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体験者と観察者

 

自分自身の本質とは、何でしょうか。

いまの自分は、いつも選択に迷っていたり間違いをおかしたりしまして、完璧には程遠い生き方をしています。

また、思い通りにいかないと落ち込んでみたり、たまに良いことがありますと喜んだりしているのです。

 

しかし、迷い落ち込んでいますのは、ほんとうに自分なのでしょうか。いったい誰が迷い、落ち込むと言うのでしょうか。

実は、自分自身といいますのは本質的に完全でありますので、自分と思えます架空の分身を仕立て上げたのです。

その者が間違ったり、悩んだりしていると考えられます。

 

本来は、第三者的に眺めていますだけだったのですが、直接に体験したくなって来たのであります。

それでその者と一体になりきりまして、自分があたかも間違ったり喜んだりしていると思い込むように、振る舞って来たのです。

 

例えば、失敗や成功というものを体験するには、まず不完全な状態になりまして味わう必要がありました。

完璧なままでいましたら、失敗しますこともなければ、成功とはどういうものかもわからなかったからです。

そして、そうしたことを続けて行きますうちに、自分の本質が何だったのか、わからなくなってしまいました。

 

それでも本質を失ったわけではありませんので、ときに無意識に感じ取りましたり、突き動かされましたりします。

十分に体験し尽くしましたなら、そこから離れる術を学んで行かなければなりません。

ほんとうの自分とは限界のない無限の存在でありますことを思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。

 

 

観察者の視点

 

なぜ自分の思考や行動などを観察することが重要なのでしょうか。

大きな問題としまして、よほど注意していませんと、自分の思考や行動などを、自分そのものと取り違えてしまうことです。

 

そして、それらを生み出しています、主体の自分自身のことをすっかり忘れてしまうからです。

ちょうど自分の肉体が、自分自身であると思い込んでしまうのと、よく似ています。

 

それがどうしていけないのでしょうか。それは、自分の考えや行いなど、そのものに執着してしまうからです。

執着しますと、それを失ったり傷つけられたりすることへの恐れが生まれて来るのです。

それで必死にそれを守ろうとしまして、異常なまでに敵がい心を燃やしてしまうものです。

 

ときには怒りにかられたり、葛藤に巻き込まれたりするのです。

自分の意見やアイデア、手柄などを簡単には手放せなくなって、頑なになってしまうものです。

争いのほとんどは、こうしたことが大きな原因となっているように思います。

 

それに対して、観察する目を養っていきますと、執着する理由がありませんので、はるかに容易に考えを変えることができます。行動を改めていくこともたやすいのです。

いつでも当事者の目線から離れて、第三者の目で物事をとらえられますので、的確な判断を下せるからです。

それに、観察者の視点をもっていますと、自分自身への道を踏み外すことが少なくなって、迷わずに進んで行けます。

 

 

トラブルを防ぐ

 

人とのトラブルのほぼすべては、自分次第で未然に防ぐことができます。

何かトラブったとき、あの人が悪いとか、あいつが変なことをしたから、こういうことになったのだとか、原因をみんな相手のせいにしがちです。

しかし、もしも自分が冷静でいて賢明な選択をしていたなら、そのトラブルはそもそも起こらなかったはずではなかったでしょうか。

 

もし自分がこれ以上できないぐらいの優しさと、何でも許す心をもって臨んでいたなら、相手がどう出ようと争いは起こりようがないではないですか。

どうしてそこまでしなければならないのだと、思われるかもしれませんが、そこまでする価値があなたにあると言いたいのです。

 

良きにつけ悪しきにつけ、人はほとんど思い込みによって生きていると聞いたことがありますが、本当にその通りだと思います。

 

例えば私は小さい頃、いじめられたことがあります。以前はそのことを思い出すと悲しくなったり、相手に怒り感じたりして悶々としていました。

しかしその後、客観的にその頃のことをよく思い出してみたのです。そしたら必ずしもいじめられた訳ではなかったのです。

自分はいじめられていたと思い込んでいただけで、単に相手は当時の私の欠点を指摘していただけのことだったのです。

 

また小学生のときの学習発表会で、みんなの前に立つだけで顔が真っ赤になってしまい、頭が真っ白でした。

このときも、みんなが自分を見ている、見られていると思い、もう恥ずかしくて、顔を真っ赤にしていたのです。

 

自分の過去を振り返ると、ほとんど自分の勝手な思い込みが原因でトラブルを起こし、嫌な目にあって来たことに気づいたのです。

いじめられたり、無視されたり、悪口を言われたことなど、どれも実際には一度もなかったこと、自分の単なる思い込みがそこにあっただけだと断言できます。

 

トラブルを根絶するのは簡単なことなのです。

まず人から何かされるという受け身の立場を金輪際、捨て去ってしまうことです。

そして何かを為す自分として、主体的な立場に立って、自ら積極的に望ましい関係を切り開いて行くつもりになるだけでいいのです。

欲望を減らす

 

例えば、車を運転中は、次の信号は青になってくれとか、青のままでいてくれなどと、思っている自分がいました。

またあるときは、前の車はもっと早く走るべきなんだとか、あの車は自分が通るまで待っているべきだとか、自分勝手に思っているのです。

 

これらはすべて、ほんの些細な欲望なのかもしれませんが、小さいからこそ質が悪いことに気がつき始めました。

心の隅には、こうした些細な欲望がひしめきあって、そのおしゃべりを絶えず聞かされているのです。

主人であるはずの自分は、いつもそうした欲望に突き動かされ、無意識にそれに従っているのです。

 

欲望それ自体は別に悪いわけでなく、来ては去って行くだけのものに過ぎず、それに執着しなければいずれ消えてなくなります。

 

そのことに気づいてから運転中は、自分勝手な願望は手放して、信号が青でおれば進むし、赤や黄色であれば止まることにしました。

また人の運転についても、とやかく言うことをやめ、目の前で展開していくままを受け入れて運転するように心がけています。

 

すべてをなくそうとするのではなく、気づいたひとつひとつの欲望から手放していく。その第一歩を踏み出したばかりです。

欲望に走ることをやめて、個人的な意志を手放していく。これがこれからの課題です。

 

 

やったことが返って来る体験

自分が出合う状況には、
それなりの意味があること、
その場の自分にふさわしい、
必要なことだということ
を改めて
知る機会がありました。

それは、
出来事をどのように
受けとめたかによって、
違ったものに見える、
印象的な体験でした。

『人の振り見て、我が振り直せ』
という故事どおりに、
望まないことを人からされた時、
それを
自分がやったことに
置きかえてみて、
考えることによって
これまで見えていなかったものが
見えて来たのです。

自分の見方が自分の考えを
大きく支配していることを思い知りました。

自分の見方を変えただけで
周りの状況が違ったように
見え始めたのです。

もし、一つの見方しかできず、
ほかの見方があることに
まったく気づけなかったり、
間違った見方をしていることに
気づかなかったら、
間違った考えで、
間違った行動を
とり続けていたことになります。

わが身を振り返ることの
難しさとともに、
その大切さを
痛感する出来事でした。

今日の朝食です。
自分が焼いたパン、地元でとれた各野菜のサラダ。
それに妹から届いたりんごでした。
141129

1日1食の体験記21~5日間、朝1食だけです

1日1食の生活をためしてみて、私にわかったことは
ものを食べるから身体が疲れ、休息が必要になるということです。

食べる量をへらすだけで、それにともなって睡眠時間もへり、
自由につかえる時間がふえて行きます。

1日のうち1食をへらすだけでも、慣れてくれば
身体はそんなに休息を必要としなくなるのです。

要するに食べなければ、身体は疲れないということです。
これは私にとって確信にちかい事実になっています。

でも食べないと身体がもたないのではないかと不安に
思われる方もおられると思います。

私も前に食べたものが、やけにお腹にたまっていると
無性に食べたくなり、食べないと身体がもたないという
気持ちにおそわれることがあるのです。

そういう時は無理をせず、素直に
何か口に入れたりしていますが、かならず残ったものをすぐ
出すように心がけています。

1日に3度も食事する生活をしていると、
いつもお腹に食べものがある状態がふつうになっており、
食べたいという思いを常に持ちつづけることになります。

お腹にいつまでも古い食べものが残らないように、
身体はつぎつぎと食べることを要求して来るのではないかと
私には思われるからです。

この状況から抜け出すためには、まず食事の量をへらして
みることが1番だと思います。

つぎにやることは、お腹に食べものをためないことで、
入れる以上に出すことにもっと注意を向けることでした。

毎日私もやっていますが、洗腸することをオススメします。
腸を水で洗浄するカンタンな洗腸機が出回っています。

究極の成功と自分磨き

私の人生で、これだけは守り通したいというものを上げるとしたら、
それは何かというと「人生を肯定し受け入れる心」です。

また、これだけは到底、容認できないというものを上げるとしたら、
それは何か?「生きていく力」を損なうような考え方いっさいです。

最終的に生命を賛歌する力の一翼をにないたいと願っていますが、
いまは人生を容認して生きていくだけで手一杯な状態です。

人間はもともと無垢な形で産まれたように、また無垢な状態で
この世を去ることができれば、それが1番の理想だと思います。

せめて、それに近い形で終わりを迎えられるように、手放せる
ものはすべて手放すことが肝要だと思うのです。

自分を磨くとは、誤って身に付けてしまった思い込みや刷り込み
などを捨て去り、元の姿に蘇っていくことでもあると思います。

1日1食の体験記18~現在の状況

1日1食の体験記18~現在の状況

私がめざしていることは、食べる食べないということに、
一切こだわらなくなって、より自由になることです。

今までがあまりに食べることにとらわれていましたので、
それをまず手放すことが先決だと考えています。

身の周りやどこかに出かけたりすると、飲食に関連する商品、情報が
あふれており、手放すことは容易でないことを実感します。

だからといって食べないことに、とらわれ過ぎても、別の枠に
ハマる結果になってしまうので注意しているところです。

数十年来、私が口にして来た物は、ほとんど野菜と穀物でしたが、
それでも不都合なく過ごして来られました。

栄養のあるものを食べなくては、生命が維持できなくなる
ということは、ほぼ間違いだと思っていますので、

何も食べないても生きている人がいる、と聞いても
自然に受け留めることができたのだと思います。

食べる食べないことや何を食べるかは、その人の趣味趣向の
問題で、生きて行くには別段どちらでも支障ないように思います。

飢餓という問題は、食べなければ生きていけないという
強い思い込みが、大きな要因になっているように思います。

例えば地震などの自然災害に対して、恐怖感をいだくのは食べものが
絶たれる恐れに反応している面もあると思うのです。

食べないと生きられないという思い込みを持ったまま、食べられない
状況になったら、食料をどう確保するかは死活問題になります。

しかし逆に、食べなくても生きていけるということを知った瞬間に、
大きな安心感に包まれるのです。