときは人の幸せを思い、祈るのを常といたします。人の役立つことが見つかれば見逃さず、丁寧に行います。

人にはいつも友愛の精神で接します。魂の声に従い、その導きに沿った生き方を心がけます。

 

 

 

役立てられるか

 

放っておきますと、独りよがりの心境になっています自分に気づき、ほとほと呆れてしまいます。

今のノーマルな自分とは、ことあるごとに人を批判したり裁いたりしているのですから。

 

例えば、寒い寒いと言っている人に対して寒がりだねと批評し、相手から手厳しい反論があってもなお更に嫌みを言う始末なのです。

よくよく考えれば、こういう好ましくない性格が全面に表れますのは今に限らず、これまでもよくあったのです。

そんな自分の振る舞いに自覚さえなく、気づいてもいなかったというのは、何という認識力のなさだったでしょう。

 

これからの対処法としまして、「どうしたら人に役立てられるか」を口癖にします。

もし無意識な状態に気がつきましたら、その時点で改めます。

特に人との応対の際は、意識して客観的に自己をとらえる必要があります。

 

 

意識して行う

 

日常、どんなことを心がけて過ごせばいいのでしょうか。朝、目覚めましたとき、一番に何を思い浮かべるかです。

少なくとも嫌な気持ちにさせますことは決して思い描かないように、できれば明るい気持ちになれますような言葉を口ずさむだけでもいいと思います。「よしっ、元気で行こう」と。

 

起きてから、いつもの仕度をやっていますときに、今日一日やり遂げたいことはないか考えて、何か一つやってみようと決めるのもいいのです。

仕事を始める場合には、いきなり取りかかるのではなく全体の流れをざっと描いた後、今日気をつけるところはどこかを考えてから取り組みます。

 

何をするにしましても、漠然とやらないようにしなければなりません。

これまでの長い習慣であります無造作にやってしまうのを、改めて行かなくてはならないのです。組み込まれたプログラムを変えて行くのです。

また無心になって行う場合もありますが、そんなときにも意識して行う必要があるのです。

 

やっていますことに、いつも気づいていますのが肝心なのであります。

身は起きていましても、半ば眠っているようなボーッとした状態に自分を置いてはいけないのです。

 

いままで、ただ身体を動かしているだけで、機械的に行っていたのがどれほどあったことでしょうか。

慣れるというのは一見、好ましいと思ってしまいますが、注意を怠り意識をそらします元凶でもあるのです。

 

 

すべてを思う

 

なぜ、みんなのことだけを考えて行くのでしょうか。それがほんとうの自分と同調できます領域に、もっとも近いからではないでしょうか。

個別の意識から抜け出しまして距離を保つには、最良の方法と思われるからです。

 

それは親元を離れた自分が親を思い、慈しむ心を呼び覚ましてくれるようなものなのです。

みんなを思い描こうとしますと、そのみんなから祝福を受けているように感じます。

しかも、ずっとこれまで祝福されていましたのに気づかされます。とても癒やされます。無条件の愛とは、このことでありました。

 

自分とは、いったい何だったのでしょうか。そこでは自分というものが、どこにも見当たらないのです。

しかし現実の中に意識を戻しましたら、自分といういつもの感覚にいるのです。

個別意識と全体意識の違いを垣間見ましたように思えます。ほんとうの自分は、全体意識とつながっていますのが理解できたような気がします。

 

意識面でみんなとつながっているとは、こういうことでありました。

そのつながりを無視しますことで、個別意識が表れて来るのでした。出来るだけ、みんなに意識を合わすように心がけます。

どちらの意識に焦点を合わせているのか、それを意識しておくのが重要なことのように思われます。

 

 

望むことだけを取り入れる

ふだんから気をつけておくべきことのひとつとして、人は四六時中、何かを考えたり思っていたりしているものだということです。

ほとんど無意識にやっているから自分でも気がつかないだけなのです。だから何を考え、どう思っているかが、とても大事になって来ます。

 

日によって心には浮き沈みがあるので、ある時は陽気であったり別の日は沈み込んでいたりしている自分に気づくこともあります。

また意識していないと周りや状況に巻き込まれてしまい、いつの間にか望む結果とは、かけ離れたことを引き寄せていることもあります。

 

特に望まないことや不安、心配ごとばかり考えていると、それが現実になってしまうことがよくあるので、否定的なことには要注意です。

望まないことよりも、本当に望んでいること、なって欲しいことを普段から考えるクセを付けておくことが何よりも大切だと思うのです。