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体験的に知る

 

なぜ、創造のプロセスが始まったのかを想像してみました。ありとあらゆるものは元々一つの存在でありました。

あるとき、その存在は自分が全てであって完璧であることを知っていましたが、それが一体どういうことなのかを体験的にも知りたいと思ったのです。

 

そして、それを体験したくてたまらなくなりました。体験するためにはどうすればいいのかを考え、乗り物である形態と、それを統御し観察する分身(魂)が必要であることに気づいたのです。

そこで、体験したいという思いを徐々に大きく膨らませ、ついには大爆発を起こして一つだったものから、たくさんの微少な部分が生まれたのです。

 

「神智学大要」によりますと、大筋として超微粒子を束ねて基本となります構造物を作り上げましてから、それらをいくつか集めて形態の構成単位となる原子の基を作りました。

また違った角度から「神との対話」では、自分が光であることを知っている小さな魂がそこから離れ、闇の世界に入って光を体験として知る話があります。

 

もう一つの体験としては、許すというテーマで述べられています。なぜこの世界に闇がはびこり、許せない状況があるのか、それを解きます意味深長な内容であります。

 

 

思い出せばいい

 

この人生での体験というものは、それこそ無限に広がる様々な体験の一つに過ぎないということです。

だからといって、いい加減に人生をやり過ごすのは愚かなことです。

ただ、どんな体験であれ、それに執着し過ぎないように注意しなければなりません。

 

太田龍、デーヴィッド・アイク両著の「2人だけが知っている世界の秘密」を読んでいます。

第5章のレプティリアンの精神的監獄から抜け出す方法のなかで、「私たちは人間ではなくて、無限の認識であってすべての可能性」であると述べられています。

 

人間として体験していますけれども、本来は認識する存在そのものが自分なのであります。

すべての可能性であり、全知の存在であるのをただ思い出すだけで充分であって、新たに学んで完全無欠になる必要はないと言われます。

この言葉には、とても響くものがあります。

 

それでは、忘れてしまったのを思い出しますには、どうすればいいのでしょうか。

そこがいちばん大事なように思われます。

思い出すための、きっかけとなるような言葉やイメージを見つけ出せば、何かを思い出せるのではないかと思っています。

 

 

体験から学ぶ

 

いわゆる闇に対しまして、どのように対処していけばいいのでしょうか。

光だけを受け入れて闇には断固として拒絶すれば、それですむのでしょうか。なぜ闇と称せられるものが存在するのでしょうか。

 

この世の中に無駄なものは何ひとつないと考えますと、闇にも何か重要な役割がありますように思われます。

諸々の誘惑に負けましたり退廃的な行動に走ってしまったりしますのも、その根となる怠惰な性質が自分の内にもあったからです。

そのことに気づけましたのも、引き金となります魔の力に出会ったからです。

 

これではいけないと思って強くあろうと努力し、自分の身を立て直す方向に行かせるきっかけを与えてくれたのです。

あるいは、そのままズルズルと深みにはまってしまって、頭をガツンとやられるまで気づかない場合もあります。

いずれにしましても、学びがそこに生まれるわけです。

 

闇と呼ばれますものの中には、様々な試練を人間に与えますことで、向上しようという意欲を呼び覚ます役目になっています。

それに関連しまして、下降があってはじめて上昇が生まれるという構図もあります。

 

成長しますには、それを阻む要因を必要とするのです。不幸な体験を経ましたからこそ、幸福の有り難みを実感できるのと同じです。

夜の明けない朝はないと言われますように、仮にどんな逆境に見舞われましても、いつかは去って行くものであって耐える力を養うときであります。

 

 

かけがえのなさ

 

今朝、気づいたのですが、車を運転中に愛を意識していますだけでも十分に、周りを配慮した慎重な運転をやっておりました。

向こうから車がこちらに迫って来ますとき、そのものの脈動感が伝わってきまして思わず身震いしましたのは、自分の本質も愛であるからでありましょう。

 

さらに思い至りましたのは、普段の日常生活におきましてこそ、常に愛を意識しますことの大切さでありました。

そうした気持ちを持っていますと、何もやっていないときに時々感じていました、言い知れぬ寂しさとか孤独感からも解き放たれるのを知りました。

 

不足とか欠乏感が生じて来ないのにも気づき、愛という偉大な力のその一端に触れたように思われまして、感謝の念に打たれました。

どうしてこんなに大事な心がけを、いつの間にか忘れてしまったのでしょうか。

 

一時的にせよ、忘れる必要があったからなのでしょうか。そうとしか、思い当たらないのです。

なぜ、忘れなければならなかったのでしょうか。先ほど感じましたような愛の偉大さ、かけがえのなさを実体験で学んで知る上で忘却は不可欠だったのでしょう。

 

自分はもう、そのことを十分に知り尽くしましたと、天に向かって断言できればいいのですが、まだまだ言える状況ではありません。

自分が学びの途上にありますのをここで再認識し、もっと学び取ります決意を新たにするのでした。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。

 

 

体験を観察する目

 

日々の生活とは、まさに大小さまざまな体験の連続ではないでしょうか。

その際に大切なことは、体験しました中から情報をどれだけ拾い出せますかどうかです。

それと新たに思うところがありますなら奮ってその体験に乗り出してみますチャレンジ精神ではないでしょうか。

 

少なくとも、決まり切った生活パターンに埋没してしまわないように普段から注意していなければなりません。

具体的にどうして行けば良いでしょうか。ひとつには、ときどき立ち止まって自分の行動を振り返りまして、じっくりと観察してみます。

 

日にひとつぐらい、新しい何かをやってみますとか、やり方を少し変えてみてはどうでしょうか。

例えば、興味のあります本を読み始めましたり、部屋の模様替えをしましたり、初めてのお店や場所を訪れたりしてみます。

そこで大事なのは、そうした新たな体験をしていますときの気分を思う存分に味わい、どんな感情に自分が包まれているかに気づいていますことです。

 

さらに、五感のそれぞれを働かせまして、体験していますことから吸収できますものは何でも受けとめてみます。

まるでこのときが永遠のように感じられましたり、知らなかった自分の能力の一部を垣間見まして驚いたりするかもしれません。

こういうとき、意識も新たにすることが出来ます。

自分とは何者か

 

自分が体験する者でありますことを理解できましたとしても、ほんとうは何を体験したかったのでしょうか。

自分とは何者であるかを知り尽くしますこと。

 

これは体験を通じてでしか、知りようがありません。

どんな体験をしましても、そこから何か自分を知る手がかりを見つけ出さなければ、意味がないことになります。

 

体験を通してでなければ知り得ないというのは、そもそもどういうことでしょうか。

何を体験しましょうとも、行動し実践するという能動的な要素が不可欠であると言えます。

受け身的な体験もないわけではありませんが、被害者意識に見舞われましたり、運を天に任せましたりして、主導権を他者に明け渡す結果になりますので却下すべきでしょう。

 

体験に先立ちまして、何らかの動機ないし意図が脳裏にありまして、それが体験の出発点になるように思います。

どんな動機や意図が考えられますでしょうか。

 

例えば、自分とは何者かという問いから派生しました問題意識に、突き動かされました様々な動機が考えられます。

あるいは、自分自身を知る絶好の事態を前にして新たなる課題に気づき、それを解決します意図かもしれません。

 

もっとも体験のすべては、自分を知る材料をことごとく提供してはいるのです。

ただ自分がそれらを、どれだけ受け取れる用意がありますかどうかだけなのです。