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本や映画などから学ぶ

グッドモーニングショー

 

映画「グッドモーニングショー」を見ました。

数時間の朝のワイドショーに、4時間前から準備作業を開始していましたことと、

たくさんの人たちがそれぞれの部署で綿密に関わっていたことにびっくりしました。

しかも分単位、あるいは秒単位で次々と切り替わっていきます場面設定の連係プレーは、いくら仕事柄とはいえ見事でした。

 

それに対しまして、扱っています話題や題材が視聴者の受けの良い芸能ニュース関係を最優先にされていますので、

作り上がりも限定されたモノで終わってしまい、残念な気がしてなりませんでした。

そこへ事件が発生しましてから状況が一変して、その後の展開に引き込まれて行きました。

 

なぜ、主人公の澄田キャスターが立てこもりの犯人から呼び出されたのか、顔に泥を塗る場面はいったい何なのか、という疑問が出てきます。

ところが、そういったことはわからないまま話が進んで行きますので、目が離せませんでした。

事件の核になります過去の出来事や背景などが、徐々に明らかになって行きます手法は功を奏していました。

 

ところどころに笑ってしまう仕草や勘違いなどのコミックなシーンがはさまれまして、人質事件に伴う緊張を和らげているようでした。

犯人の動機などの真相に近づくにつれまして、ワイドショーのスタッフたちが現場で進行する映像の画面に釘付けになって行きます様子は真に迫っていました。

 

見終わった後はホッと胸をなで下ろしましたが、番組の終了間近に行われました視聴者投票の結果については考えさせられました。

本来は自分の命を人の意見でどうするか、決めるようなものでないはずです。

しかしながら、投票結果の数字を入れ替えましたことで、犯人をはじめ自分たちも救われたと思いました。

 

 

むなしさを味わう

 

山田洋次監督の「隠し剣 鬼の爪」を見ました。ホッとさせるシーンで終わって、その余韻がのこっています。

話の展開にただついて行くのがやっとでしたが、生きていく上で、この時代特有の厳しさというものを感じました。

さすがに侍同士が命をかけて戦う、果し合いの場面は見ごたえがありました…。

 

それにしても後をひく感じの、一種のむなしさは何なのかと思います。

もしむなしさに打ちひしがれているなら、それはそれで十分に味わえばいいという声が聞こえてきそうです。

心の手綱をゆるめれば、あっちにフラフラ、こっちにフラフラとゆれ動くのは、当たり前なのかもしれません。

 

いまのように何とも言いようのない状態にいる自分に気づいたときは、心のどこかにスキがあったかもしれないと反省し、すぐに身の立て直しをはかるべきだと思い立ちます。

そうすると、いつも何かに身構えていなければならないという前提があることになります。

 

いったい何に身構える必要があるのでしょうか。しいて上げれば不用意な情報から身を守ることかもしれません。

心をひらくことへの警告であり、警戒心を呼び起こすねらいなのでしょうか。

この映画が不用意な情報に相当するのか疑問ですが、少なくとも自分の琴線にふれたのは確かです。

 

ところで、身を立て直すとは、崩れかかった身を立て直すということですから、弱さからくる心の痛手を修復することだとも受けとれます。

心身はつねに一体であるということを考えれば、心構えを整えるときにも身を立て直すことから、取りかかるのも納得がいきます。

ようやく、ひとつの時代を描いた映画だと受けとめる用意ができました。

自分に帰る

 

ヘルマン・ヘッセの小説「デミアン」は、「自分に帰れ」ということを伝えたかったのだと思いますが、なぜ自分に帰る必要があるのか、考えてみたいと思います。

 

「デミアン」が書かれた年代では、第一次世界大戦が起こっています。

戦争というものは、いままで生きてきた世界が崩壊したようなショックを人々に与えるのではないでしょうか。

 

著者は、基盤にしていた現実の世界が目の前で崩れ去り、その世界をより所にしていた自分とは、いったい何だったのかという内面の叫びで、何か大きな間違いを自分がして来たことに、はじめて気づかされたのではないかと思うのです。

そして長い神経症とその治癒の解明をへて、人間の本質へとつながる自己探求の道に、活路を見出すことになります。

 

この本で、もうひとつ感銘をうけたのは、主人公ジンクレールにさまざまな指南を与えつづけたデミアンという人物は、実はジンクレール自身であったということです。

自己を導いてくれるのは、自己自身しかいない、という最後のメッセージはとくに印象深いものでした。

 

他にも教えられることが、この本にはたくさんありますが、ここまでで学んだことをまとめてみました。

人間として生まれてきたのは、人生という航海をとおして自分自身に、少しでも近づけるように努力するためであり、人間が人間に完全になることが最終的な目標であるということです。

 

自分が帰るべきところは、自分自身にしかないことを心にきざんで、百パーセント自分自身になることをいつも意識して、これからの半生を生きていくことが大切だということです。

 

 

うとましい道

 

百パーセント自分自身になりきった人間なぞ、いまだかつて存在したためしはない

これは、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」(註)という本の中で語られる言葉です。

この本には精神性を高めてくれる興味深い内容が随所にあり、人生を真に支えてくれる数少ない作品のひとつではないかと思います。

 

この本でもうひとつ紹介したい言葉は、

人間にとって、まったく何がうとましいといって、自分を自分自身に連れて行ってくれる道をたどるほど、うとましいことはないのだ

です。

 

自分自身に連れて行く道とは安易な道のりではなく、様々な葛藤や悩みをくぐり抜け自己探求に取組んで行く道のことではないかと思います。

最後はその道をたどるしかないのはわかっていても、ずっとそれから距離をとっておきたいほど、うとましい道なのです。

 

なぜ、うとましく思うのか。

どこかわからないところへ連れて行かれるのではないかという、不安が心のすみにあるからなのかもしれません。

未知のことに対して、不安になってみたり恐れをいだくというのは、仕方ないことです。

 

自分自身に連れて行ってくれる道に、喜び勇んで歩む気が起こらないのも当たり前といえます。

逃げ出したい心境の自分をなだめすかしながら、うとましい道をたどるように自分を鼓舞していくのが、やっとのことではないでしょうか。

 

この「自分自身に連れて行く」という「自分自身」とは、思い悩む自分とは違い、いっさい迷いのない本来の自分自身のことです。

 

(註:浜川祥枝訳 1963年10月12日初版 中央公論社)

 

 

 

 

自分の時間

 

人にはそれぞれ、その人の時間が流れている

高倉健主演の映画「あなたへ」で語られるメッセージです。

夫婦といえども、お互いをすべて知っているわけではない、だからこそ、迷いが生まれて当然だともいわれます。

 

人にはその人固有の時間が流れているので、他人のことで過度に思いわずらっていると、自分の時間というものをせき止めてしまうことになります。

そうすると、その人は魂の抜け殻のような生き方しかできなくなってしまいます。

 

人にはそれぞれ、自分の時間が流れている

このメッセージは、先立たれた夫への思いで時間が止まっていた洋子に、英二(高倉健)から贈られます。

それを受け取った洋子は、ようやく自分の時間を取り戻すのです。

英二と夫婦となった洋子は、亡くなる前に「さようなら」という言葉だけの遺言を手紙に書いて、英二にさきのメッセージを伝えるのでした。

 

自分の中で流れている時間を、どのように使っていくのか、それを考え、生きて行くことも非常に大切です。

何も考えずに過ごすことも出来るし、一分一秒を大事に使うことも出来ます。

 

一生で与えられる時間は有限です。自分が使える時間は、いつかはなくなり終わってしまう、そのことをつい忘れがちです。

せめて人に喜ばれることや、人の役に立つような何かのために、自分の時間を使い果たして、終えたいものです。

 

 

 

何に尽くすか

 

山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」を見ました。

時は幕末の頃、地方の一介の武士の生き様を描いたものでした。

移り変わり行く時代の狭間で、家族をかかえ困窮の中にありながらも、精一杯に生きて行きます。

しかし武士の身として、いざとなれば命を張って藩に尽くすしか、ほかに道はなく、どうしようもなかったこと、それが痛いほど伝わってきました。

 

どういう時代に生まれたかによって、人はどう生きるかは大体決まって来るように思います。

もし戦時中に生まれていれば、嫌でも戦(いくさ)と関わることになり、限られた選択の中で生きて行くことになります。

また今という時代に生まれてきた場合は、もっと幅広い生き方が可能かもしれません。

でも、この時代が要求する範囲の中でしか、選択が出来ないという点では変わりはないと言えます。

 

結局のところ、人はある時ある場所に偶然に生まれてくるのではないようです。

時代や場所、そしておそらく両親をも、あらかじめ決めて生まれてくるのではないでしょうか。

そう考えないと、限定され違った時代時代に人間として生まれてくる意味が見つからないからです。

 

だから、幕末の混乱の時代にあえて武士の家系で生まれ、戦(いくさ)で命を落としたとしても、侍として忠誠を尽くすことに意味があったのではないかと思うのです。

いま、この時この場所で生まれて来たことを信頼し、この時この場所でしかできないこと、やることがあるはずなのです。

いま自分は何に集中し、尽くして行くべきなのかを問い、それに見合ったことだけに専念する、そういうことだと思いました。

 

全うする

 

「自分は、〇〇しか出来ない!」という言葉は、良くないという意味で使われることが多いように思います。

でも、それしか出来ないということは、それだけは出来ると言っている訳ですから、むしろ喜ばしいことではないでしょうか。

ひとつのことをやり遂げていくということは、それ以外のすべてをあきらめてこそ、はじめて出来ることなのです。

 

専門バカとか、つぶしがきかない奴だとか、いろいろ陰口をたたかれたとしても気にせず、恐れる必要はまったくないといえます。

それしか出来ないところまで達するというのは、とても大変なことであり、全うして行くこと自体なかなか出来るものではないのです。

 

映画「鉄道員(ぽっぽや)」を見ました。

定年退職を目前にした主人公は、鉄道の事しかできないと言いつつ、先のことを心配するより、いまの仕事をともかくも全うしようとするのです。

鉄道はこれからの日本を引っ張っていくのだという父の言葉を、ひたすら信じ、「ぽっぽや」として生きて来た自分に悔いはないと言う。

好き勝手なことばかりやって来たのに、みんな良くしてくれる…自分はホントに幸せ者だと、胸いっぱいにして語るシーンは泣けました。

 

赤字路線の廃止や時代の流れで、あったものが次々と消えていく中で、いつまでも残るものがあるとすれば、それはそこで生きた人間の生き様であり、その思いではないでしょうか。

それがこうして語り継がれ、私たちの思い出として記憶にしっかりと刻まれます。

 

自分自身もそうなのですが、人は何よりも自分の人生を全うしたくて、人の全うした人生やその生き方に感動し、共感するのだと思います。

 

自分を生きる

 

2007年公開の映画「母べえ」を見ました。1940年以降の日本の状況が描かれていました。

言いたいことが言えるというのは、今でこそ当たり前ですが、当時はそれが出来ない世の中であったことがよくわかりました。

 

戦争拡大に走る国策に反する考えを持っているということで、父親が投獄され、その一家を描いた作品でした。

親戚縁者の助けと、獄中からの手紙のやり取りを通して、一家は心を通わせ合うのですが、2年後父親は獄死するのでした。

この映画から学んだこととして、様々な困難や試練に逢おうと、たとえ拘束されたとしても、自分の考えに従って生きる尊さ、大切さでした。

 

戦時中の時代とくらべて、いまは自由で何でも言える世の中ですが、逆に自分を生きることの重要性が見えにくくなっています。

いまの風潮に気を付けていないと、どうしても安易な方向に走ってみたり、利害や損得だけの生き方に流れがちになります。

しかしながら自分を見失う原因を、外に求めてみたり時代のせいにするのもやめなければならないことに気づくのです。

 

どんな世の中になっても、自分の中に変わらぬ芯になるものを持ち続ける、それを生きる、このことだったのです。

それは絶対に譲れない自分の考え、価値観、あるいは信念といえるものかもしれません。