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意識を意識する

 

車の運転している最中に、どんな行動を取りますかは、そのときの意識状態で大きく異なるのに気がつきました。

愛を意識していますときは、ていねいな運転を自然とやっていますが、いつの間にか通常の個別意識に戻っているのです。

 

信号のない交差点に差しかかっても、左右の確認をおろそかにして先を急ごうとするのです。

そんな独りよがりの行動を平気でやっておりました。

 

個別意識の自己中心的な性質が、ハンドルを握ると顕著に表れていますのには驚きます。

これでは周りに何らかの害を与える可能性が常にありますので、この通常の意識状態を何とかしなくてはなりません。

そうは言っても手強い相手でありますし、一筋縄では行かないのは確かです。

 

個別意識を敵視したり、無視したりしても無駄でありますどころか、かえって身勝手さを助長しますことにもなりかねません。

どのようにして、個別意識と折り合いを付けて行くのか、それを考えますほうが得策のようです。

 

愛や幸せという言葉だけよりも、それをイメージにして心に満たし、それを絶えず意識できるようになるには、どのようなステップを踏めばいいのでしょうか。

人生の大半を、この意識のもとで生きて来ましたから、それを変えて行きますのは容易ではありませんが、何とかしてやって行かなくてはと思うのです。

 

 

 

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

全肯定の選択

 

自分とは何かにこだわっていましたのは、何か自分が特別な任務を背負っているかのように思っていたからでした。

と言いますのは、本質的には他の人たちと異なるものではないと認めてみますと、自分が何者であるかに執着する理由がなくなっていますのに気がついたのです。

 

ありのままの自分を素直に受け入れられまして、思うところに従いまして生きて行けそうなのです。

ずっと問い詰めていました重圧が取れましたような身軽さを感じています。

これまでやって来たことに間違いはなかったという肯定感に包まれまして、今やっていますこともベストな選択でありますのがわかるのです。

 

何を選びましても、最終的な目的地にたどり着く道を歩んでいますのに変わりがないのです。

悩んだりあせったりする必要はまったくなく、失敗を恐れます根拠もいっさい見あたらなくなりました。

これまで問題と見なしていました、どんな事態も全て善なるものであったのがわかります。

 

そうした出来事のどれひとつでも欠けていましたら、今の自分はあり得なかったのですから、全部が正解の連続であったと言えます。

これから行いますのも、好ましい物事しか考えられません。

どれもが正しいのですから、よりワクワクするようなこと、自分に一番マッチしそうなものを選ぶだけでよいのです。

間違いや後悔する場合がなくなり、そこにありますのは信頼です。

 

 

観察に専念する

 

主に黙想を通しまして、自分を観察するようにしています。

当初は思考します自分と観察しています自分とを、同時に共存させますのがきわめて困難でありました。

ある考えに、はまりきってしまうか、あるいは観察の視点をもつときかの、どちらかでありました。

 

ごくたまにでありますが、想念をいだいていますところを、離れて見ている状態になれる瞬間がありました。

このまま時間をかけて行っていきますと、観察者の目で自分の思考や感情を追って行けそうに思います。

 

ここで注意しなければいけないことがひとつありました。観察する側に立った自分は、ただそのことだけに専念し続けます。

このとき、決して思考をコントロールしようとしてはならないのです。

あるとき誤ってそれをやりまして一瞬、頭がおかしくなって混乱してしまいました。もう二度とやるまいと思いました。

 

自分の心をただ見つめるだけに集中しておりますと、時間の経つのがとても速いように感じます。

そこで次からは、思考や感情をどれだけ詳細にわたって眺められるのか、そこに気をつけながら進めて行きましたら、もっと時間を有効に使えそうな気がいたします。

 

 

自分の可能性

 

最大の関心事は何でありましょうか。寝ていましても覚めていましても、そのことだけを考えている、興味津々なものは何でありましょうか。

いまの自分にはないと申せます。より近いものでしたら、どうでしょうか。

このブログ更新を続けていきますことが、あるいはそれにあてはまりそうです。

 

しかし、書いていく内容につきましては書き始める前まで、特に考えておりませんし、ごくたまにテーマが浮かんで来るぐらいであります。

ただ努めていますのは、朝から何度も、何かを必ず書き上げるようにと自分に言い聞かせております。

このように見ていきますと、ブログを続けるのが現在の最大の関心事とは申せないでしょう。

 

書く内容では、どうでしょうか、自分にとりまして注目に値するような主題か何かは、ありますか。

思い巡らしましたが、これと言って見当たらないのです。いま差し迫った状況にはいないと言い変えましてもいいと思います。

ある意味におきましては、これはこれで喜ぶべきなのかも知れません。でも、もしかしましたら大事なことを、見落としている場合も考えられます。

 

確かに、何かとても大切な教えを見逃しているような気がします。そのときに見合いました課題が提示されているはずですから。

それを真っ先に取り上げまして、可能な限り掘り下げていかなければならない、そのような主題があるはずです。

また、そのようであってほしいと望みます。自分であるからこそ行えます役柄に、応じたいだけなのですが。

一晩、考えまして続きを記すことにいたします。

 

 

ただ在るだけ

 

いったい自分とは何なのかと思いました。

もちろん自分は、自分でしかないのでありますが、今まで気がつかなかった体験をしましたので、それを紹介させてください。

仕事の合間で休憩していましたときに、ふと自分の内側を、愛で満たしてみようと思い、そうしましたところ、続けられそうな気がいたしましたので、しばらく、そのままでいました。

 

すると、そこでは思考がいっさい働かないのに気づきました。

短いあいだではありましたが、この「愛の状態」としか言いようのない在り方では、時間が過ぎていく気配もまったくありませんでした。

これは何なのだろうかと考え出しました途端に、何者でもない状態は消え去りまして、元に戻っておりました。

 

そして、意識をどちらに集中させるかによりまして、通常の思考の世界と愛だけの状態とを、交互に行き来しますのも可能であることを知りました。

愛と呼ばれますものに意識を向けますと、いまの自分という感覚もなく、ただ「在る」だけになるのです。

おそらくは、これが自分の本質にもっとも近いものであると思われます。

 

ですから、「愛で一日を満たしなさい」とよく言われているのでしょう。

その状態になりますと、何の考えも浮かばず、何かを感じることもありませんが、それでいて、すべてがそこにありますのがわかるのです。

 

 

監督者の立場

 

自分を観察する大切さを、もう少し考えてみます。

いまこうして人間として生まれてきて現在がありますが、これは仮の姿であるのに気づいている人は、どれだけおられるでしょうか。

 

何度もお伝えしていますように、本来の自分自身という存在がおりまして、それは人間以上のものであることを理解しておかなければなりません。

見るものと見られるもの、あるいは創るものと創られるもの、との違いであります。

 

自分を観察者の視点に立って眺めますと、仮の姿であります自分との距離を置きやすくなります。

見方によりましては人生が、ある人間の役を演じます舞台であるような気がしてまいります。

 

日頃、上手に自分の役をこなして行きますのには、だれかに監督してもらう必要があります。

しかし、もともと自分が監督者でもありますのに、それを忘れて役者に没頭しきっていますのが現状なのです。

 

ですから、ときどきは役者を降りまして監督者に戻り、第三者の目で筋書きを追っていきます時間を持たなければならないのです。

自己をきちんと見つめるときをもつ重要性は、もっとほかにもありましょう。

 

今回は、いまの自分とは仮の姿であり、また自分は役者であると同時に監督者でもあるということを取り上げてみました。

定期的に自分の思考や行動などを観察するようにしますと、それらに気づかせてくれるのです。

 

 

完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。