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自己を信頼 自分自身をもっと知る

考えが世界を創造する

これからしばらく、すべては自分が何者であるかを思い出すきっかけと、とらえまして様々な書物や映画などを見て行きます。

バーバラ・マーシニアック著「プレアデス+かく語りき」では、信頼について、次のように語られています。

信頼するとは、自分の考えが自分の世界を創造することをはっきりと心でわかっていることであると。

 

ある意味では、私は破壊者かもしれません。確かに閉塞した態勢を打ち破るのが大好きな存在です。

教え込まれて来ました限界の一つ一つを投げ捨てて、新しい考えを持ちます。

自分には何もできないとか、これ以上は考えられないとか、そう思うのを金輪際やめます。

 

私は自分に与えられた力を呼び起こして、それらを全部使ってでも、この破滅的でおかしな世界を変えるのを意図します。

私は自分の新しい考えが、新しい世界を創造するのだと信じます。

私はより多くの光を得まして、より強く、より聡明になり、果敢に使命をやり遂げると意図します。

 

グループで為しえる最高の貢献に、私も一員として寄与するのを意図します。信頼こそ鍵であることを実証します。

ほんとうに望めば必ず実現するのを、私は知っています。

心に刻みつける

 

自分が何者であるかを忘れてしまった体験者の自分といいますのは、好き嫌いという嗜好をもって判断し、限られた範囲の中でしか物事を考えられないのです。

ですから、いくら考えたとしましても思い出せないのは当たり前です。

 

ほんとうの自分を思い出すためには、観察者であります存在がつねに自分と共にいますのを忘れてはなりません。それは魂あるいは良心とも呼ばれます。

まず、そうした自分を導いてくれます神のような存在がいるのを、ほんとうに信じているかどうか。

 

また、ほんとうに自己を信頼しているのかどうかを問うのです。正直なところ、こんな大切な存在を軽視してやって来ました。

一刻も個人的な意思を手放しまして内なる声にしたがって、生きますにはどうすればいいのでしょうか。

 

これまで取り仕切っていました自分の頭脳や身体を明け渡します。魂の意向に沿って生き始めます。

思い出しますのは、ほんとうの自分が観察者であり、内なる神であり、魂であることです。これを何度も心に刻みつけるのです。

 

 

永遠の存在

 

これまでの最大の間違いは、やがては老いて朽ちて行きます肉体を自分だと思って来たことです。

この人生で体験するための借り物でしか過ぎない身体を、自分だと信じ込んでいたのです。

 

ほんとうの自分とは、様々な体験を味わう主体であり永遠の存在である意識でもあります。

これまでも、そしてこれからもずっと未来永劫、完璧な存在としてあり続けるのです。

 

この次元での役割を終えましたら肉体は死を迎えますが、私は別次元へ移って行き、別の使命をもって再び新たな人生を生きるのです。

ですから、死を恐れる必要はまったくないわけです。

そのときが来るまでは、この人生でやれますことに集中して取り組めばいいのです。

 

本来ならば、不安になったり心配したり悩んだり落ち込んだりする理由はどこにも存在しないのです。

また、五感がとらえます周波数の世界というのは、全体の極々一部分でしかありません。

 

もっと広大な世界に目を向けて、そこへアクセスする術を身に付けて行かなければならないのです。

たとえ、どんな絶望的な状況であろうとも自暴自棄にならず、どんなに悲惨な運命に遭遇しようとも自分を信じ、あきらめたりしなければ幻想に打ち勝つことは出来るのです。

 

 

気づいた人間から

 

「自分を信頼している」と絶えず自分自身に言い聞かせていますと、無気力さや荒々しさなど好ましくない雑念を振り払うことが出来ます。

また、空気中にはラジオやテレビの電波をはじめとしまして、人間や高等生物などが発します想念が飛び交っています。

 

それを忘れてしまって無防備な状態にいますとき、否定的な考えやエネルギーなどを取り込んでしまいがちです。

そこを充分に注意しなくてはならないのです。

 

それでなくても、すでに心身を思い込みや化学薬品などで毒されており、洗い清めて行く努力が求められているのです。

たとえば、社会を良くしようとしても無駄であるとか、自分ひとりの力ではとても無理であるとか、誰も聞く耳を持たないし相手に歯が立たないから何をやっても無意味であるとか、そうした無力感に包まれています。

 

学校や職場では競争し、核家族化とスマホが行き渡り会話のない家庭が増えるに至って、私たち一人ひとりは完全に分断されて孤立状態と言えます。

大都会ではもちろん地方に住んでいましても、お互いに助け合うということが出来にくい状況にあるのではないでしょうか。

 

社会は急速に分業化が進んで、共同社会は確実にくずれつつあります。

気づいた人間があきらめずに、出来ますことを手がけて行くしか道はないように思われます。

 

 

光の生き方

 

バーバラ・マーシニアックの「プレアデス+かく語りき」には驚くべきことがたくさん書かれています。

自分に取りまして、この世界がすべてではありませんし、またこの世で体験者である自分が、自分のすべてでもないという真実を肝に銘じておく必要があります。

 

確かに、知れば知るほど絶望に陥ってしまうような状況が、この世界にはあまりに多く見受けられます。

かといって逃げ出そうとしたり、簡単にあきらめたりしますのも賢明なやり方とは言えないでしょう。

 

大変な事態でありますほど一層、冷静になって身の処し方を考えなければなりません。

いますぐ捕らえられてどこかへ連れて行かれるのでなければ、まだ対策を練ってそれを講じることはできるのですから。

 

客観的に考えてみますと、彼らはなぜ地球を乗っ取り人類を支配するのでしょうか。

自分たちの儀式を遂行し、食料源を確保するためなのでしょうか。

あまり触れたくはないのですが、悪魔であるためには悪魔的な要素を絶えず発散させていないと、自分を維持できないからでありましょう。

 

思いやりとか優しさ、信頼など、愛を基調とします思いは、悪に対し免疫としての機能を果たすと言われています。

そして最終的には、光はどんな暴虐をも許すことを学ばなければならないのです。

 

 

考えが現実に

 

たとえ、どんな厳しい状況下に置かれたとしましても、そこを切り抜けて行きますには、自分が何を信じどのように考えて行くのか、が要となるように思うのです。

心より考えました通りに物事は展開して行くものであるからです。

 

そういう意味でも、普段から何を信じて生きているのか、がとても重要だと言えます。

どうしても自分が信じている範囲のことしか頭に浮かばす、それしか考えられないものなのです。

 

もしも自分の可能性をどこまでも信じますならば、あらゆる場合について思考をめぐらすことができますので、相当のところまでやり遂げられるはずです。

自己実現された人たちというのは、ほとんどがそういう人々であったのではないかと思います。

 

信頼に足る自分を確立しますには、様々な執着や思い込みなどを手放して純粋性を取り戻します。

自分自身への信頼を揺るぎないものにする努力と共に、望むような現実を心の中でどれだけ微細にわたり創り上げて行くかが最重要であり、それが最大の関心事となります。

 

 

心を満たしておく

 

何かをやっていますときに、それが少しでもうまく行かないとイライラし、「いい加減にしてください」という言葉が出て来る場面にときどき遭遇します。

なぜイライラするのでしょうか。また愚痴る声は、いったいどこから出て来るのでしょうか。

 

そもそもそんな些細なことで、イライラするほどに短気でいますのが不思議でありまして信じられないのです。

まったく意識できていませんでしたが、そのときの心はここにあらずの状態であったことです。

 

そして別人のようになって、言うことを聞かない相手やモノに恨みを晴らしていたようなのです。

それは一瞬のうちの出来事でありまして、すぐに自分の異常な行動に気づいて我に返るという具合でした。

 

ずっと以前に取り上げました記事と重なる内容でもあります。

心にスキがありますと、いつでもこうした事態を招くというのがようやくわかって来ました。

 

愚痴が出て来ますのは何かコントロールしようとしまして、それができない焦りからではないかと思われます。

自分の内側や外側には、いわゆる闇の部分に当たるものが存在します。

だからといって、それらを敵視したり恐れたりしますと、ますます相手を助長してしまいます。

 

どのように向き合って行けばいいのでしょうか。

闇には闇の存在理由がありますのを、まず認めて行かなければなりません。

 

自分に帰る

 

自分を信じて行動しますには、相当の注意力を維持していなくてはなりません。

それを頭の片隅に、かろうじて置いておけます段階に今いるところです。

 

では、そのとき以外はどういう状態なのかと考えますと、空中に漂っています様々な想念のどれかにとらえられてしまっているのではないでしょうか。

あるいは無意識に浮かんできます過去の記憶にしたがって、衝動的に動いているだけであるかもしれません。

 

はっきりとした自分の意思や意図というものを持たずに、いわば操り人形と変わらない動きをしているように思えます。

自発的に頭をひねって考え、行動してはいないのです。そうでなかったなら、意識的に過ごすのがこんなにも困難であるはずがないのです。

 

自分を心から信じていますときは、そこに迷いや不安などが入る余地がなく、これが生きる基本の姿勢なのではないかと思います。

外で起きています現象をそのまま内側のスクリーンに映し出し、それを見ていますのが本来の自分なのであります。

 

なのに、なぜ改めて自分自身を信じるように仕向けなければならないのでしょうか。

それは映像に心を奪われてしまい、そこで映っています翻弄されているように見える分身を、あたかも自分だと見なしているからです。

 

つまり体験者としての自分と、観察者であります自分自身とを混同して生きてしまっているのです。

ですから何度も自分に帰るように唱えつづけて、意識を元に戻す必要があるのです。