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思いが現実になる

 

朝、荷物を配達し終えました帰り道、左折しようと曲がり始めましたとき、向こうから来ました車と、もう少しでぶつかるところをストップしました。

相手の運転手は怖い顔をして文句を言っていました。

それからバックし出しましたので、その横を通って進みましたが、なおも怒りをあらわにして怒鳴っている様子でした。

 

出会い頭での出来事でしたので、どちらが悪いとかは決められませんのに、どうしてあの人はあんなにも腹を立てていたのでしょうか。

たまっていました欲求不満を発散させたのかもしれません。

 

よく考えてみますと、自分にも身に覚えがありますので、相手の言動をとやかく言う立場にありません。

でも、あの人はなぜあんなにも怒っていたのだろうかと不思議に思ったことが、今までになかったでしょうか。

 

ムシャクシャした気持ちを持っていますと、それを逆なでしますような事態に遭遇するものであります。

また、何気なく思っていますことが、たちどころに現実となりますケースは意外と多いのではないでしょうか。

 

たとえば、目の前の信号が赤になるかもしれないと思って進みますと、その通りになってストップしましたのは一度や二度ではありません。

起こってほしいことよりも、起こってほしくない状況を考えてしまうのが常でありまして、それこそが問題ではないでしょうか。

 

最近は、起こってほしいことだけを思うように心がけております。そうしますと、たいがいはその通りになりますから面白いです。

 

 

無害性を引き出す

 

無害性を表していきますのに、自分に非があります場合はもちろん、相手に非がありましても、それを基に

争ってみましたり、とがめましたりは決してするまいと、誓っておきますのも非常に有効であります。

 

先日、ある取引先から賞味期限切れの品が届きましたので、電話で問い合わせてみました。

ただ事実だけを述べました後に、こちらの希望を伝えましたところ、早速引き取って新しい品をお届けしますとの返答でした。

 

相手も自分も、とても気持ちよく応対ができました。

そこに抗議や釈明、苦情めいた話などが一切なかったことによりまして、無害性を引き出せました。

 

考えてみますと、人はどうして害を与え合うような生き方を選んでしまうのでしょうか。

その理由としまして、ストレスから来る単なる気晴らしでありますとか、やられましたらやりかえすという論理などが上げられそうです。

 

つまり、いずれ自分に降りかかって来ます災難を、自ら作り出しているに等しい行為を、平気でやっているのです。

自分が何をしていますのか、全く見えていない状態なのです。

少し冷静になって考えてみれば、わかりそうなものですのに、それができないというのはどうしてなのでしょうか。

 

ひとつ言えますのは、自分の言動を見つめる目を、普段から養っていないからではないでしょうか。

こうした状況を考えますと、内側を観察する視点を発掘して行きます重要性と、それを開発して行きます必要性が増して来そうな気がします。

 

 

ただ在るだけ

 

いったい自分とは何なのかと思いました。

もちろん自分は、自分でしかないのでありますが、今まで気がつかなかった体験をしましたので、それを紹介させてください。

仕事の合間で休憩していましたときに、ふと自分の内側を、愛で満たしてみようと思い、そうしましたところ、続けられそうな気がいたしましたので、しばらく、そのままでいました。

 

すると、そこでは思考がいっさい働かないのに気づきました。

短いあいだではありましたが、この「愛の状態」としか言いようのない在り方では、時間が過ぎていく気配もまったくありませんでした。

これは何なのだろうかと考え出しました途端に、何者でもない状態は消え去りまして、元に戻っておりました。

 

そして、意識をどちらに集中させるかによりまして、通常の思考の世界と愛だけの状態とを、交互に行き来しますのも可能であることを知りました。

愛と呼ばれますものに意識を向けますと、いまの自分という感覚もなく、ただ「在る」だけになるのです。

おそらくは、これが自分の本質にもっとも近いものであると思われます。

 

ですから、「愛で一日を満たしなさい」とよく言われているのでしょう。

その状態になりますと、何の考えも浮かばず、何かを感じることもありませんが、それでいて、すべてがそこにありますのがわかるのです。

 

 

自分を観察する

 

今すぐ取りかかれる問題として、黙想を生活の中でどのようにして定着させるかです。

時間的には夕方の30分を確保しています。

 

いま自分が行っている黙想をかんたんに紹介しますと、目をつむり座ったまま、身体を動かさずに心を静めていきます。

そして浮かんでくる考えや情景などをただ観察して行くだけです。

 

以前は30分以上、黙想しておりましたが、最近は15分がようやくという状況です。

時間が短くなったのは、始める前に終了時間を特に設定せず、ある程度できたら、そこで切り上げるようにしてからです。

黙想をうとましいと思っている自分の声に従い、それを許して来た結果でもありました。

 

30分間の黙想のときの効果は、それほど大きな変化はなかったように思います。

しかし、一時間以上の黙想を提唱されていますのに、30分ぐらいでは、成果が出ないというのは当然なのです。

ここまで考察して来まして、積み上げる重要性を思い起こすに至りました。

 

これまで黙想を行うことに関しては、途中でやめたくなってきてもやり通す、そんな意気込みを欠いておりました。

つぎからの黙想では、30分間は続けていきます。それを定着させてから、一時間に戻して行く予定です。

自分の思考や行動などを観察する重要性については、日をあらためて考えてみるつもりです。

 

 

自分を取り戻す

 

最高の人間について自由に想像し、それを理想として励んでみるのも有益だと思います。

しかし、究極の進化について正確に推し量るのは、よほど進化した人間でもなければ、できるものではなかったのです。

 

それよりも、努力すれば解決できる、目の前の問題に、もっと目を向ける必要がありました。

いま、かかえている個人の問題から始めて、地球全体の問題にまで視野を広げてみるという意味です。

 

たとえば、いま個人レベルで気をつけていますのは、①ブログ更新を継続していく、②日々仕事の改善をはかる、③家族のコミュニケーションを深める、などが上げられます。

そして課題となっているのは、毎日の生活で、どのようにして黙想を定着させていくかです。

 

黙想する重要性については、すでに著名な方々が、各方面で指摘されています。

ここで申し上げたいのは、「自分自身」を取り戻すには、黙想が最良の方法であるという点です。

 

結局のところ、個人レベルで抱えているのは、いかに「自分自身」と根気よく向き合っていくかという問題です。

そして、つぎの言葉が現実味を帯びて、よみがえって来ました。

「自分自身に連れ行ってくれる道をたどるほど、うとましいことはありません!」

このうとましく思っています自分と、今後どのようにして折り合いをつけますか、それが最優先の課題であります。

 

 

完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。

 

 

当たり前のこと

 

ある女性から「一日だけ、はさみを貸してください」と言われて、手持ちのはさみを貸しました。

一日ぐらいなら、それがなくても別にどうってことはなかったのですが、二、三日たってもはさみが返ってきません。

さすがに不便を感じることがあり、貸した人に返してもらわなくてはと思っていました。

 

やっと、その人に聞く機会がありましたので「はさみは、どうしましたか?」とたずねたところ、

「忘れていました。返そうと思っていたのですが…」という答えでした。

これを聞いて、その人に対してどんな印象を私が持ったのかは、想像がつくと思います。

 

この人は、自分の言ったことでさえも、守れないのだ。借りたものは返すのが当たり前、と思っているだけで、なかなか実行しない人なのだ。

すぐ返さなくても、貸した人は別段、困ることもないだろう、などと自分勝手なことを考えている人だ…。

 

ちょっとしたことをきちんと守る習慣ができていない人は、いくら着飾ってみても、人から好印象を持たれることはまずないでしょう。

本人がそのことに、いち早く気づいて、心を改めていけば、何の問題もないことです。

その女性は、はさみをすぐ返しに来たので、相手から言われる前に、自分から返すことを心がけるように、と伝えました。

 

ちょっとした約束ごとなのに、人はどうして守れなくなるのでしょうか。

おそらくそれは、子どもの頃には褒めてもらえたのに、大人になってからは、ちょっとした約束ごとをしっかり守り通してきたとしても、それは当たり前のことなので、高く評価してくれる人や感謝してくれる人がいなくなったからではないでしょうか。

もしそうなら、誰も褒めてくれなくても大丈夫です。

 

この次から自分が、当たり前のことを当たり前にやれたときは、自分で自分を、うんと褒めて上げればいいのです。

それじゃー、さびしいですか。

でも、当たり前のことを、当たり前にやることこそ、ほんとうは一番むずかしいことを、ほとんの人は知らないのですから、

このことの方が、よほど悲しいのではないでしょうか。

 

 

未知の体験

 

自分には簡単に解決できそうにない問題に出合った、そのときこそ、自分の思ってもみない底力が引き出せるチャンスかもしれない、と考えてみてはどうでしょうか。

人の助けが必要なときもありますが、どうしても自力で困難な状況を切り抜けなければならないときもあるものです。

 

いつ、そんな危機に遭遇するのか、まったく予測がつかないので、普段から努力を要するようなことにチャレンジして、自分を鍛えておくことが重要かもしれません。

こうした習慣を身に着けていれば、いざというときに素早く思考回路が働いてくれて、苦境から脱出する手助けになってくれるものです。

 

人間が本来、持っている能力の大部分は、まだ使われていないと言われています。

その未使用の領域から少しでも力を引きだせれば、いままでできなかったことができるようになるかもしれないのです。

 

そうした潜在能力を引きだすためには、どうすればいいのでしょうか。ひとつは興味を持っていることで、何か新しいことを始めてみることだと思います。

そのときに注意することは、途中でやめたくなったとしても我慢して続けることです。

 

未知の体験を始めたのですから当初は、わからないことや慣れないことなどで、つまずくことが多いものです。

そこを耐えて行き、決してあきらめたりはしないことなのです。とにかく続けて行くこと、積み上げて行くことです。

 

そうすると徐々に、自分に力がついて来ることに気づけるはずです。これまでのことを思い返してみてください。

いま自信を持ってできると言えるものでさえ、かつての自分にとっては、まったく未知の分野のものであったのではないでしょうか。

いままでにも、何度も新しいことに挑戦してやって来たのです。ですから、今度もやれないはずがないのです。