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自己を信頼 自分自身をもっと知る

かけがえのなさ

 

今朝、気づいたのですが、車を運転中に愛を意識していますだけでも十分に、周りを配慮した慎重な運転をやっておりました。

向こうから車がこちらに迫って来ますとき、そのものの脈動感が伝わってきまして思わず身震いしましたのは、自分の本質も愛であるからでありましょう。

 

さらに思い至りましたのは、普段の日常生活におきましてこそ、常に愛を意識しますことの大切さでありました。

そうした気持ちを持っていますと、何もやっていないときに時々感じていました、言い知れぬ寂しさとか孤独感からも解き放たれるのを知りました。

 

不足とか欠乏感が生じて来ないのにも気づき、愛という偉大な力のその一端に触れたように思われまして、感謝の念に打たれました。

どうしてこんなに大事な心がけを、いつの間にか忘れてしまったのでしょうか。

 

一時的にせよ、忘れる必要があったからなのでしょうか。そうとしか、思い当たらないのです。

なぜ、忘れなければならなかったのでしょうか。先ほど感じましたような愛の偉大さ、かけがえのなさを実体験で学んで知る上で忘却は不可欠だったのでしょう。

 

自分はもう、そのことを十分に知り尽くしましたと、天に向かって断言できればいいのですが、まだまだ言える状況ではありません。

自分が学びの途上にありますのをここで再認識し、もっと学び取ります決意を新たにするのでした。

 

 

純粋な願い

 

人より勝ろうとする欲が、自分の中にありますのを認め、それを把握しておかなければなりません。

どうして、みんなの幸せだけを考えることができないのでしょうか。

 

長年の習性として自我の欲望にかられますのが、ごく当たり前になっているからだと思います。

放っておきますと、自分にとって何をさておいても、この自我が満たされるのが最優先なのです。

 

なぜ、こうした個人的な意思から離れなければいけないのでしょうか。それは、みんなのことに目を向けますのを困難にしているからでありましょう。

個人的な好みやこだわり、願望にとらわれている限り、どんな客観的な真実も見えて来ないからではないでしょうか。

 

もっとも願望に関しては、自分を利する願いと純粋な願いとを区別して行く必要はありそうです。

ほんとうの自分とのつながりを持ちますには、どうしたらいいのでしょうか。

 

自分を賢く見せたい、格好が良く少しでも若く見せたい、人より偉くなりたい、もっと稼ぎたいなどの欲望は、全てとらわれでありますのがはっきりと理解できるかどうかです。

そして、それらを手放して行くと自分に約束できるかどうかであります。

 

カチンと来たり言い争ったりしますのは、自分を少しも信頼せず、そうした自我の言いなりになっていますからです。

自我が語りかけてくる言葉をことごとく放棄して行けますように。

 

 

信頼と実践

 

なぜか以前と比べて、ひとりっきりになる傾向がすっかり定着して来ましたように思います。

前は仕事の仲間に会いましたら声を掛け合ったり、また一緒にイベントを企画したりして楽しんでいました。

ところが2年ぐらい前から、会っても挨拶程度で済ましているのが当たり前になっています。

 

もともと内向きな性格でしたので、元に戻ったような気がしますが、何か腑に落ちないのであります。

これまで人とのつながりの中で学び、成長して来られたと思っていましたのに、ここに来て人との関わりを敢えて避けたくなりますのはどうしてなのかと不思議に思ったりするのです。

 

別に人間が嫌いになったのでもなければ、人付き合いが不要とも考えましたのでもなく、ただ家族以外で人と親密になる必要性がなくなってしまったのです。

特別な何かに脇目も振らず集中する機会を、天は与えてくれたのかもしれないと感じますことがあります。

そして何に没頭すべきかは確証が持てないだけで、思い当たるところがないわけではありません。

 

もうこれ以上、迷っている暇はありません。進むべき道はこのようにして目の前に用意されたのだと気づきました。

手元には必要なものが、すべて揃っていました。ここまで来ましたことに感謝しつつ、後は自己を信頼して実践あるのみです。

 

 

自分と向き合う

 

ほんとうの自分とは、いつもビクビクしています小心者の自分でもなければ、やがて老いて朽ちて行きます肉体でもないのです。

また、自分にとりまして今の人生が全てでもありません。はるか以前から自分はいたのでありまして、これからもずっとあり続ける存在なのです。

 

まず、そこのところをしっかりと押さえておくことであります。

その上でこの人生において、なぜ小心者のように振る舞ってしまうのか、そこからよく考えてみる必要があるのです。

 

ついビクビクしてしまう自分を、言わば分身として眺めます視点を持つようにしてみます。いろいろな理由が浮かんできますので、それらを受けとめて行きます。

自分の中で、問題を抱えています自分と第三者的な立場の自分とで穏やかな対話を重ねて行きます。

 

たまたま映画「戦場のメリークリスマス」を見始めてみたのですが、捕虜の人間をモノで殴る蹴る、銃殺などを平気で行う場面に、あまりに霊的な進化とは逆行しており、たまらず止めてしまいました。

おそらく実際の戦場では、これ以上の地獄のような有様であったのかと想像しますと胸が裂ける思いになります。

 

ビクついてしまう要因には、これに類した戦争体験の遠い記憶であります場合が十分に考えられると思うのです。

ですから今の自分を無理に変えようとするのではなく、それを認めて行きまして気づいているだけでいいのです。

 

 

最大の願い 

 

霊的に成長して来ますと、いかなる状況にありましても、みんなの幸せをいつも考えています。

みんなが幸せになれる社会をめざしますのが、個人としての最大の願いなのです。

 

全ての人が幸せになりますこと。この祈願は自分が何をいたしますときも組織にいましても、重要な決定を下すときの大原則なのです。

一人一人の人間は常に全体を最優先に考えていますので、当然ながら定められた社会制度の全てはことごとく一人一人のことを最大限に配慮した内容になっています。

 

まさに宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」を、個人個人が現実に体現しているのです。

よく言われます、個人か全体かという二者択一の問題にすり替えてはならないのです。

 

あくまでも、一個人それぞれが原因となりまして、全体の幸せという結果を産み出し、各個人の幸せがもたらされるのです。

この順序の逆は、存在しないのです。

 

高度に進化しました人と言いますのは、全体の進化のことしか眼中にはないのです。

しかし、そういう人たちも元をたどりますと、今の私たちと同じ段階を通ってそこまで進化を遂げられたのです。

 

より霊的に成長します鍵となりますのは、いかに全体のことを自分事として受けとめられるかであります。

これは別に自己犠牲をすすめているわけではありません。

 

深いレベルにおいて、全体の一人一人が自分自身でもあると気づいていますので、全ては自分事としてしか考えられないのです。

自分とは何かを、どれだけ霊的な意味で会得していますかどうかにも関連して来るのであります。

 

 

全肯定の選択

 

自分とは何かにこだわっていましたのは、何か自分が特別な任務を背負っているかのように思っていたからでした。

と言いますのは、本質的には他の人たちと異なるものではないと認めてみますと、自分が何者であるかに執着する理由がなくなっていますのに気がついたのです。

 

ありのままの自分を素直に受け入れられまして、思うところに従いまして生きて行けそうなのです。

ずっと問い詰めていました重圧が取れましたような身軽さを感じています。

これまでやって来たことに間違いはなかったという肯定感に包まれまして、今やっていますこともベストな選択でありますのがわかるのです。

 

何を選びましても、最終的な目的地にたどり着く道を歩んでいますのに変わりがないのです。

悩んだりあせったりする必要はまったくなく、失敗を恐れます根拠もいっさい見あたらなくなりました。

これまで問題と見なしていました、どんな事態も全て善なるものであったのがわかります。

 

そうした出来事のどれひとつでも欠けていましたら、今の自分はあり得なかったのですから、全部が正解の連続であったと言えます。

これから行いますのも、好ましい物事しか考えられません。

どれもが正しいのですから、よりワクワクするようなこと、自分に一番マッチしそうなものを選ぶだけでよいのです。

間違いや後悔する場合がなくなり、そこにありますのは信頼です。

 

 

ほんとうの自分

 

個は全体の縮図とも言われますように、ほんとうの自分とは、考えられます全てを有する存在でありますに違いないでしょう。

つまり自分というのは、何者でもない者かも知れません。

絶えず流動的で、とらえどころのない、あらゆる可能性そのものが、本来の自分かも知れないのです。

 

もしそうだとしますと、明確にこれだと特定しますのは、そのほかの全てを否定しますのと同じになってしまいます。

自分の一部分をもって、全体もそうであるかのように言ってしまうのです。

 

これは言葉で言い表せませんのに、そうしようと試みるからでありまして、ある意味ではそれも仕方のないことです。

自分という者を敢えて表そうとしますには、たくさんの要素からいくつかだけで表現せざるを得ないのです。

 

ですから問題となりますのは、その内のどれをもって表現するかでありますが、

自ずと意識に上がって来ましたものや、頭に浮かんで来ましたもので限定するほかはありません。

 

それは脳に刻まれました記憶の中から特に、一番心に響きました事柄でありましたり、強く印象に残った体験の断片であります。

それらはどれも全体の縮図を宿してはいますが、ほんの一例に過ぎないこと、自分の全てを表してはいないことをわきまえています必要があります。

 

 

創造の喜び

 

ほんとうの自分とは何なのか、思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。

少なくとも、好きなテレビ番組を見て面白がるだけの自分ではないはずです。

十分それで満足していますならともかく、ほかの人にも役立ちそうな何か、出来ますことはないのでしょうか。

 

よほどの特殊なことでもない限り、それに没頭しますならば、どんなことでも自分はやれそうな気がして来ないでしょうか。

没頭できますものとそうでないものとがありますので、自分がどういうのでありましたら夢中になれますかを考えてみます。

これまで夢中になったのは、どんなときだったでしょうか。

 

例えば、プラモデルや模型などの工作品を作り上げましたとき、あるいは研修プログラムで研鑽に励みますとき、特殊な装置を使いこなしますとき、などが上げられます。

部品から作り上げて行きましてある形に組み立てますのと、自分の能力や出来上がった機械を使いこなしますのが何よりも好きだったようです。

 

どんなものであれ、小さな部分から想像し始めまして、それらから思いがけないものを創造して行きたいのです。

そして、それをフルに活用して楽しみますのが本望のように思われます。

 

そうしますと見えてきますのは、創造しますことを十二分に味わう存在であります。

また、創造した物を存分に生かしますことに大きな喜びを感じます存在とも言えます。