「受け入れる」タグアーカイブ

より高い自分

 

本質に気づかないよう思考回路は分断され、身体的に改造されているのですから、自分がつねに低い周波数に立ち戻ろうとしますのも仕方がありません。

そのことに気がついていますだけでも、それに見合う適切な対応は可能だと思います。

 

自分の持てます数少ない機能をフルに使いまして、自力で一歩ずつ本来の性能を回復して行くのです。

そこで必要になって来ますのが、まず明瞭なビジョンと愛に満ちたハート、そして信頼であります。いま考えられますビジョンほかは、次のようなものです。

 

私の内の暗闇にことごとく、光を行き渡らせるのを意図します。私に起きるすべての出来事を前向きにとらえ、それを愛で強化して放って行きます。

もしも恐怖心が襲ってきましたら忌み嫌うことなく、愛の周波数で受けとめますように意図します。

 

私は自分の考え、そのものが自分の世界を創り上げていますのを重々承知しており、そうした力を持ちます自分を限りなく信頼します。

私の内にあります、より高い自分を発見します喜びを、すべての意識と分かち合えますことを意図します。

親愛なる神よ、私の意図が成功裏に終わりますように勇気と行動力と忍耐とを私にお与えください。

※参照 バーバラ・マーシニアック著「プレアデス+かく語りき」

 

 

体験から学ぶ

 

いわゆる闇に対しまして、どのように対処していけばいいのでしょうか。

光だけを受け入れて闇には断固として拒絶すれば、それですむのでしょうか。なぜ闇と称せられるものが存在するのでしょうか。

 

この世の中に無駄なものは何ひとつないと考えますと、闇にも何か重要な役割がありますように思われます。

諸々の誘惑に負けましたり退廃的な行動に走ってしまったりしますのも、その根となる怠惰な性質が自分の内にもあったからです。

そのことに気づけましたのも、引き金となります魔の力に出会ったからです。

 

これではいけないと思って強くあろうと努力し、自分の身を立て直す方向に行かせるきっかけを与えてくれたのです。

あるいは、そのままズルズルと深みにはまってしまって、頭をガツンとやられるまで気づかない場合もあります。

いずれにしましても、学びがそこに生まれるわけです。

 

闇と呼ばれますものの中には、様々な試練を人間に与えますことで、向上しようという意欲を呼び覚ます役目になっています。

それに関連しまして、下降があってはじめて上昇が生まれるという構図もあります。

 

成長しますには、それを阻む要因を必要とするのです。不幸な体験を経ましたからこそ、幸福の有り難みを実感できるのと同じです。

夜の明けない朝はないと言われますように、仮にどんな逆境に見舞われましても、いつかは去って行くものであって耐える力を養うときであります。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。

 

 

自分の思うところ

 

正直なところ、自分の思うところのものを、必ずしも尊重して来ましたとは申せない気がいたします。

むしろ無視をして来ましたのが、大半でありましたようにも思います。

自分に自信が持てなかったからでありますが、そうは言いましても無視の出来ないことも何度かありました。

 

たとえば、食べ物に対する安全意識は人一倍に強く感じておりました。

野菜作りを始めましたときは、無農薬による有機栽培にこだわり続けていました。

パン作りにおきましても、ずっと無添加の天然酵母パンのみを焼いているわけです。

ときどき自分でも、なぜここまでこだわってしまうのだろうかと不思議に思ったりいたします。

 

また、普通の人なら読まないであろうと思われます本に興味を抱きまして、少々高くても手にしまして読み始めるのです。

一時期、古代の日本歴史に、はまり込みまして日本のルーツを探りますのに熱を上げていました。

 

学校で歴史を習いましたときには、まったく関心がなかったのにおかしなものです。

教科書に載ってはいない出来事や表に出ていない事柄の中に、もっと何か真実が含まれていますような気がしましてならないのです。

 

これは日本だけでなく世界の国々におきましても、過去におけます大半の史実の数々は捨て去られました形跡が残っています。

ですから、知らされていない事実は膨大でありますに違いないのです。

このブログを続けていますのも、思うところがありますからそれに従っているのです。

 

 

個は全体の縮図

 

なぜ、心を閉じてしまうのでしょうか。もうこれ以上は、そとの世界にかまってはいられない、受け入れられないと思ってしまうからです。

どうしてそこまで、しなくてはいけないのか、あるいはこんな好きでもないことをやりますのは、もうたくさんだと思うわけです。

 

好きか嫌いかに振り分けまして生きて行こうとします。個人的な意志を捨てていきます方向から自ら、はずれて行くつもりなのです。

これでは、またまだ個人的な執着が手放せない状態でありますのを認めなくてはなりません。

 

嫌がっています心に無理強いをいたすのは慎まなければならないからです。

未だ個の確立が成し得ていないことをここで率直に認めます必要があります。

 

そうしますと、これから改めて個の確立に向けましての軌道修正から行っていかなければなりません。

個を確立するとは、どういうことなのでしょうか。まず個別であります意味を理解していなければならないでしょう。

 

個別を重んじますとき、自己の思うところのものを尊重して行きます態度に揺るぎがありません。

つまり自己は他と違っていまして構いませんし、むしろ違って当然であると自覚しています。

しかも、根本におきましてはまったく同一でありますことや、個としましての自分というものが全体の縮図に過ぎないのも熟知しております。

 

 

心を開くことから

 

人の身に何が起きましょうとも、それはその人の問題で、自分には関係がないと思いたい気持ちから、知らない振りをしてしまうのではないでしょうか。

どうして、このように考えるようになってしまったのでしょうか。

 

スマホや24時間営業の店などの出現によりまして家族間のコミュニケーションする機会が減りました。

交通の発達によって、地域でのつながりも薄れて来ております。

また、核家族化によりまして先祖とのつながりも希薄になっていますのが、今の状況であります。

 

地域で、お互い助け合って乗り越えて来たこともなければ、一緒になって苦労して作り上げたという経験も見当たりません。

おじいちゃんやおばあちゃんから、どんな家系の家で生まれ育ったのかという話も聞いたことがないのです。

こうして、人とのつながりを強く感じます機会がほとんどなくなりましたのが、主な原因ではないでしょうか。

 

つながり自体は昔も今も変わらずにつながっていますが、自分がそれをどれほど感じ取れていますかどうかが問題なのです。

人とのつながりを取り戻して行かなくてはならないすのは、あくまでも自分の方なのです。

 

つながりに気づき、それを実感しますのが、なぜそれほど重要なのでしょうか。

たとえば、自分ひとりでは解決できない困難な問題にぶつかったとき、どう対処できますでしょうか。

もし周りとのつながりもなく孤立感に包まれていました場合、助けを誰かに求めたり相談したりすることさえ思い浮かばないでしょう。

悶々と独りで悩んだ末に、絶望におちいってしまうしかないでしょう。

 

では、どのようにしてつながりを取り戻して行きますれば、よろしいのでしょうか。

考え方を百八十度、変えてみましてはどうでしょうか。

人に何が起きましたときは、それは自分にも大いに関係があると考えますから、何とかして関わりを持とうとします。

そして、一緒になってその事実を突き詰めて行こうと、積極的に相手を受け入れまして心が開きますことで、つながりを実感できます。

 

 

自分を取り戻す

 

最高の人間について自由に想像し、それを理想として励んでみるのも有益だと思います。

しかし、究極の進化について正確に推し量るのは、よほど進化した人間でもなければ、できるものではなかったのです。

 

それよりも、努力すれば解決できる、目の前の問題に、もっと目を向ける必要がありました。

いま、かかえている個人の問題から始めて、地球全体の問題にまで視野を広げてみるという意味です。

 

たとえば、いま個人レベルで気をつけていますのは、①ブログ更新を継続していく、②日々仕事の改善をはかる、③家族のコミュニケーションを深める、などが上げられます。

そして課題となっているのは、毎日の生活で、どのようにして黙想を定着させていくかです。

 

黙想する重要性については、すでに著名な方々が、各方面で指摘されています。

ここで申し上げたいのは、「自分自身」を取り戻すには、黙想が最良の方法であるという点です。

 

結局のところ、個人レベルで抱えているのは、いかに「自分自身」と根気よく向き合っていくかという問題です。

そして、つぎの言葉が現実味を帯びて、よみがえって来ました。

「自分自身に連れ行ってくれる道をたどるほど、うとましいことはありません!」

このうとましく思っています自分と、今後どのようにして折り合いをつけますか、それが最優先の課題であります。