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自己を信頼 自分自身をもっと知る

監督者の立場

 

自分を観察する大切さを、もう少し考えてみます。

いまこうして人間として生まれてきて現在がありますが、これは仮の姿であるのに気づいている人は、どれだけおられるでしょうか。

 

何度もお伝えしていますように、本来の自分自身という存在がおりまして、それは人間以上のものであることを理解しておかなければなりません。

見るものと見られるもの、あるいは創るものと創られるもの、との違いであります。

 

自分を観察者の視点に立って眺めますと、仮の姿であります自分との距離を置きやすくなります。

見方によりましては人生が、ある人間の役を演じます舞台であるような気がしてまいります。

 

日頃、上手に自分の役をこなして行きますのには、だれかに監督してもらう必要があります。

しかし、もともと自分が監督者でもありますのに、それを忘れて役者に没頭しきっていますのが現状なのです。

 

ですから、ときどきは役者を降りまして監督者に戻り、第三者の目で筋書きを追っていきます時間を持たなければならないのです。

自己をきちんと見つめるときをもつ重要性は、もっとほかにもありましょう。

 

今回は、いまの自分とは仮の姿であり、また自分は役者であると同時に監督者でもあるということを取り上げてみました。

定期的に自分の思考や行動などを観察するようにしますと、それらに気づかせてくれるのです。

 

 

観察者の視点

 

なぜ自分の思考や行動などを観察することが重要なのでしょうか。

大きな問題としまして、よほど注意していませんと、自分の思考や行動などを、自分そのものと取り違えてしまうことです。

 

そして、それらを生み出しています、主体の自分自身のことをすっかり忘れてしまうからです。

ちょうど自分の肉体が、自分自身であると思い込んでしまうのと、よく似ています。

 

それがどうしていけないのでしょうか。それは、自分の考えや行いなど、そのものに執着してしまうからです。

執着しますと、それを失ったり傷つけられたりすることへの恐れが生まれて来るのです。

それで必死にそれを守ろうとしまして、異常なまでに敵がい心を燃やしてしまうものです。

 

ときには怒りにかられたり、葛藤に巻き込まれたりするのです。

自分の意見やアイデア、手柄などを簡単には手放せなくなって、頑なになってしまうものです。

争いのほとんどは、こうしたことが大きな原因となっているように思います。

 

それに対して、観察する目を養っていきますと、執着する理由がありませんので、はるかに容易に考えを変えることができます。行動を改めていくこともたやすいのです。

いつでも当事者の目線から離れて、第三者の目で物事をとらえられますので、的確な判断を下せるからです。

それに、観察者の視点をもっていますと、自分自身への道を踏み外すことが少なくなって、迷わずに進んで行けます。

 

 

自分を観察する

 

今すぐ取りかかれる問題として、黙想を生活の中でどのようにして定着させるかです。

時間的には夕方の30分を確保しています。

 

いま自分が行っている黙想をかんたんに紹介しますと、目をつむり座ったまま、身体を動かさずに心を静めていきます。

そして浮かんでくる考えや情景などをただ観察して行くだけです。

 

以前は30分以上、黙想しておりましたが、最近は15分がようやくという状況です。

時間が短くなったのは、始める前に終了時間を特に設定せず、ある程度できたら、そこで切り上げるようにしてからです。

黙想をうとましいと思っている自分の声に従い、それを許して来た結果でもありました。

 

30分間の黙想のときの効果は、それほど大きな変化はなかったように思います。

しかし、一時間以上の黙想を提唱されていますのに、30分ぐらいでは、成果が出ないというのは当然なのです。

ここまで考察して来まして、積み上げる重要性を思い起こすに至りました。

 

これまで黙想を行うことに関しては、途中でやめたくなってきてもやり通す、そんな意気込みを欠いておりました。

つぎからの黙想では、30分間は続けていきます。それを定着させてから、一時間に戻して行く予定です。

自分の思考や行動などを観察する重要性については、日をあらためて考えてみるつもりです。

 

 

自分を取り戻す

 

最高の人間について自由に想像し、それを理想として励んでみるのも有益だと思います。

しかし、究極の進化について正確に推し量るのは、よほど進化した人間でもなければ、できるものではなかったのです。

 

それよりも、努力すれば解決できる、目の前の問題に、もっと目を向ける必要がありました。

いま、かかえている個人の問題から始めて、地球全体の問題にまで視野を広げてみるという意味です。

 

たとえば、いま個人レベルで気をつけていますのは、①ブログ更新を継続していく、②日々仕事の改善をはかる、③家族のコミュニケーションを深める、などが上げられます。

そして課題となっているのは、毎日の生活で、どのようにして黙想を定着させていくかです。

 

黙想する重要性については、すでに著名な方々が、各方面で指摘されています。

ここで申し上げたいのは、「自分自身」を取り戻すには、黙想が最良の方法であるという点です。

 

結局のところ、個人レベルで抱えているのは、いかに「自分自身」と根気よく向き合っていくかという問題です。

そして、つぎの言葉が現実味を帯びて、よみがえって来ました。

「自分自身に連れ行ってくれる道をたどるほど、うとましいことはありません!」

このうとましく思っています自分と、今後どのようにして折り合いをつけますか、それが最優先の課題であります。

 

 

完璧なもの

 

考えられる最高の人間とは、どんな人間なのでしょうか。それは、自分たちがめざす理想の人間でもあるはずです。

いまの自分と比べて、どこがどのように違っているのでしょうか?

聡明な頭脳や容姿端麗であるとか、そういった好ましい条件をすべて持ち合わせた人間を、最高の人間と考えていいのでしょうか?

もちろん、そうした条件を兼ね備えているに、超したことはないのですが、それが最高の人間の必要不可欠な条件とは、どうしても考えられません。

最高とは、何をするにせよ、何を考えるにも、完璧にそれを行えるということでしょう。

いま、自分のやることやなすことをほぼ完璧に行えたとしたら、どんな展開になっているのか、考えてみるのも有益なことかもしれないのです。

 

ひとつ言えることは、やり終えたときの充実感は、格別なものであろうということです。もっとも、そう感じるのは最初のころだけであるかもしれませんが。

また、失敗とか間違いはあり得ないのですから、いつも最短最速でやり終えることでしょう。

やり終えた結果も、格段に調和のとれた、それこそ完璧な出来映えであろうということです。

なかなか、そこまで詳細に想像しにくいことではありますが、やってみる価値は十分あると思います。

 

ところで、もともと完全であり、完璧であったものが、いまは不完全で、完璧にはほど遠い、落ちぶれたものだと、どうして言えるでしょうか。

完全で完璧なものであったからこそ、いまも完全であり、これからも完璧であり続けるはずです。

 

ただ、完全であり完璧であることを忘れて、そのことにまったく気づいていないだけです。

とは言っても、そのことに気づけるところまで進化して来たのは、事実なのです。

なぜ、完璧なまでに完全であったものが、それを忘れ去ってまでして、何をやりたかったのでしょうか?

 

それは、自分自身を知りたかったのだ、と言われているのです。

完全で完璧な自分を知るために、忘却によって可能となった「完全でなく、完璧でない自分」の体験を通して、何とか

「完全で、完璧な自分自身」を知ろうとしているのではないかと思うのです。

 

 

当たり前のこと

 

ある女性から「一日だけ、はさみを貸してください」と言われて、手持ちのはさみを貸しました。

一日ぐらいなら、それがなくても別にどうってことはなかったのですが、二、三日たってもはさみが返ってきません。

さすがに不便を感じることがあり、貸した人に返してもらわなくてはと思っていました。

 

やっと、その人に聞く機会がありましたので「はさみは、どうしましたか?」とたずねたところ、

「忘れていました。返そうと思っていたのですが…」という答えでした。

これを聞いて、その人に対してどんな印象を私が持ったのかは、想像がつくと思います。

 

この人は、自分の言ったことでさえも、守れないのだ。借りたものは返すのが当たり前、と思っているだけで、なかなか実行しない人なのだ。

すぐ返さなくても、貸した人は別段、困ることもないだろう、などと自分勝手なことを考えている人だ…。

 

ちょっとしたことをきちんと守る習慣ができていない人は、いくら着飾ってみても、人から好印象を持たれることはまずないでしょう。

本人がそのことに、いち早く気づいて、心を改めていけば、何の問題もないことです。

その女性は、はさみをすぐ返しに来たので、相手から言われる前に、自分から返すことを心がけるように、と伝えました。

 

ちょっとした約束ごとなのに、人はどうして守れなくなるのでしょうか。

おそらくそれは、子どもの頃には褒めてもらえたのに、大人になってからは、ちょっとした約束ごとをしっかり守り通してきたとしても、それは当たり前のことなので、高く評価してくれる人や感謝してくれる人がいなくなったからではないでしょうか。

もしそうなら、誰も褒めてくれなくても大丈夫です。

 

この次から自分が、当たり前のことを当たり前にやれたときは、自分で自分を、うんと褒めて上げればいいのです。

それじゃー、さびしいですか。

でも、当たり前のことを、当たり前にやることこそ、ほんとうは一番むずかしいことを、ほとんの人は知らないのですから、

このことの方が、よほど悲しいのではないでしょうか。

 

 

相手を敬う

 

改めて思ったことですが、いつどこで命を落とすのか、それは全くわからないということです。

もちろん人間だけでなく、あらゆる生きているものに、そう言えることかもしれません。

本人が気づいていないだけであって、生きていること自体が、絶えず病気や事故など命を落とす危険に出合うリスクを背負うことだと言えます。

そうした数えきれない関門をくぐり抜けて来たものだけが、いま生きているということです。

もっと言えば、社会や自然界から何らかの、必要とされているものだけしか生きられないということではないでしょうか。

 

そういうことが理解できたら、誰の命であろうと粗末には扱えないものです。

自分も含めてこの地上にあるもの、すべてにはそれぞれの、ある役割を果たすために存在することを忘れてはならないわけです。

でも実際には、個人の好き嫌いとか勝手な判断でないがしろにされたり、逆に、ないがしろにしてしまいがちなのです。

なぜこういうことになるのでしょうか。

 

人類が誕生した初期のころの人間にとっては、自然界のすべてを敬うことが当たり前であったのではないでしょうか。

ところが自然を軽視する者が現れてから人間同士の間でもいざこざが起こりはじめ、自然界やお互いを敬わない者が徐々に増えて来たのではないかと思います。

一度でも人から粗末に扱われたりすると、根に持ちやすいものです。それがたび重なると、その体験が今度は人を粗末にする誘因となるのだと思うのです。

では、どう対処していけばいいのでしょうか。

 

いったん、まず人から受けた理不尽な扱いや体験などすべてをご破算にして忘れてしまうことです。そして自分の原点に立ち戻ることではないでしょうか。

自分のことを人がどう扱いどう思おうと、周りがどうであれ、そんなことはどうでもいいことであって、自分は自分なのだと頭を切り替えることです。

 

たとえば、本当は自分をどうして欲しかったのかをよく考え、して欲しかったことだけを人にして行けばいいのです。

して欲しくないことは、絶対に人にしないことでもあります。

 

本来、当たり前であったことはちゃんと記憶の中にあり、ただ眠っているだけなので、それを呼び起こし、自分から当たり前にして行けばいいのだと思うのです。

 

 

生きている木

 

大きくなりすぎた庭の木々の剪定をやろうと、ずっと思っていました。それを昨日、意を決してやることにしました。

手伝ってくれる人に依頼できたことで幸先が良く、昼過ぎから作業に取りかかることにしました。

前にも何度か剪定はやったことがあり、十分に気を付けてやっていくのはもちろんのこと、要領もだいたいわかっていました。

 

作業着に着替えて軍手や帽子、剪定の道具などを身に着けていよいよ作業の開始です。

3メートル以上の高さの木に、剪定用の梯子(はしご)を使って登るわけですが、この梯子が結構重たいので慎重に動かして安定させます。

上に登ってからすぐ、足元がぐらつかないように木とはしごの上部を太めの紐でくくりつけます。

枝の適当な位置にのこぎりの歯を当て切り始めて行きます。太い枝ですので、一つを切るのにも重労働です。

 

最後の大枝を切り終えた直後、ヒヤッとしました。太い枝がすぐ横で落ちて行ったのです。

もうちょっと手前だったら頭を直撃されるところでした。助けてもらったと思うと同時に感謝の念に打たれました。

そのとき、一生が終わっていたかもしれないのに、生かされました。まだやるべきことが自分に残されていることを確認する出来事でした。

 

さて5、6本の大枝を切ったところで、上での作業はひとまず終わりにして、切り落とした枝のさばきにかかります。

切り落とした一つ一つの枝が相当に重くて「よくもまあ、こんな重い枝をいくつも木は支えていたのだ…」「文句ひとつも言わずに、黙々と支えていた」ことに、つくづく感心してしまいました。

生きている木から「支え、支えられて生きている」とは、こういうことなのだ、と教えを受けているようでした。

 

で、その枝をその場でそれぞれ、いくつかに切っていき、持てるほど小枝に分けてから運んで行きます。

最後に小枝を更に細かく切り分けて行きます。1時間のつもりが3時間以上かかってしまいました。

これでどうにか1本の木の剪定が終わりました。あと4本ありますので、一週間後に2本目をやる予定です。