「自分を磨く」カテゴリーアーカイブ

人は人によって磨かれる

自分をこき使う

 

前回は、人にこき使われることについて書きました。

今回は「自分をこき使う」をテーマに、進めていきたいと思います。

 

まず問題にしなくてはいけないのは何のため、誰のために自分をこき使うのかということです。

何のために自分をこき使っていく必要があるのかは、自分を高めていくため、より成長するためです。

 

では誰のためにこき使うのか、一にも二にも人々に奉仕していくためなのです。

勘違いしがちですが、そもそも自分の能力を伸ばして、可能性を広げていこうとするのは、何のためなのでしょうか。

自分の立身出世や金儲けのためでは決してありません。

 

なぜすべての人は持って生まれた能力開発の可能性を秘めているのか、それは人々に奉仕するためだと言っていいのです。

まわりで自分を支え助けてくれる人たちは、私たちに奉仕する機会を与え、それを体験させてくれる有難い存在なのです。

権力者の奴隷とか搾取、操作の標的になるためではないのです。

 

自分をこき使って、出来ることは何でもやって行くと、思ってもみなかった力を発揮している自分に気づくことがあります。

奉仕して行く過程で、能力はさらに磨かれていき、可能なこともふえて守備範囲は広がり大変なのですが、充実度も深まっていくのです。

 

人に尽くす

 

「周りの人たちは、講師の人にこき使われていた!私だったら絶対、こき使われないようにする…」

これは、仕事の関係で研修に行ってきた人の言葉です。

それを聞いていて、ふと思ったことは、こき使われるというのは、そんなに悪いことなのか、という疑問でした。

 

とらえ方の問題になりますが、人によってはこき使われることが必ずしも悪だとは言えないのではないか。

指示通り動くことによって、より完璧な研修になると考えて、その人に従い、尽くそうとしているだけかもしれないからです。

 

もっともエゴにとっては、自分を顧みず人のために尽くすことは耐えられないので、猛反対して来るのですが、そんな声はスルーに決め込んでいます。

 

人に尽くすといっても、別に自己犠牲のことをいっている訳ではありません。

根底には、自分の役割を自覚し、それを忠実に果たそうとしているだけであって、自分を捨てることや降伏することではありません。

 

人に尽くしていくという行為は、自他を区別することなく愛することを呼び覚まし、全幅の信頼を培います。

いますぐ出来ることは、自分に取り組むことです。

自分に取り組むとは、すべての問題の原因を自分の内に見つけることであり、それを何とかすることで対処します。

 

もし人に尽くすことが出来ないときは、そういう自分に取り組んでみます。

なぜ出来ないのか?

些細なことでもいいから、何か出来ることはないのか?

そうしたことを考えてみます。

出来ないことを考えるのではなく、いつも出来ることだけを考えます。

 

 

満たすもの

 

心は絶えず、見るものや聞くものなど、注意を向けるあらゆるもので満ち満ちています。

普段はそういうことに全く気付かず、過ごしていることにちょっと驚いてしまいます。

 

現実だと思っている、目の前に広がるこの世界は、実は自分が脳内で作り出した幻影に過ぎないことは前から知っていました。

それを考慮に入れると、心というスクリーンに五感で得た情報を映し出して、それを眺めているのが自分だと納得がいきます。

 

だから毎日、心をどういうもので満たし続けるかが大問題であり、その重要性にどれだけ気が付いているのかどうかです。

愛で一日を満たすという課題に取り組んでみた結果、以上のところまでを思いを巡らすことが出来ました。

 

何かに取り組む場合に、注意せず成り行き任せでいると、予期せぬ事態を招くことがあり、それに慌てて対処し、かえって悪化させてしまうことがよくあるものです。

どんな心がけで日々を過ごして行くのか、そうした自己管理を怠っていると心は隙だらけなので、悪夢のような状況を引き寄せないとも限らないのです。

 

自分が望むことや喜ばしいこと、嬉しいこと、楽しいこと、人に役立つことなど、いつもそういうものだけで心を満たしていれば、少なくとも好ましくないことは起こりにくくなるのは間違いありません。

 

 

 

何に尽くすか

 

山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」を見ました。

時は幕末の頃、地方の一介の武士の生き様を描いたものでした。

移り変わり行く時代の狭間で、家族をかかえ困窮の中にありながらも、精一杯に生きて行きます。

しかし武士の身として、いざとなれば命を張って藩に尽くすしか、ほかに道はなく、どうしようもなかったこと、それが痛いほど伝わってきました。

 

どういう時代に生まれたかによって、人はどう生きるかは大体決まって来るように思います。

もし戦時中に生まれていれば、嫌でも戦(いくさ)と関わることになり、限られた選択の中で生きて行くことになります。

また今という時代に生まれてきた場合は、もっと幅広い生き方が可能かもしれません。

でも、この時代が要求する範囲の中でしか、選択が出来ないという点では変わりはないと言えます。

 

結局のところ、人はある時ある場所に偶然に生まれてくるのではないようです。

時代や場所、そしておそらく両親をも、あらかじめ決めて生まれてくるのではないでしょうか。

そう考えないと、限定され違った時代時代に人間として生まれてくる意味が見つからないからです。

 

だから、幕末の混乱の時代にあえて武士の家系で生まれ、戦(いくさ)で命を落としたとしても、侍として忠誠を尽くすことに意味があったのではないかと思うのです。

いま、この時この場所で生まれて来たことを信頼し、この時この場所でしかできないこと、やることがあるはずなのです。

いま自分は何に集中し、尽くして行くべきなのかを問い、それに見合ったことだけに専念する、そういうことだと思いました。

 

心を満たす

 

車を毎日運転していますが、何も考えず成り行きで運転していると、たまに交差点でつい強引に飛び出してしまい、ヒヤッとすることがあります。

逆に誰かから、そうされることもあります。何かで忙しかったり焦っていたりしていると、そういう運転になりがちです。

 

ですから、運転中は特にゆったりした気持ちを保つことが、つまらない事故などを起こさないためにも、とても重要になってきます。

それで、そういう気持ちを呼び起こすために、自分に言い聞かせている言葉(註)があります。

「愛で一日を満たし、愛とともにいます」

これを何回か唱えるだけで、心はとても落ち着いてくるのです。

 

いまのせわしない世の中にあって、よほど気を付けていないと、自分を見失ったり、だまされまいと身構えたりで、恐れや緊張で心はくたくたになっています。

次の言葉(註)も朝と晩、唱えるように心がけています。

「愛で一日を始めます」「愛で一日を終えます」

 

愛で一日を始める、そう決心して仕事を始めますと、自然に笑みが浮かんでいて、優しい気持ちで接している自分に気づきます。

まだまだ定着し得ていないので、こうした些細なことを少しずつでも積み重ねていくことが、いまの自分にできるひとつではないかと思っています。

(註:ジョシュア・D・ストーン著「完全アセンション・マニュアル下巻」~サイババの教えから)

トラブルを防ぐ

 

人とのトラブルのほぼすべては、自分次第で未然に防ぐことができます。

何かトラブったとき、あの人が悪いとか、あいつが変なことをしたから、こういうことになったのだとか、原因をみんな相手のせいにしがちです。

しかし、もしも自分が冷静でいて賢明な選択をしていたなら、そのトラブルはそもそも起こらなかったはずではなかったでしょうか。

 

もし自分がこれ以上できないぐらいの優しさと、何でも許す心をもって臨んでいたなら、相手がどう出ようと争いは起こりようがないではないですか。

どうしてそこまでしなければならないのだと、思われるかもしれませんが、そこまでする価値があなたにあると言いたいのです。

 

良きにつけ悪しきにつけ、人はほとんど思い込みによって生きていると聞いたことがありますが、本当にその通りだと思います。

 

例えば私は小さい頃、いじめられたことがあります。以前はそのことを思い出すと悲しくなったり、相手に怒り感じたりして悶々としていました。

しかしその後、客観的にその頃のことをよく思い出してみたのです。そしたら必ずしもいじめられた訳ではなかったのです。

自分はいじめられていたと思い込んでいただけで、単に相手は当時の私の欠点を指摘していただけのことだったのです。

 

また小学生のときの学習発表会で、みんなの前に立つだけで顔が真っ赤になってしまい、頭が真っ白でした。

このときも、みんなが自分を見ている、見られていると思い、もう恥ずかしくて、顔を真っ赤にしていたのです。

 

自分の過去を振り返ると、ほとんど自分の勝手な思い込みが原因でトラブルを起こし、嫌な目にあって来たことに気づいたのです。

いじめられたり、無視されたり、悪口を言われたことなど、どれも実際には一度もなかったこと、自分の単なる思い込みがそこにあっただけだと断言できます。

 

トラブルを根絶するのは簡単なことなのです。

まず人から何かされるという受け身の立場を金輪際、捨て去ってしまうことです。

そして何かを為す自分として、主体的な立場に立って、自ら積極的に望ましい関係を切り開いて行くつもりになるだけでいいのです。

平穏な一日

 

平穏な一日の有難みを感じます。

とんだ災難とか、不慮の出来事などもなく、一日が平穏に過ぎていくお陰で、自分のやりたいことがやれるのですから。

 

今朝は目覚ましのセットを忘れたので、いつもより30分遅れて目を覚ましました。たった30分遅れただけで済みました。

また今回の仕込み量はいつもより多かったのですが、通常より1時間半の遅れで焼き終わりました。

考えてみれば電気や水道が止まったり機器の故障とか、何かトラブルが発生していれば、作業は中断していたかもしれないのです。

 

だから、一日が平穏に過ぎて行くということは、どんなにラッキーなことなのか、これほど有難いことはないといえるのです。

まだ一日が終わったわけではありませんので、この後も何事もなく過ぎて行ってくれるだろうと期待しながら書いています。

 

当たり前に過ごしていることを、改めて見つめ直し考えてみることは、あっという間に過ぎ去って行く時間の流れをくい止めることにもつながるのです。

当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったことに気づくことで、見過ごしていた貴重な時を取り戻したいのです。

平穏な日々とは、どんな日であるのか、両目をしっかり見開いて、些細なことも見逃さずに綴って行ければと思います。

 

過去のこと

 

スパっと心を切り替え、新たに踏み出して行けば良いものを、なぜ過去にしがみつき、いつまで過去を引きずりながら生きようとするのか、その訳を考えてみました。

例えば、人様のお店の運営からやっと身を引くことができたのに、その後も別の店でなんとか運営に関わり副収入を得ようと苦心していた自分がいました。

しかし運よく、本腰を入れて自営の仕事に取り組める状況が訪れたので、心を入れ替え人様の店の運営から完全に身を引くことができました。

 

いつも過去のことを思いめぐらしている、そういう自分に気づいたとき、やってみることとしては、まず何にこだわっているのか、そしてなぜそれに執着しているのか、をよく見極めることです。

私の場合、何と代表という役職にこだわり、人から一目置かれることに執着している自分がいました。

早速、それらを手放しましたが、これまで無理に背伸びをしてやっていたことにも気づけたのです。

 

また、過去の自分に執着する原因の一つとして、それを手放した自分に自信が持てず信頼できないことから生じている場合もあります。

そこで自信の持てない自分というものをまず認めて、受け入れることから始めました。

そして弱気になっている自分を、もう一人の自分で抱きしめて「大好きだ」と何度も言って上げるだけで随分と癒されました。