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自分と取り組む

 

抗しがたい宿命的な要素を数多く意識の面で、あるいは細胞レベルにおいて背負っていますのは重々承知しております。

にもかかわらず、この小さき自分としましては、内側から発せられます何らかの意図をできるだけ明確にとらえまして、

それを日常の心構えとして持ち続けられましたら、いまとはまた違った生活が展開して行きますような気がするのです

 

いかにして内なる声を聞き取り、その通りに実行しますのかが重要になって来ます。

その声は、よほどのことがない限り向こうからやって来ることはなく、こちらから投げかけた内容に対して、返答に相当しますものが返ってくるだけなのです。

 

いま抱えています問いは、みんなの幸せを考え、全体の幸福を祈願し続けますには、どのようであればいいのかです。

そして最終的には、ほんとうの自分と常時つながるという意図があります。

なぜ、全体の幸福を求めるのでしょうか。それが真の自分の願いでありまして、いまの世界はみんなが幸福ではないからです。

 

それでは、自分はどうありましたらいいのでしょうか。みんなの幸せだけを願い、無私無欲で、いま出来ます事柄を全身全霊でやりますのに尽きるようなのです。

①望みだけを描き続け、②私利私欲を捨てて、③やるべきことに集中いたすことです。

 

 

純粋な願い

 

人より勝ろうとする欲が、自分の中にありますのを認め、それを把握しておかなければなりません。

どうして、みんなの幸せだけを考えることができないのでしょうか。

 

長年の習性として自我の欲望にかられますのが、ごく当たり前になっているからだと思います。

放っておきますと、自分にとって何をさておいても、この自我が満たされるのが最優先なのです。

 

なぜ、こうした個人的な意思から離れなければいけないのでしょうか。それは、みんなのことに目を向けますのを困難にしているからでありましょう。

個人的な好みやこだわり、願望にとらわれている限り、どんな客観的な真実も見えて来ないからではないでしょうか。

 

もっとも願望に関しては、自分を利する願いと純粋な願いとを区別して行く必要はありそうです。

ほんとうの自分とのつながりを持ちますには、どうしたらいいのでしょうか。

 

自分を賢く見せたい、格好が良く少しでも若く見せたい、人より偉くなりたい、もっと稼ぎたいなどの欲望は、全てとらわれでありますのがはっきりと理解できるかどうかです。

そして、それらを手放して行くと自分に約束できるかどうかであります。

 

カチンと来たり言い争ったりしますのは、自分を少しも信頼せず、そうした自我の言いなりになっていますからです。

自我が語りかけてくる言葉をことごとく放棄して行けますように。

 

 

創造の喜び

 

ほんとうの自分とは何なのか、思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。

少なくとも、好きなテレビ番組を見て面白がるだけの自分ではないはずです。

十分それで満足していますならともかく、ほかの人にも役立ちそうな何か、出来ますことはないのでしょうか。

 

よほどの特殊なことでもない限り、それに没頭しますならば、どんなことでも自分はやれそうな気がして来ないでしょうか。

没頭できますものとそうでないものとがありますので、自分がどういうのでありましたら夢中になれますかを考えてみます。

これまで夢中になったのは、どんなときだったでしょうか。

 

例えば、プラモデルや模型などの工作品を作り上げましたとき、あるいは研修プログラムで研鑽に励みますとき、特殊な装置を使いこなしますとき、などが上げられます。

部品から作り上げて行きましてある形に組み立てますのと、自分の能力や出来上がった機械を使いこなしますのが何よりも好きだったようです。

 

どんなものであれ、小さな部分から想像し始めまして、それらから思いがけないものを創造して行きたいのです。

そして、それをフルに活用して楽しみますのが本望のように思われます。

 

そうしますと見えてきますのは、創造しますことを十二分に味わう存在であります。

また、創造した物を存分に生かしますことに大きな喜びを感じます存在とも言えます。

 

 

独りではない

 

孤独という言葉がありますが、人間は決して独りぼっちではないと思います。

孤独だったというのはただ、もう一人の自分がいたことに気づけなかっただけなのです。

 

このもう一人の自分とは、ほんとうの自分のことであり魂とか良心などと言ったりする存在のことだと思っています。

自分を客観視できるのも、この存在が関与しているような気がします。

 

もちろん、ふだんは何か言ったり書いたり食べたりする、この自分だけが、自分だと思って過ごしています。

しかしあるとき、自分の内面にしばらく意識を向けていると、片すみでじっと観察するものがいる気配がしました。

それは、ただそこにいるだけ、という感じでした。

 

のちにわかったことは、誰にでも内面の奥深くには、その人を見守るその人自身が必ずいるということです。

それ以来、どんなに親しい間柄であっても、その人のことを過度に心配したり関わったりせずに、当人のことは当人自身にすべて任せるようにしました。

 

自分がそうであるように、どんな人もそれぞれ自分自身への道を歩んでいる途上に、いまいるということを忘れてはならないと思います。

それに自分の意志でしか、自分自身に連れて行くことはできないこと。当人をおいてほかに連れて行けるものは、誰もいないということです。

 

人の歩む姿勢などを参考にすることはあったとしても、自分で自分を励まし、自分自身に励まされながら、手探りで前へ進んでいくしかないと思うのです。