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むなしさを味わう

 

山田洋次監督の「隠し剣 鬼の爪」を見ました。ホッとさせるシーンで終わって、その余韻がのこっています。

話の展開にただついて行くのがやっとでしたが、生きていく上で、この時代特有の厳しさというものを感じました。

さすがに侍同士が命をかけて戦う、果し合いの場面は見ごたえがありました…。

 

それにしても後をひく感じの、一種のむなしさは何なのかと思います。

もしむなしさに打ちひしがれているなら、それはそれで十分に味わえばいいという声が聞こえてきそうです。

心の手綱をゆるめれば、あっちにフラフラ、こっちにフラフラとゆれ動くのは、当たり前なのかもしれません。

 

いまのように何とも言いようのない状態にいる自分に気づいたときは、心のどこかにスキがあったかもしれないと反省し、すぐに身の立て直しをはかるべきだと思い立ちます。

そうすると、いつも何かに身構えていなければならないという前提があることになります。

 

いったい何に身構える必要があるのでしょうか。しいて上げれば不用意な情報から身を守ることかもしれません。

心をひらくことへの警告であり、警戒心を呼び起こすねらいなのでしょうか。

この映画が不用意な情報に相当するのか疑問ですが、少なくとも自分の琴線にふれたのは確かです。

 

ところで、身を立て直すとは、崩れかかった身を立て直すということですから、弱さからくる心の痛手を修復することだとも受けとれます。

心身はつねに一体であるということを考えれば、心構えを整えるときにも身を立て直すことから、取りかかるのも納得がいきます。

ようやく、ひとつの時代を描いた映画だと受けとめる用意ができました。

何に尽くすか

 

山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」を見ました。

時は幕末の頃、地方の一介の武士の生き様を描いたものでした。

移り変わり行く時代の狭間で、家族をかかえ困窮の中にありながらも、精一杯に生きて行きます。

しかし武士の身として、いざとなれば命を張って藩に尽くすしか、ほかに道はなく、どうしようもなかったこと、それが痛いほど伝わってきました。

 

どういう時代に生まれたかによって、人はどう生きるかは大体決まって来るように思います。

もし戦時中に生まれていれば、嫌でも戦(いくさ)と関わることになり、限られた選択の中で生きて行くことになります。

また今という時代に生まれてきた場合は、もっと幅広い生き方が可能かもしれません。

でも、この時代が要求する範囲の中でしか、選択が出来ないという点では変わりはないと言えます。

 

結局のところ、人はある時ある場所に偶然に生まれてくるのではないようです。

時代や場所、そしておそらく両親をも、あらかじめ決めて生まれてくるのではないでしょうか。

そう考えないと、限定され違った時代時代に人間として生まれてくる意味が見つからないからです。

 

だから、幕末の混乱の時代にあえて武士の家系で生まれ、戦(いくさ)で命を落としたとしても、侍として忠誠を尽くすことに意味があったのではないかと思うのです。

いま、この時この場所で生まれて来たことを信頼し、この時この場所でしかできないこと、やることがあるはずなのです。

いま自分は何に集中し、尽くして行くべきなのかを問い、それに見合ったことだけに専念する、そういうことだと思いました。