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ただ在るだけ

 

いったい自分とは何なのかと思いました。

もちろん自分は、自分でしかないのでありますが、今まで気がつかなかった体験をしましたので、それを紹介させてください。

仕事の合間で休憩していましたときに、ふと自分の内側を、愛で満たしてみようと思い、そうしましたところ、続けられそうな気がいたしましたので、しばらく、そのままでいました。

 

すると、そこでは思考がいっさい働かないのに気づきました。

短いあいだではありましたが、この「愛の状態」としか言いようのない在り方では、時間が過ぎていく気配もまったくありませんでした。

これは何なのだろうかと考え出しました途端に、何者でもない状態は消え去りまして、元に戻っておりました。

 

そして、意識をどちらに集中させるかによりまして、通常の思考の世界と愛だけの状態とを、交互に行き来しますのも可能であることを知りました。

愛と呼ばれますものに意識を向けますと、いまの自分という感覚もなく、ただ「在る」だけになるのです。

おそらくは、これが自分の本質にもっとも近いものであると思われます。

 

ですから、「愛で一日を満たしなさい」とよく言われているのでしょう。

その状態になりますと、何の考えも浮かばず、何かを感じることもありませんが、それでいて、すべてがそこにありますのがわかるのです。

 

 

自分を振り返る

 

昨日、求めていましたテンピオーブンをオークションで見つけまして、落札できました。

近いうちに商品が届く予定でありますが、今日は朝から何か落ち着かないところがあります。

どうしてそうなのか、自分の思いをたどってみました。

 

先日、台風の影響で早朝の3時間あまり、停電に見舞われました。ちょうどパンを焼き始める時間帯でありました。

最初はすぐ復旧するものと思っておりましたので、たいして気にかけておりませんでした。

 

ところが30分、1時間たちましても電気は止まったまま、電気オーブンが使えない状況が続きます。

その間にも、パンの生地は発酵がどんどん進んでいきまして、とうとう廃棄という事態になってしまいました。

 

このときのガスオープンさえあったら焼けていたのに、という悔しい思いから、停電になっても使用できるオーブンを探し始めるのでした。

ガスオーブンで焼きますと、電気オーブンより味がよいことも、頭から離れなくなっていました。

 

ガスコンロを使用したオーブンが、どこまでガスオープンの味に近づけられますか、まったくわかりません。それでも、どんなパンが焼けるのかとワクワクしておりました。

 

あまり期待しすぎますと、その通りに運ばなかったときの気落ちの度合いも大きくなりがちです。そのように考えていますと、どうにか落ち着いてきました。

もっとも、テンピオーブンで焼けますパンの量は少なくて気休めでしかないわけですが、試作品をたくさん焼いて楽しみたい気持ちがそこにありました。

 

送られてきますのは、30年以上も前に流行しましたピーステンピの751型コンロ上置きオーブンであります。

いまアウトドア用品として、テンピオーブンに人気が集まっています。今回はテンピの紹介で終わりそうです。

 

 

完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。

 

 

未知の体験

 

自分には簡単に解決できそうにない問題に出合った、そのときこそ、自分の思ってもみない底力が引き出せるチャンスかもしれない、と考えてみてはどうでしょうか。

人の助けが必要なときもありますが、どうしても自力で困難な状況を切り抜けなければならないときもあるものです。

 

いつ、そんな危機に遭遇するのか、まったく予測がつかないので、普段から努力を要するようなことにチャレンジして、自分を鍛えておくことが重要かもしれません。

こうした習慣を身に着けていれば、いざというときに素早く思考回路が働いてくれて、苦境から脱出する手助けになってくれるものです。

 

人間が本来、持っている能力の大部分は、まだ使われていないと言われています。

その未使用の領域から少しでも力を引きだせれば、いままでできなかったことができるようになるかもしれないのです。

 

そうした潜在能力を引きだすためには、どうすればいいのでしょうか。ひとつは興味を持っていることで、何か新しいことを始めてみることだと思います。

そのときに注意することは、途中でやめたくなったとしても我慢して続けることです。

 

未知の体験を始めたのですから当初は、わからないことや慣れないことなどで、つまずくことが多いものです。

そこを耐えて行き、決してあきらめたりはしないことなのです。とにかく続けて行くこと、積み上げて行くことです。

 

そうすると徐々に、自分に力がついて来ることに気づけるはずです。これまでのことを思い返してみてください。

いま自信を持ってできると言えるものでさえ、かつての自分にとっては、まったく未知の分野のものであったのではないでしょうか。

いままでにも、何度も新しいことに挑戦してやって来たのです。ですから、今度もやれないはずがないのです。

 

 

許すということ

 

許すということについて書いてみたいと思います。すると子どもの頃のことを思い出さないわけにはいきません。

たぶん、この何倍も許してもらっていたはずと思いますが、許してもらえなかった自分のことが忘れることが出来ず、

いざ自分が許す立場に置かれるとなかなか人を許すことが出来ないものなのです。

ここで、よくよく考えなくてはならないのです。

 

自分が許してほしかったときに許してもらえなかった、そういう体験があるからこそ、より寛大になり率先して人を許さなくてはならないことを。

いつも相手の身になって人と接するようにと言われるのは、いつか自分も逆の立場で相手から親身になって世話を受けるのであり、そのことへのお返しをすることでもあるのです。

 

人は親切にされたことは忘れやすいものですが、粗末に扱われたことはいつまでも根にもったりして覚えているものです。

ここでまた、よく考えてみます。なぜ人から親切にされたことは、忘れやすいのでしょうか。

 

親切に振る舞うことが、人間の自然な姿だからではないでしょうか。人を粗末に扱うというのは、本来の人間のあるべき姿ではないのです。

だから、意外なことを人はいつまでも覚えているのだと思います。「許す」ことにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

人は自然のあらゆることに対して、それを受け入れ認めて来たという事実があります。そうしないと生きてはいけなかったからです。

人はすべてを許して、生きて来たとも言えます。なのに、どうして人間同士のことになるとすべてを許せなくなるのでしょうか。

あの人や、あのことを許さなくても別段、自分は生きていけると思っているからかもしれません。

 

そういう人は大きな間違いをおかしています。許さないとは、受け入れることを認めないと宣言したことです。

自分の中で、この「認めない」思いだけが刻み込まれます。つまり、いっさいを認めないことであり、自己否定していることと何ら変わらないのです。

相手にしたことが、そのまま自分に帰ってきて、自分に対してしたことになるわけです。

 

結局、人間同士のあいだのことも自然に対するのと同じように、すべてを許し、受け入れていくことが人間の本来のあり方だったのです。

そのことに気づいたいま、いま自分の中にある、これまでの「許せない」ことを手放すときにいるのかもしれません。

 

 

理解することから

 

これから人といい関係を築いていくにあたって注意することがあります。

それは、相手が根本的に信頼に足る人だとしても、その人を頭から信用して大丈夫だとは言いきれないことです。

また、こちらがいくら信頼をよせたとしても、相手がその信頼にこたえるとは限らないことを承知しておく必要があります。

 

ほかのことでもいえることだと思いますが、見返りを期待して何かを行うときは、往々にして望ましくない結果を招くということです。

信頼関係を何かの手段に利用してみたり悪用しようとする人は、二度と周りからは信用されなくなるでしょう。

 

信頼できるというのは、生き方に共鳴できると言い換えてもいいのかもしれません。ですから、何も知らない人に信頼を抱くことは基本的に出来ないわけです。

相手のことをよく知ることは、人と関わって行くのに欠かせません。お互いに理解し合っているからこそ、信頼関係が生まれてくるからです。

 

いきなり信頼することをめざすのではなく、相手を理解することから始めて行くことが大切かもしれません。

理解しようとする心に、見返りや打算、損得勘定の入る余地はないはずです。

 

自分への信頼を深めていく上でも、自分を知ること、理解することに焦点をしぼって取り組めば、自然と自分のことがより好きになって行くものだと思います。

自分のことは知っているつもりでも案外、自分のことを理解できていないものです。

 

なかなか自信がもてないのも、自分のことがよくわかっていないからかもしれないのです。

たとえば、失敗したときのくやしい思いとか大恥をかいたことなど、過去のさまざまな痛手で、いまもなお傷ついたままの幼いころの自分がいることを知っているでしょうか。

 

何かの拍子に忘れていた過去のことがチラッと浮かんで来たり、理由もわからず突然泣き出してしまった自分にびっくりしたことはありませんか。

思い出せる範囲で一度、過去の自分にさかのぼって、そこで自分をいじめた人たちと向き合い、彼らを許すことを学ぶ必要のある場合があります。

 

自分がそうだったのです。許すことができただけで、ずいぶんと心の重荷が減ったように思います。

 

 

信頼する人に

 

これまで、多くの人と関わってきた中で、この人は信頼できないと思ったことは、それこそ何度もありました。

しかし、この人はほんとに信頼できる人だ、と心から思ったという記憶がないのです。

 

いまだから言えることは、信頼できる人はまわりにたくさんいたはずです。

自分が心を閉ざしたまま信頼しなかったために、人を信頼できたという体験にまで至らなかっただけだということです。

ですから、もっとも必要なことは「信頼する」体験を積むことだといえます。

 

いままで何をするにも、どちらかといえば半信半疑で取り組んできた傾向があったことです。

その結果、人への不信感をつのらせ、人からの助言を疑い、自分の可能性や能力などを過小評価する自信のなさなど、悪循環にはまっていたということです。

 

自分で人間不信をまねくような原因を作っておいて、一方で人は信用できないと思い、自分も信じられず、信じられるものが何もないと落ち込んでいたのです。

まさに自業自得(じごうじとく)といえるのかもしれません。

 

こうした体験から学べることは、自分もふくめてどの人も、根本的には信頼に足る人だということです。

こうして生きているという事実が、その理由です。

もし信頼に足る人でなかったとしたら、その人は生きていられないからです。

 

生かされるものは、自分が信頼に足るものであることを、本能的に感じ取っているはずです。

大きくとらえれば、存在するものすべては、大自然から必要とされ信頼に足るものである、だからこそ現にこうして、ここにあるのだと思います。

 

信頼しないというのは、自然に反する選択だったのです。だから悩んだり苦しんだりするのです。

「信頼する」ことこそが、自然なことなのです。

信じて行動

 

自分自身に連れて行ってくれる道とは、自分自身に忠実に生きていくプロセスでもあると思われます。

自分ひとりでその道をたどるのは容易でありませんが、サポートしてくれる誰かがいれば何とか歩んでいけるものです。

 

そのサポート役が自分の中にいることを普通、気づかないものです。

窮地に追い込まれるなどのきっかけがあれば、ちゃんと役割を果たしてくれる頼もしい存在です。

だから自分自身を信じて行動すれば、自ずと道は開かれるといわれるのです。

 

また、自分から行動を起こしていかなければ、いつまでたってもサポートは得られないともいえます。

なぜ自由意志というものが自分に与えられているのか、それを積極的に行使する機会を逃してはもったいないことになるわけです。

 

あくまでも自分が主体となって事を起こすことが大事になってきます。

楽な道や寄り道ばかりに時間をつぶしていると、心はいつまでもむなしさに満たされたままです。

 

もっとも人にはそれぞれ、自分自身に連れて行ってくれる道を歩み始める時期というものがあります。

あせってみたり急ぐ必要もなく、その人のベストなタイミングでその時期がやって来ます.

そしたら本腰を入れて取組めばいいだけです。

 

人間が生まれてきた理由は、放蕩息子として様々な経験を経て、ようやく我が家に戻るというシナリオを体験するためなのですから。