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信頼する人生

 

もっと意識してまわりに信頼を寄せてもいいのではないかと思っています。

こんなことまで頼んではいけないなどと、いつも遠慮し心配しすぎておりました。

 

人生が与えてくれます機会を100パーセント信頼して、身を委ねる気持ちを大きく持ちますのが大切なのです。

どうあって欲しいのかを、もっとはっきりとした上で、それを注文すればよいのです。

 

何が望みなのかを明確に宣言しますのを、これから実践して行けばいいのです。

みんなの幸せを願い、奉仕しますことを意図します。

どうすれば喜んでもらえるか、それについていつも思考をめぐらし、出てきたアイデアはすぐ形に表して行きますのを意図します。

 

このブログにおきましては、新たな気づきや発見しました内容などをどしどし書き込んでいけますように望みます。

驚きと感動を与えますような作品が、次々と生まれますのを望みます。

潜在的な能力がいくつも開花しまして、この人生において思う存分に活用できますのを意図します。

 

世界からあらゆる不幸な出来事が徐々になくなり、分かち合いと調和を重視します気運が急速に広がって行きます。

地球上のすべてにとって、考えられないほど素晴らしい時代がもうすぐ訪れます。

 

 

毎日ワークを実践

 

心構えとしては、真の望みだけを描き、私利私欲を捨てて、やるべきことに集中することです。

そのひとつひとつをどのようにして行い、定着させていきますのか。それを次に考えていかなくてはなりません。

 

ほんとうの自分にとっての望みは、全体の幸せと霊的に進化しますことしかあり得ません。

あれこれと欲望を持ちますのは、個別意識が支配しているときなのです。

ですから全体意識に通じていますには、愛に意識を置かなくてはなりません。

 

自分がもし愛でありますなら、どう行動するでありましょうかと考えてみます。

私利私欲を持たないようになるためにも、つねに愛とともにいることが重要となります。

考えようによっては、自分の身体や周りのあらゆるものが愛で満ちていると言えるかも知れません。

 

ずっと以前に、あるワークショップで二人一組になって両手から愛のエネルギーを送るワークをやりましたところ、相手はびっくりするほどのエネルギーを感じたと言っていました。

愛は意識できますだけでなく、自分からエネルギーとして送り出すのも可能だと知りました。

 

意識的に見たり触れたりするときには、そのものに愛を差し出しているようにも思えます。

意識を集中させるとは、一心に愛のエネルギーを投じるということではないでしょうか。

毎日、愛のワークを実践して行くと考えればいいわけです。

 

 

自分と取り組む

 

抗しがたい宿命的な要素を数多く意識の面で、あるいは細胞レベルにおいて背負っていますのは重々承知しております。

にもかかわらず、この小さき自分としましては、内側から発せられます何らかの意図をできるだけ明確にとらえまして、

それを日常の心構えとして持ち続けられましたら、いまとはまた違った生活が展開して行きますような気がするのです

 

いかにして内なる声を聞き取り、その通りに実行しますのかが重要になって来ます。

その声は、よほどのことがない限り向こうからやって来ることはなく、こちらから投げかけた内容に対して、返答に相当しますものが返ってくるだけなのです。

 

いま抱えています問いは、みんなの幸せを考え、全体の幸福を祈願し続けますには、どのようであればいいのかです。

そして最終的には、ほんとうの自分と常時つながるという意図があります。

なぜ、全体の幸福を求めるのでしょうか。それが真の自分の願いでありまして、いまの世界はみんなが幸福ではないからです。

 

それでは、自分はどうありましたらいいのでしょうか。みんなの幸せだけを願い、無私無欲で、いま出来ます事柄を全身全霊でやりますのに尽きるようなのです。

①望みだけを描き続け、②私利私欲を捨てて、③やるべきことに集中いたすことです。

 

 

意識を意識する

 

車の運転している最中に、どんな行動を取りますかは、そのときの意識状態で大きく異なるのに気がつきました。

愛を意識していますときは、ていねいな運転を自然とやっていますが、いつの間にか通常の個別意識に戻っているのです。

 

信号のない交差点に差しかかっても、左右の確認をおろそかにして先を急ごうとするのです。

そんな独りよがりの行動を平気でやっておりました。

 

個別意識の自己中心的な性質が、ハンドルを握ると顕著に表れていますのには驚きます。

これでは周りに何らかの害を与える可能性が常にありますので、この通常の意識状態を何とかしなくてはなりません。

そうは言っても手強い相手でありますし、一筋縄では行かないのは確かです。

 

個別意識を敵視したり、無視したりしても無駄でありますどころか、かえって身勝手さを助長しますことにもなりかねません。

どのようにして、個別意識と折り合いを付けて行くのか、それを考えますほうが得策のようです。

 

愛や幸せという言葉だけよりも、それをイメージにして心に満たし、それを絶えず意識できるようになるには、どのようなステップを踏めばいいのでしょうか。

人生の大半を、この意識のもとで生きて来ましたから、それを変えて行きますのは容易ではありませんが、何とかしてやって行かなくてはと思うのです。

 

 

 

害を与えない選択

 

周りの人や自分自身に有形無形の害を与えていますのは、個別の意識のときだと思います。

車を運転中、ゆっくり前を走っている車にイライラしますのも、無理に横から入って来た車に腹を立てたりしますのも、自分が個別意識の状態にあるときです。

 

もっとも普段の生活では100%近く、この意識で過ごして来ましたから、取り立てて指摘するまでもないのかもしれません。

ただ問題として、この意識があまりに強く作用し過ぎまして個人的な面で、あるいは社会の様々なところでトラブルが発生していますのが現実だという点です。

 

成長初期の段階においては、自己を確立しますために他者というものを識別し分離する必要上、個別意識に頼るほかはなかったのでしょう。

幼少の頃からそのようにして育ち、大人になったわけです。

 

そして今度は再び、自我という枠組みを取っ払って行きまして全体の中の一部に帰るべく、全体の意識を取り戻して行くときを迎えていますように思います。

その手始めとしまして、相手や自分にいかなる害も与えない生き方を、意識して選択するように決めたのです。

 

なるべく個別意識から離れて自他の区別を薄めて行き、一体感を思い出すようにします。

例えば、自然に触れる機会を持ったり、ぼんやりとしてでも地球規模のことを思ったりしてみるのです。

 

 

すべてを思う

 

なぜ、みんなのことだけを考えて行くのでしょうか。それがほんとうの自分と同調できます領域に、もっとも近いからではないでしょうか。

個別の意識から抜け出しまして距離を保つには、最良の方法と思われるからです。

 

それは親元を離れた自分が親を思い、慈しむ心を呼び覚ましてくれるようなものなのです。

みんなを思い描こうとしますと、そのみんなから祝福を受けているように感じます。

しかも、ずっとこれまで祝福されていましたのに気づかされます。とても癒やされます。無条件の愛とは、このことでありました。

 

自分とは、いったい何だったのでしょうか。そこでは自分というものが、どこにも見当たらないのです。

しかし現実の中に意識を戻しましたら、自分といういつもの感覚にいるのです。

個別意識と全体意識の違いを垣間見ましたように思えます。ほんとうの自分は、全体意識とつながっていますのが理解できたような気がします。

 

意識面でみんなとつながっているとは、こういうことでありました。

そのつながりを無視しますことで、個別意識が表れて来るのでした。出来るだけ、みんなに意識を合わすように心がけます。

どちらの意識に焦点を合わせているのか、それを意識しておくのが重要なことのように思われます。

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

グッドモーニングショー

 

映画「グッドモーニングショー」を見ました。

数時間の朝のワイドショーに、4時間前から準備作業を開始していましたことと、

たくさんの人たちがそれぞれの部署で綿密に関わっていたことにびっくりしました。

しかも分単位、あるいは秒単位で次々と切り替わっていきます場面設定の連係プレーは、いくら仕事柄とはいえ見事でした。

 

それに対しまして、扱っています話題や題材が視聴者の受けの良い芸能ニュース関係を最優先にされていますので、

作り上がりも限定されたモノで終わってしまい、残念な気がしてなりませんでした。

そこへ事件が発生しましてから状況が一変して、その後の展開に引き込まれて行きました。

 

なぜ、主人公の澄田キャスターが立てこもりの犯人から呼び出されたのか、顔に泥を塗る場面はいったい何なのか、という疑問が出てきます。

ところが、そういったことはわからないまま話が進んで行きますので、目が離せませんでした。

事件の核になります過去の出来事や背景などが、徐々に明らかになって行きます手法は功を奏していました。

 

ところどころに笑ってしまう仕草や勘違いなどのコミックなシーンがはさまれまして、人質事件に伴う緊張を和らげているようでした。

犯人の動機などの真相に近づくにつれまして、ワイドショーのスタッフたちが現場で進行する映像の画面に釘付けになって行きます様子は真に迫っていました。

 

見終わった後はホッと胸をなで下ろしましたが、番組の終了間近に行われました視聴者投票の結果については考えさせられました。

本来は自分の命を人の意見でどうするか、決めるようなものでないはずです。

しかしながら、投票結果の数字を入れ替えましたことで、犯人をはじめ自分たちも救われたと思いました。