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かけがえのなさ

 

今朝、気づいたのですが、車を運転中に愛を意識していますだけでも十分に、周りを配慮した慎重な運転をやっておりました。

向こうから車がこちらに迫って来ますとき、そのものの脈動感が伝わってきまして思わず身震いしましたのは、自分の本質も愛であるからでありましょう。

 

さらに思い至りましたのは、普段の日常生活におきましてこそ、常に愛を意識しますことの大切さでありました。

そうした気持ちを持っていますと、何もやっていないときに時々感じていました、言い知れぬ寂しさとか孤独感からも解き放たれるのを知りました。

 

不足とか欠乏感が生じて来ないのにも気づき、愛という偉大な力のその一端に触れたように思われまして、感謝の念に打たれました。

どうしてこんなに大事な心がけを、いつの間にか忘れてしまったのでしょうか。

 

一時的にせよ、忘れる必要があったからなのでしょうか。そうとしか、思い当たらないのです。

なぜ、忘れなければならなかったのでしょうか。先ほど感じましたような愛の偉大さ、かけがえのなさを実体験で学んで知る上で忘却は不可欠だったのでしょう。

 

自分はもう、そのことを十分に知り尽くしましたと、天に向かって断言できればいいのですが、まだまだ言える状況ではありません。

自分が学びの途上にありますのをここで再認識し、もっと学び取ります決意を新たにするのでした。

 

 

生きている木

 

大きくなりすぎた庭の木々の剪定をやろうと、ずっと思っていました。それを昨日、意を決してやることにしました。

手伝ってくれる人に依頼できたことで幸先が良く、昼過ぎから作業に取りかかることにしました。

前にも何度か剪定はやったことがあり、十分に気を付けてやっていくのはもちろんのこと、要領もだいたいわかっていました。

 

作業着に着替えて軍手や帽子、剪定の道具などを身に着けていよいよ作業の開始です。

3メートル以上の高さの木に、剪定用の梯子(はしご)を使って登るわけですが、この梯子が結構重たいので慎重に動かして安定させます。

上に登ってからすぐ、足元がぐらつかないように木とはしごの上部を太めの紐でくくりつけます。

枝の適当な位置にのこぎりの歯を当て切り始めて行きます。太い枝ですので、一つを切るのにも重労働です。

 

最後の大枝を切り終えた直後、ヒヤッとしました。太い枝がすぐ横で落ちて行ったのです。

もうちょっと手前だったら頭を直撃されるところでした。助けてもらったと思うと同時に感謝の念に打たれました。

そのとき、一生が終わっていたかもしれないのに、生かされました。まだやるべきことが自分に残されていることを確認する出来事でした。

 

さて5、6本の大枝を切ったところで、上での作業はひとまず終わりにして、切り落とした枝のさばきにかかります。

切り落とした一つ一つの枝が相当に重くて「よくもまあ、こんな重い枝をいくつも木は支えていたのだ…」「文句ひとつも言わずに、黙々と支えていた」ことに、つくづく感心してしまいました。

生きている木から「支え、支えられて生きている」とは、こういうことなのだ、と教えを受けているようでした。

 

で、その枝をその場でそれぞれ、いくつかに切っていき、持てるほど小枝に分けてから運んで行きます。

最後に小枝を更に細かく切り分けて行きます。1時間のつもりが3時間以上かかってしまいました。

これでどうにか1本の木の剪定が終わりました。あと4本ありますので、一週間後に2本目をやる予定です。

 

 

望んでいることを好きなことに

 

望んでいることを好きなことに望みを実現するのはどんな時かを考えればまた見えてくるものがあります。

そこには何としてでも実現したいという強烈な思いがあり、好きとか好きでないとかを越えたレベルにいることは確かです。

 

望んでいることを現実化する原動力は、自分の内の熱い思いから発していることがわかりました。

理屈ではなく本当に実現させたいのか、そうでないかのかを自分に聞けば自ずと答えが返って来ました。曖昧なのです。

 

まずはきっかけの糸口として、ともかくそれが好きなんだと思いながら、やり続けてみるのもひとつの手だと思います。

やって行く中で望むだけでなく何が何でも実現させたいという段階にまで行くかどうかを見定めたいと思うのです。

 

 

いまという瞬間

 

ふとあるとき、すべてのことを頭から追い出して目をつむり、いまという瞬間にフォーカスしてみました。

しばらくそのまま、その状態でいると、何とも言えない安らぎと充足感を感じるではないですか。

そして、ここにこそ『すべて』があるように思えたのです。

 

あらゆる迷いや不足とか不満などが一気に消え去って、心は『すべて』で満たされていることに気づきました。

心身ともに癒された思いになり、自分は何者でもないことに気づくのです。

 

それは真実の私に一番近いものであること、私という内なる宇宙にあらゆるすべてのものが在るという感覚でした。

雲をつかむような取り留めのないことだと思われるかもしれません。

でも、心を空っぽにして試していただければ、何となくわかっていただけるのではないかと思います。

 

 

望むことを考える

 

これまでずっと言われて来たことで、書名にもなっている「人間は自分が考えている通りの人間になる」という言葉があります。

それを単に知識としてではなく、実感として真実であることを理解し始めたところです。

 

それまでの自分は、望むことよりも望まないことばかりを考えて来たように思います。

そうして望まない結果を引き寄せていた間違いに気づいてから、考え方を改めることが出来たことは幸いでした。

 

最終的に行きつくところは、望む望まないとか、いい悪いなどを越えて、すべてをあるがままに受けとめられるものでありたいと思います。

それまでは望むことや好きなこと、良いことだけを考えて、それらにとり囲まれた生活を思う存分に楽しむことにしたのです。

 

 

信頼の力

 

1人で出張販売に出かけましたが、現地で手伝ってくれる方が2人現れて大変助かりました。最近、困るようなことがほとんどなくなったような気がします。

お店のほうもパートさんたちが十分に動いてもらえて自分のすることが少なくなり、時々の相談事にもじっくり耳を傾けることができて有り難いことです。

 

見渡せばもう十分信頼していい環境下にあることに気づきます。結局は自分の態度如何だったということをつくづく思い知るのでした。

その都度その都度、浮かんでくる不安などを振り払って相手を信頼する方向へシフトしながら仕事を進めて行った結果が今の現状だったのです。

 

半信半疑なところが自分にあったのも事実ですが、しかし今の生き方を確信していい時期に来ていること。後はそれを自分が認めるだけでよかったのです。

 

 

他者との関係で生きる

いつも考えていたり注意を向けているものに、自分の貴重なエネルギーを注ぎ込んでいることに気づかず無意識にやっていたことを、最近は意識するようになりました。

これまで目の前のことにあまり注意を向けないで、過去や先のことなど、ここにないことに意識が向いて望まない結果を引き起こしていたのです。

 

もちろん理想を描いたり過去を省みるのは有益なことですが、いまやっていることをおろそかにして、あと先を考えるのは止そうと思ったのです。

しかし、これがなかなか難しいのも事実で根気よくやって行く以外に方法はなさそうです。

 

どれだけ今まで力をムダにして来たのかがわかったからこそ、こうして今1つの方向に意識を向けるように訓練するようになりました。

例えばブログの記事を書くなら、それに集中しさえすればいくらでも書けることがわかりました。

 

それをあれこれと、あることないことを考えるから書けなくなっていただけだったのです。

何をやっても出来ないのは、意識をそれに向け続けること、つまり集中することの偉大な力を知らないだけなのです。

今ようやく、そのことがわかり始めたところです。

 

 

1日1食体験記16~元の身体で再挑戦へ

 

お腹にいつも食べものがある重い場合と、お腹に食べものがない軽い状況を体験してみて不思議に思いました。

お腹は重いが疲れを感じることはないという現実に対して、お腹は軽やかなのに全身に力が入らないという現実もありました。

 

単に身体が慣れていなかったからだと思っていますが、その大きなギャップには驚いてしまいました。

身体にとってはどっちが好ましいのかは、実感してみて明らかに軽やかで1食を十分に味わえる状態のほうだと思うのです。

 

また時間的にも精神的にも1食の時はゆとりの感じ方が断然違っていました。

ぜひとも1日1食を定着させたいという思いは強く、今のところやってみる以外に選択の余地はないようです。