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より高い自分

 

本質に気づかないよう思考回路は分断され、身体的に改造されているのですから、自分がつねに低い周波数に立ち戻ろうとしますのも仕方がありません。

そのことに気がついていますだけでも、それに見合う適切な対応は可能だと思います。

 

自分の持てます数少ない機能をフルに使いまして、自力で一歩ずつ本来の性能を回復して行くのです。

そこで必要になって来ますのが、まず明瞭なビジョンと愛に満ちたハート、そして信頼であります。いま考えられますビジョンほかは、次のようなものです。

 

私の内の暗闇にことごとく、光を行き渡らせるのを意図します。私に起きるすべての出来事を前向きにとらえ、それを愛で強化して放って行きます。

もしも恐怖心が襲ってきましたら忌み嫌うことなく、愛の周波数で受けとめますように意図します。

 

私は自分の考え、そのものが自分の世界を創り上げていますのを重々承知しており、そうした力を持ちます自分を限りなく信頼します。

私の内にあります、より高い自分を発見します喜びを、すべての意識と分かち合えますことを意図します。

親愛なる神よ、私の意図が成功裏に終わりますように勇気と行動力と忍耐とを私にお与えください。

※参照 バーバラ・マーシニアック著「プレアデス+かく語りき」

 

 

心に刻みつける

 

自分が何者であるかを忘れてしまった体験者の自分といいますのは、好き嫌いという嗜好をもって判断し、限られた範囲の中でしか物事を考えられないのです。

ですから、いくら考えたとしましても思い出せないのは当たり前です。

 

ほんとうの自分を思い出すためには、観察者であります存在がつねに自分と共にいますのを忘れてはなりません。それは魂あるいは良心とも呼ばれます。

まず、そうした自分を導いてくれます神のような存在がいるのを、ほんとうに信じているかどうか。

 

また、ほんとうに自己を信頼しているのかどうかを問うのです。正直なところ、こんな大切な存在を軽視してやって来ました。

一刻も個人的な意思を手放しまして内なる声にしたがって、生きますにはどうすればいいのでしょうか。

 

これまで取り仕切っていました自分の頭脳や身体を明け渡します。魂の意向に沿って生き始めます。

思い出しますのは、ほんとうの自分が観察者であり、内なる神であり、魂であることです。これを何度も心に刻みつけるのです。

 

 

永遠の存在

 

これまでの最大の間違いは、やがては老いて朽ちて行きます肉体を自分だと思って来たことです。

この人生で体験するための借り物でしか過ぎない身体を、自分だと信じ込んでいたのです。

 

ほんとうの自分とは、様々な体験を味わう主体であり永遠の存在である意識でもあります。

これまでも、そしてこれからもずっと未来永劫、完璧な存在としてあり続けるのです。

 

この次元での役割を終えましたら肉体は死を迎えますが、私は別次元へ移って行き、別の使命をもって再び新たな人生を生きるのです。

ですから、死を恐れる必要はまったくないわけです。

そのときが来るまでは、この人生でやれますことに集中して取り組めばいいのです。

 

本来ならば、不安になったり心配したり悩んだり落ち込んだりする理由はどこにも存在しないのです。

また、五感がとらえます周波数の世界というのは、全体の極々一部分でしかありません。

 

もっと広大な世界に目を向けて、そこへアクセスする術を身に付けて行かなければならないのです。

たとえ、どんな絶望的な状況であろうとも自暴自棄にならず、どんなに悲惨な運命に遭遇しようとも自分を信じ、あきらめたりしなければ幻想に打ち勝つことは出来るのです。

 

 

光の生き方

 

バーバラ・マーシニアックの「プレアデス+かく語りき」には驚くべきことがたくさん書かれています。

自分に取りまして、この世界がすべてではありませんし、またこの世で体験者である自分が、自分のすべてでもないという真実を肝に銘じておく必要があります。

 

確かに、知れば知るほど絶望に陥ってしまうような状況が、この世界にはあまりに多く見受けられます。

かといって逃げ出そうとしたり、簡単にあきらめたりしますのも賢明なやり方とは言えないでしょう。

 

大変な事態でありますほど一層、冷静になって身の処し方を考えなければなりません。

いますぐ捕らえられてどこかへ連れて行かれるのでなければ、まだ対策を練ってそれを講じることはできるのですから。

 

客観的に考えてみますと、彼らはなぜ地球を乗っ取り人類を支配するのでしょうか。

自分たちの儀式を遂行し、食料源を確保するためなのでしょうか。

あまり触れたくはないのですが、悪魔であるためには悪魔的な要素を絶えず発散させていないと、自分を維持できないからでありましょう。

 

思いやりとか優しさ、信頼など、愛を基調とします思いは、悪に対し免疫としての機能を果たすと言われています。

そして最終的には、光はどんな暴虐をも許すことを学ばなければならないのです。

 

 

豊かさを求める

 

この宇宙が生まれました理由のひとつは、より豊かさを追求するためではないかと思われます。

それを実現して行く媒体として人間や他の生物が創造されまして、豊かさを生み出す源泉として自由意志や創造性、想像力などが賦与されたように思うのです。

奴隷のように酷使されたり、操作されたりするために人類が生まれたのでは決してありません。

 

全体がより豊かになりますには、構成員の個々が創造性を発揮して豊かになり、更なる豊かさを求め続ける意思を貫かなければなりません。

それから各個人が個人の域を一刻も早く抜け出し、グループから全体へと思考の枠を広げて行きまして、知恵を最大限に働かせる必要があります。

真の個人の豊かさは全体の豊かさから、もたらされるものであるからです。

 

個人が行います第一歩としまして、信頼に裏付けられました愛を自身と周りにできる限り満たします。

そして、周りのありとあらゆる存在の本質である愛を見届けます。

どんな出来事にも意味があることを認め、それらを謙虚に受けとめます。

この人生は自分を磨く修行の場と考えますと、何が来ようとも恐れるに足らずです。

 

 

考えが現実に

 

たとえ、どんな厳しい状況下に置かれたとしましても、そこを切り抜けて行きますには、自分が何を信じどのように考えて行くのか、が要となるように思うのです。

心より考えました通りに物事は展開して行くものであるからです。

 

そういう意味でも、普段から何を信じて生きているのか、がとても重要だと言えます。

どうしても自分が信じている範囲のことしか頭に浮かばす、それしか考えられないものなのです。

 

もしも自分の可能性をどこまでも信じますならば、あらゆる場合について思考をめぐらすことができますので、相当のところまでやり遂げられるはずです。

自己実現された人たちというのは、ほとんどがそういう人々であったのではないかと思います。

 

信頼に足る自分を確立しますには、様々な執着や思い込みなどを手放して純粋性を取り戻します。

自分自身への信頼を揺るぎないものにする努力と共に、望むような現実を心の中でどれだけ微細にわたり創り上げて行くかが最重要であり、それが最大の関心事となります。

 

 

意図を持って行う

 

観察者の視点をつねに持っていることの重要性は、思っている以上に大きいように思います。

本来の自分を忘れてしまいますのは、体験者に成りきってそのまま突っ走ってしまうからでした。

 

ですから冷静でいられますように、あまり深刻に物事を受けとめないように注意する必要があるのです。

体験者の身として気をつけなければいけないのは、ほかにどういう点があるでしょうか。

 

選択した結果によりましては、恐れで固まってしまって身動きが取れなくなります。

恐怖心を抱きますのは決して悪いことではなく、何かを教えてくれるサインだとして受けとめるように切り替えます。

 

もし恐怖を感じましたら、そこから逃げ出そうとせずに何に恐れているのか、その恐れるものをじっと見つめて対峙するのです。

これは自分に何を伝えようとしているのか、と考えます。

 

そのほとんどが、不注意によるものや軽はずみな行動に対する警告でありまして、以後充分に注意して行かなければと思うのです。

普段から明確な意図を持って、事に当たっているかどうかが問われています。

 

「よしっ、自分を信じてやろう」と、体験者であります自分に信頼を寄せますことで、その信頼に応えます自分がもう一方にいるのを忘れないことなのです。

 

 

自分に帰る

 

自分を信じて行動しますには、相当の注意力を維持していなくてはなりません。

それを頭の片隅に、かろうじて置いておけます段階に今いるところです。

 

では、そのとき以外はどういう状態なのかと考えますと、空中に漂っています様々な想念のどれかにとらえられてしまっているのではないでしょうか。

あるいは無意識に浮かんできます過去の記憶にしたがって、衝動的に動いているだけであるかもしれません。

 

はっきりとした自分の意思や意図というものを持たずに、いわば操り人形と変わらない動きをしているように思えます。

自発的に頭をひねって考え、行動してはいないのです。そうでなかったなら、意識的に過ごすのがこんなにも困難であるはずがないのです。

 

自分を心から信じていますときは、そこに迷いや不安などが入る余地がなく、これが生きる基本の姿勢なのではないかと思います。

外で起きています現象をそのまま内側のスクリーンに映し出し、それを見ていますのが本来の自分なのであります。

 

なのに、なぜ改めて自分自身を信じるように仕向けなければならないのでしょうか。

それは映像に心を奪われてしまい、そこで映っています翻弄されているように見える分身を、あたかも自分だと見なしているからです。

 

つまり体験者としての自分と、観察者であります自分自身とを混同して生きてしまっているのです。

ですから何度も自分に帰るように唱えつづけて、意識を元に戻す必要があるのです。