「人生を描く」カテゴリーアーカイブ

想像力を限界まで駆使する

委ねる生き方

 

以前ほどではないにしましても、まだ思う通りに行かないと滅入り、常に身を守ろうとしますのは、どうしてなのでありましょうか。

それはすべて、積もり積もった過去の体験に基づく学習の結果なのでした。そこまで気がついていなかっただけでした。

 

自分がこうなのはある面で仕方がなく、そのまま受け入れて行くしかないのです。

だからといって、こうありたいという望みも持てないほど可能性がないとは思えません。

 

確かに過去のカルマの蓄積によって今の自分があるのですが、本質の部分では完全無欠でありますのに変わりはないはずです。

そうした体験をしているだけだと、気づくことができたのですから、これからは違った体験を選んで行けばよいと思いました。

 

今、個人的な事柄で生きますことから、徐々にほんとうの自分に委ねる生き方へ持って行く意図を持っています。

どこまでも自分を主張し守ろうとします自我の声に耳を貸すことをやめて、内面から発して来ますもうひとつの声に従って生きて行くのです。

 

自分ひとりの力はごく限られていますから、もうひとりの自分とやって行きますほうが最善に違いないのです。

ここまでやって来られましたのも、そのお陰でもありました。少しは客観的に、自分や物事を見られるようになったばかりです。

 

 

世界観を見直す

 

卓越した人というのは、この現実世界が仮の姿を映し出しているに過ぎぬこと、私たちが本質的にひとつの生命体でありますのを見抜いておられるのでしょう。

ですから、あらゆるものに執着する理由もなくなったのではないでしょうか。

 

社会が変わるには人間が変わらなければなりません。それには自分がいかに変わらなければならないのかを熟知するに至ったのだと思います。

それからというもの全身全霊で自分に取り組まれて、いま、まさにその途上におられるわけです。

 

自分が変わるとは、どういう意味でしょうか。

ひとつには、これまでの世界に対する見方や考え方を徹底して見直し、自分の本質からかけ離れた個人的なことはすべて破棄されて行かれたのでしょう。

もし仮に人から身に覚えのない仕打ちを受けたとしましても、やり返そうとしたり反駁したりするのではなく、その人がどのような意図を持って行ったのかを知ろうとするのです。

 

その上で受け流すか、あるいは何らかの対処が必要としましたら、効果的なやり方で善処されますでしょう。

どんな動機で人は行動しがちなのかを知り尽くし、行動パターンも見えていますので、前もって手を打ちますのも容易でありましょう。

 

自分本位の人の動機は、ほとんどが他者からの攻撃に対する恐れによるもので、衝動的な行動や防衛反応としての行動に終始しています。

自己本位の考え方を改めない限り、自ら作り上げました罠から抜け出せないのに気づかなければなりません。

 

 

みんなの幸せ

 

今の社会は私利私欲を、最優先にしますのが主流になっているように思います。

誰もが幸せであるとは言いがたい状況にありまして、ことの本質は非常に見えにくくなっています。

 

この閉塞しました状態を打開しますには、みんなの幸せを第一に考えます生き方が、人々の 間にどれだけ浸透して行くかにかかっていると言えます。

その生き方が自己を救済する唯一の道でもありますことを、どうしましたら理解できるのでしょうか。

 

人の苦しみは、自分の苦しみでありますことを、どのようにしたらわかるのでしょうか。

自分と他人という枠をどうしましたら、はずせるのでありましょうか。

まずは、自分とは何であるかを明確につかんでおかなければならないでしょう。

 

なぜ、霊的に進化しました人は個人的な意志を持たずに、全体への奉仕に余念がないのでしょうか。

自分は何であって、何のために生まれてきたのかをはっきりと自覚していますのは明らかです。

 

だからこそ、一切の迷いもなく一途に正しいと信じる道を堅実に歩むことが可能なのでしょう。

そこへ至るまでに、どのようなプロセスを踏まれて来られたのでしょうか。一足飛びに進化されたとは、とても思えません。

 

何をどのようにして考え抜き、どんな修行をどのように積まれましたのか。

見習って行けるかどうかは、その点をどこまで理解できるかどうかによると思われます。

 

 

距離をおく重要性

 

テレビを見る人たちというのは、おそらく何か面白いことはないだろうかと興味本位に見ていますのが大半なのでしょう。

その証拠に、視聴者に対するアンケート内容を見ますと、いわばどうでも良いような質問がほとんどでありまして、制作側も十分に心得ていますのが読み取れます。

 

そんな中で突然、視聴者に場違いと思われます理性に訴えかけるような投票を行いましても、面白半分で選ばれる結果になりますのはむしろ当然でありました。

ですから、あの緊急の場においては、そうした結果を修正しなくてはならなかったのでしょう。

取り返しのつかない事態を招くのは必至でありましたから、そのまま取り上げることが出来なかったのです。

 

今のテレビは面白おかしい番組が多くて、自分は何もせずにただ座って見るだけで、何時間でも退屈せずに過ごせるようになりました。

楽しければそれだけでいいというのでありましたら、テレビは打って付けかもしれません。

 

しかし、テレビを見るほかにすることのない人に申し上げたいのは、自分がテレビ依存症になっていないか注意して欲しいです。

スマホの依存症にも当てはまりますが、どこがいけないのかと言いますと、

それらに頼り切ることで、自分は考えなくても済んでしまうからです。思考停止の状態が日常化してしまうのです。

 

だんだん自分で考えるのが面倒になって来まして、ついには自分で物事を考えられなくなって、あやつり人形のようになる危険性があります。

テレビを見ない日を決めてみたり、一日に○時間だけしか見ないようにしたりして、テレビと少し距離をおきますのが重要です。

 

 

体験を観察する目

 

日々の生活とは、まさに大小さまざまな体験の連続ではないでしょうか。

その際に大切なことは、体験しました中から情報をどれだけ拾い出せますかどうかです。

それと新たに思うところがありますなら奮ってその体験に乗り出してみますチャレンジ精神ではないでしょうか。

 

少なくとも、決まり切った生活パターンに埋没してしまわないように普段から注意していなければなりません。

具体的にどうして行けば良いでしょうか。ひとつには、ときどき立ち止まって自分の行動を振り返りまして、じっくりと観察してみます。

 

日にひとつぐらい、新しい何かをやってみますとか、やり方を少し変えてみてはどうでしょうか。

例えば、興味のあります本を読み始めましたり、部屋の模様替えをしましたり、初めてのお店や場所を訪れたりしてみます。

そこで大事なのは、そうした新たな体験をしていますときの気分を思う存分に味わい、どんな感情に自分が包まれているかに気づいていますことです。

 

さらに、五感のそれぞれを働かせまして、体験していますことから吸収できますものは何でも受けとめてみます。

まるでこのときが永遠のように感じられましたり、知らなかった自分の能力の一部を垣間見まして驚いたりするかもしれません。

こういうとき、意識も新たにすることが出来ます。

体験する者

 

自分はあくまでも体験する者でありまして、体験そのものが自分であるかのように思いますのを止めなければなりません。

もし何かに失敗したとしましたら、失敗とはどういうものかを体験できます失敗者の役を、自分が演じていたのでありまして、演じた自分が失敗者だと思い込みますのは間違っているのです。

 

それはちょうど自分の考え出したアイデアを、自分そのものだと思い込んで有頂天になりますのと何ら変わらず、まったく馬鹿げております。

とにかく、いま行っていますどんなことも、そして生きていますこと自体が、すべて体験をいたすためでありますことを片時も忘れてはならないのです。

 

それにしてもなぜ、こんな風に注意しなければならなくなってしまったのでしょうか。

ひとつには、学校での成績表による序列分けにすっかり慣らされて来ましたからでありましょう。

自分とは成績通りの人間に過ぎない、と思い込み続けてきたのです。

 

成績表は、これまでの努力の成果を示す単なる指標に過ぎませんのに、成績で自分を評価されまして育って来たのであります。

役者さんが演じた役そのものと同じでないように、どんな成績を取ったとしましてもその成績が自分でありますわけがありません。

そこをはっきり区別して行きます必要があります。

どんな体験をいたしましても、その体験を自分と同一視してはならないのです。

 

 

譲れない願望

 

普段から、どうあって欲しいのかをもっと鮮明に描きまして、持ち続けていますことがとても大事ではないかと思います。

何も持っていませんと突然、望んでいない状況に出合いましたとき、適切な対応がとっさに出来ないからです。

 

どんな人にも、こうであって欲しいと言う願いが、必ずやあるに違いないのです。

ただ、それを心の奥深くにしまい込んでいますので、意識しないで何も望みがないかのように毎日を過ごしています。

 

なぜ自分の願いを奥に引っ込めてしまっているのでしょうか。

ひとつは小さい頃、人に言いましてバカにされた経験がありましたからでしょう。

人から自分の願い事を酷評されて育ちましたので、二度と口にするまいと決めてしまったのではないでしょうか。

 

もうひとつは、社会に出ましてから自分の無力さをさんざん思い知らされ、痛手をこうむったからかもしれません。

容易に自信が持てない表れとしまして、願いをいだいたり夢を描いたりしなくなって来ましたように思います。

 

しかし実は、自分の持って生まれた本領を発揮しますのは、一度打ちのめされました後なのです。

ご破算にされて否定されましてもなお、これはというものが浮かび上がってまいります。

 

本心からにじみ出ました願いは、そうやすやすと葬られますことはあり得ないのです。

自分に嘘をつかない限りは、ある段階から立ち直って行けるものです。

これだけはどうしても譲れない、そういう願望を自分の中でもっと大きく取り上げて、養って行きます必要があると思うのです。

 

 

思いが現実になる

 

朝、荷物を配達し終えました帰り道、左折しようと曲がり始めましたとき、向こうから来ました車と、もう少しでぶつかるところをストップしました。

相手の運転手は怖い顔をして文句を言っていました。

それからバックし出しましたので、その横を通って進みましたが、なおも怒りをあらわにして怒鳴っている様子でした。

 

出会い頭での出来事でしたので、どちらが悪いとかは決められませんのに、どうしてあの人はあんなにも腹を立てていたのでしょうか。

たまっていました欲求不満を爆発させましたのかもしれません。

 

よく考えてみますと、自分にも身に覚えがありますので、相手の言動をとやかく言う立場にはありません。

でも、あの人はなぜあんなに怒っていたのだろうかと不思議に思ったことが、今までになかったでしょうか。

 

ムシャクシャした気持ちを持っていますと、それを逆なでしますような事態に遭遇するものであります。

また、何気なく思っていますことが、たちどころに現実となりますケースは意外と多いのではないでしょうか。

 

たとえば、目の前の信号が赤になるかもしれないと思って進みますと、その通りになってストップしましたのは一度や二度ではありません。

起こってほしいことよりも、起こってほしくない状況を考えてしまうのが常でありまして、そこに問題がありそうです。

 

起こってほしいことだけを思うように心がけておりますと、たいていはその通りになりますから面白いです。