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あるがままを受容

 

以前から家庭セールスに来る人たちに、誠実な態度で接するのは難しいところがありました。

今回も無愛想な対応をしまして、後で余りいい気持ちがしませんでした。

 

それから今度は、ごく親しい人とのやり取りのときです。

会話がはずんでいたのですが、つい相手の生活態度に自分の自説を押しつけるような口調で言ってしまいました。

 

この二つの出来事を振り返ってみまして、利他愛の精神をどのように表していけば良かったのかを考えてみました。

取って付けたようなことを言うよりも一番に、相手のありのままを受容することが大事なのだと理解できたのでした。

 

例えば、セールスの人に対しては以下のようなことぐらいは言えたはずなのです。

「寒い中をお疲れ様です。あいにくですが、間に合っていますのでお引き取りください。ご苦労様でした」と。

 

 

誤りを認め許す

 

「どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのか!」と過去の自分を悔やむときがよくありました。

その度に自責の念にかられて、いてもいられなくなってしまうのです。

 

当時は、それなりの指針や目的などがあって行ったのであり、いい加減にしたわけでは決してないと認めるまで、自分を苦しめていました。

それ以降は完全に癒やされたとは言えませんが、脳裏にかすめるくらいで済んでいます。

 

過去のすべての行為を認めて自分自身を許しましたが、一度だけく何度も許さなくては拭えないもののようです。

後悔の念と言うものの、その執拗な影響力の大きさを思い知りました。

 

人生に失敗は付きものであって、その失敗の中に新たな気づきや学びが得られるのだと理解しなければなりません。

過去の誤りを、悔いるのをやめて前向きに受けとめ、これからの糧とする決意が必要でした。

 

 

異質性の受け入れ

 

霊界では意識状態が同じレベルの人たちとグループをなし、心は一つだと言います。

それでいて個別性は失われていないと言われておりますが、そこがよく理解できないところです。

 

もともと波長の合う人たち同士ですからお互いの繋がりも強く意識できますし、一つになれるのもそんなに難しくはないように思われます。

ある意味では自他の区別もないわけですので、どの人も自分の一部であって他人とは思えない心境にあるでしょう。

まさに友愛の情が自ずと湧き出て来ることと思います。

 

問題は波長の異なる人たちと、どうやって心を通い合って、一つの心境になれるかです。

自己との個性の違いを意識し過ぎて、その異質性から相手を他者として認識する傾向があり、どうしても一つとは思えない状況に映るのです。

それをどのようにして克服していくのか、それを学べる場にいるわけです。

 

 

より高い自分

 

本質に気づかないよう思考回路は分断され、身体的に改造されているのですから、自分がつねに低い周波数に立ち戻ろうとしますのも仕方がありません。

そのことに気がついていますだけでも、それに見合う適切な対応は可能だと思います。

 

自分の持てます数少ない機能をフルに使いまして、自力で一歩ずつ本来の性能を回復して行くのです。

そこで必要になって来ますのが、まず明瞭なビジョンと愛に満ちたハート、そして信頼であります。いま考えられますビジョンほかは、次のようなものです。

 

私の内の暗闇にことごとく、光を行き渡らせるのを意図します。私に起きるすべての出来事を前向きにとらえ、それを愛で強化して放って行きます。

もしも恐怖心が襲ってきましたら忌み嫌うことなく、愛の周波数で受けとめますように意図します。

 

私は自分の考え、そのものが自分の世界を創り上げていますのを重々承知しており、そうした力を持ちます自分を限りなく信頼します。

私の内にあります、より高い自分を発見します喜びを、すべての意識と分かち合えますことを意図します。

親愛なる神よ、私の意図が成功裏に終わりますように勇気と行動力と忍耐とを私にお与えください。

※参照 バーバラ・マーシニアック著「プレアデス+かく語りき」

 

 

体験から学ぶ

 

いわゆる闇に対しまして、どのように対処していけばいいのでしょうか。

光だけを受け入れて闇には断固として拒絶すれば、それですむのでしょうか。なぜ闇と称せられるものが存在するのでしょうか。

 

この世の中に無駄なものは何ひとつないと考えますと、闇にも何か重要な役割がありますように思われます。

諸々の誘惑に負けましたり退廃的な行動に走ってしまったりしますのも、その根となる怠惰な性質が自分の内にもあったからです。

そのことに気づけましたのも、引き金となります魔の力に出会ったからです。

 

これではいけないと思って強くあろうと努力し、自分の身を立て直す方向に行かせるきっかけを与えてくれたのです。

あるいは、そのままズルズルと深みにはまってしまって、頭をガツンとやられるまで気づかない場合もあります。

いずれにしましても、学びがそこに生まれるわけです。

 

闇と呼ばれますものの中には、様々な試練を人間に与えますことで、向上しようという意欲を呼び覚ます役目になっています。

それに関連しまして、下降があってはじめて上昇が生まれるという構図もあります。

 

成長しますには、それを阻む要因を必要とするのです。不幸な体験を経ましたからこそ、幸福の有り難みを実感できるのと同じです。

夜の明けない朝はないと言われますように、仮にどんな逆境に見舞われましても、いつかは去って行くものであって耐える力を養うときであります。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。

 

 

自分の思うところ

 

正直なところ、自分の思うところのものを、必ずしも尊重して来ましたとは申せない気がいたします。

むしろ無視をして来ましたのが、大半でありましたようにも思います。

自分に自信が持てなかったからでありますが、そうは言いましても無視の出来ないことも何度かありました。

 

たとえば、食べ物に対する安全意識は人一倍に強く感じておりました。

野菜作りを始めましたときは、無農薬による有機栽培にこだわり続けていました。

パン作りにおきましても、ずっと無添加の天然酵母パンのみを焼いているわけです。

ときどき自分でも、なぜここまでこだわってしまうのだろうかと不思議に思ったりいたします。

 

また、普通の人なら読まないであろうと思われます本に興味を抱きまして、少々高くても手にしまして読み始めるのです。

一時期、古代の日本歴史に、はまり込みまして日本のルーツを探りますのに熱を上げていました。

 

学校で歴史を習いましたときには、まったく関心がなかったのにおかしなものです。

教科書に載ってはいない出来事や表に出ていない事柄の中に、もっと何か真実が含まれていますような気がしましてならないのです。

 

これは日本だけでなく世界の国々におきましても、過去におけます大半の史実の数々は捨て去られました形跡が残っています。

ですから、知らされていない事実は膨大でありますに違いないのです。

このブログを続けていますのも、思うところがありますからそれに従っているのです。