「人生を描く」カテゴリーアーカイブ

想像力を限界まで駆使する

体験する者

 

自分はあくまでも体験する者でありまして、体験そのものが自分であるかのように思いますのを止めなければなりません。

もし何かに失敗したとしましたら、失敗とはどういうものかを体験できます失敗者の役を、自分が演じていたのでありまして、演じた自分が失敗者だと思い込みますのは間違っているのです。

 

それはちょうど自分の考え出したアイデアを、自分そのものだと思い込んで有頂天になりますのと何ら変わらず、まったく馬鹿げております。

とにかく、いま行っていますどんなことも、そして生きていますこと自体が、すべて体験をいたすためでありますことを片時も忘れてはならないのです。

 

それにしてもなぜ、こんな風に注意しなければならなくなってしまったのでしょうか。

ひとつには、学校での成績表による序列分けにすっかり慣らされて来ましたからでありましょう。

自分とは成績通りの人間に過ぎない、と思い込み続けてきたのです。

 

成績表は、これまでの努力の成果を示す単なる指標に過ぎませんのに、成績で自分を評価されまして育って来たのであります。

役者さんが演じた役そのものと同じでないように、どんな成績を取ったとしましてもその成績が自分でありますわけがありません。

そこをはっきり区別して行きます必要があります。

どんな体験をいたしましても、その体験を自分と同一視してはならないのです。

 

 

譲れない願望

 

普段から、どうあって欲しいのかをもっと鮮明に描きまして、持ち続けていますことがとても大事ではないかと思います。

何も持っていませんと突然、望んでいない状況に出合いましたとき、適切な対応がとっさに出来ないからです。

 

どんな人にも、こうであって欲しいと言う願いが、必ずやあるに違いないのです。

ただ、それを心の奥深くにしまい込んでいますので、意識しないで何も望みがないかのように毎日を過ごしています。

 

なぜ自分の願いを奥に引っ込めてしまっているのでしょうか。

ひとつは小さい頃、人に言いましてバカにされた経験がありましたからでしょう。

人から自分の願い事を酷評されて育ちましたので、二度と口にするまいと決めてしまったのではないでしょうか。

 

もうひとつは、社会に出ましてから自分の無力さをさんざん思い知らされ、痛手をこうむったからかもしれません。

容易に自信が持てない表れとしまして、願いをいだいたり夢を描いたりしなくなって来ましたように思います。

 

しかし実は、自分の持って生まれた本領を発揮しますのは、一度打ちのめされました後なのです。

ご破算にされて否定されましてもなお、これはというものが浮かび上がってまいります。

 

本心からにじみ出ました願いは、そうやすやすと葬られますことはあり得ないのです。

自分に嘘をつかない限りは、ある段階から立ち直って行けるものです。

これだけはどうしても譲れない、そういう願望を自分の中でもっと大きく取り上げて、養って行きます必要があると思うのです。

 

 

思いが現実になる

 

朝、荷物を配達し終えました帰り道、左折しようと曲がり始めましたとき、向こうから来ました車と、もう少しでぶつかるところをストップしました。

相手の運転手は怖い顔をして文句を言っていました。

それからバックし出しましたので、その横を通って進みましたが、なおも怒りをあらわにして怒鳴っている様子でした。

 

出会い頭での出来事でしたので、どちらが悪いとかは決められませんのに、どうしてあの人はあんなにも腹を立てていたのでしょうか。

たまっていました欲求不満を爆発させましたのかもしれません。

 

よく考えてみますと、自分にも身に覚えがありますので、相手の言動をとやかく言う立場にはありません。

でも、あの人はなぜあんなに怒っていたのだろうかと不思議に思ったことが、今までになかったでしょうか。

 

ムシャクシャした気持ちを持っていますと、それを逆なでしますような事態に遭遇するものであります。

また、何気なく思っていますことが、たちどころに現実となりますケースは意外と多いのではないでしょうか。

 

たとえば、目の前の信号が赤になるかもしれないと思って進みますと、その通りになってストップしましたのは一度や二度ではありません。

起こってほしいことよりも、起こってほしくない状況を考えてしまうのが常でありまして、そこに問題がありそうです。

 

起こってほしいことだけを思うように心がけておりますと、たいていはその通りになりますから面白いです。

 

 

心を開くことから

 

人の身に何が起きましょうとも、それはその人の問題で、自分には関係がないと思いたい気持ちから、知らない振りをしてしまうのではないでしょうか。

どうして、このように考えるようになってしまったのでしょうか。

 

スマホや24時間営業の店などの出現によりまして家族間のコミュニケーションする機会が減りました。

交通の発達によって、地域でのつながりも薄れて来ております。

また、核家族化によりまして先祖とのつながりも希薄になっていますのが、今の状況であります。

 

地域で、お互い助け合って乗り越えて来たこともなければ、一緒になって苦労して作り上げたという経験も見当たりません。

おじいちゃんやおばあちゃんから、どんな家系の家で生まれ育ったのかという話も聞いたことがないのです。

こうして、人とのつながりを強く感じます機会がほとんどなくなりましたのが、主な原因ではないでしょうか。

 

つながり自体は昔も今も変わらずにつながっていますが、自分がそれをどれほど感じ取れていますかどうかが問題なのです。

人とのつながりを取り戻して行かなくてはならないすのは、あくまでも自分の方なのです。

 

つながりに気づき、それを実感しますのが、なぜそれほど重要なのでしょうか。

たとえば、自分ひとりでは解決できない困難な問題にぶつかったとき、どう対処できますでしょうか。

もし周りとのつながりもなく孤立感に包まれていました場合、助けを誰かに求めたり相談したりすることさえ思い浮かばないでしょう。

悶々と独りで悩んだ末に、絶望におちいってしまうしかないでしょう。

 

では、どのようにしてつながりを取り戻して行きますれば、よろしいのでしょうか。

考え方を百八十度、変えてみましてはどうでしょうか。

人に何が起きましたときは、それは自分にも大いに関係があると考えますから、何とかして関わりを持とうとします。

そして、一緒になってその事実を突き詰めて行こうと、積極的に相手を受け入れまして心が開きますことで、つながりを実感できます。

 

 

つながりを取り戻す

 

ある面で今の社会は、私たち一人一人をまず分断させておいて生き延び、そして孤立させまして繁栄を誇っていますように見えてしまいます。

かつて小さい頃、周りにいますのは、ほとんどが顔見知りの人たちばかりでした。

 

両親だけでなく、そういう人たちからも怒られたりほめられたりして育って来ました。

隣近所はお互いに助け合うというのも普通でありました。それが今はどうでしょうか。

 

子どもの数が減りましたからでもありますが、外で遊ぶ機会が少なくなって、隣近所もあまり知らない人たちばかりです。

たまたまそういう人と出会いましても、お互いによそよそしく接してしまいがちです。

アパートやマンションなどでは隣同士で挨拶したり話したりはおろか、顔さえ知らないのが普通になっています。

 

家庭も核家族が増えましてお年寄りの知恵は途絶え、同居によって年長者が果たして来た役割は失われました。

また、共稼ぎが当たり前になり生活面で気楽であります反面、子育てなどで相談相手がいなくて一人で悩みをかかえ込む結果になりました。

その一方で、三世代同居の時代では考えられなかった老後の問題がのしかかって来ます。

 

小世帯が増えて行きますと、住宅や生活必要物資などの需要が伸びて各企業は潤います。

老人世帯が多くなりますと、民間の医療や介護サービスの充実が一層求められて来ます。

 

普段、人の身に起こりましたことは、他人事だとしてつい見過ごしてしまい、自分に降りかかって来てから大あわていたしますのが常であります。

人のことを自分ごとと思えない、対岸の火事してとらえてしまう、その理由は何でありましょうか。

 

 

最高の人間

 

人間に与えられた役割とは何なのか、自分個人のことを考える以前に、誰もが一度は問い返したことがあるのではないでしょうか。

自由気ままに振る舞っていいのだろうか、決してそうでないことを、人は心の奥底では知っているのだと思います。

 

だから、やりたい放題のことをやっている人を見ると、あの人は間違っていると思うのです。

好き勝手に自分がやっているときには、それになかなか気づかないもので、人から言われてハッと気がつくものです。

 

人間には、やっていいことといけないことの節度をわきまえる能力が最初から備わっているものだと思います。

それなのになぜ、そこから逸脱してしまうのか、とても不思議なことだと思ってしまいます。

おそらく、それは自由意志というものをはき違えているからなのでしょう。

 

ある意味では確かに他の生物とくらべて、人間に与えられている自由の度合いは格段に大きいものがあります。

それをいいことにして人間は何をしてもいいのだ、という思い上がった考えが芽生えるのかもしれません。

 

人間にしかできない、あることをやり遂げるために自由ないし自由意志というものがあるのだと気づくべきでしょう。

しかし、自由意志といえども無制限に許されるわけではないはずです。この自由意志とは、何なのでしょうか。

 

仮に、どんな強制があったとしても最終的に、自分が行う「選択の自由」のことではないかと思うのです。

地上のあらゆる生物の頂点に立つ人類は、ある重大な役割を担っていることだけは確かです。

個人個人の役割というものはすべて、この人類に課せられた役割の延長線上にあるものだと言えます。

 

もし延長線上になければ、それはその人の自己満足でしかないものです。自己満足のどこがいけないのか。

人生を単なる自己満足だけで、終わっていいのかどうかを自分に問いかければわかることです。

 

人間に与えられた役割とは、いったい何なのでしょうか。いまの段階で言えることは、考えられる最高の人間になる、ことではないかと思います。

 

 

自分の時間

 

人にはそれぞれ、その人の時間が流れている

高倉健主演の映画「あなたへ」で語られるメッセージです。

夫婦といえども、お互いをすべて知っているわけではない、だからこそ、迷いが生まれて当然だともいわれます。

 

人にはその人固有の時間が流れているので、他人のことで過度に思いわずらっていると、自分の時間というものをせき止めてしまうことになります。

そうすると、その人は魂の抜け殻のような生き方しかできなくなってしまいます。

 

人にはそれぞれ、自分の時間が流れている

このメッセージは、先立たれた夫への思いで時間が止まっていた洋子に、英二(高倉健)から贈られます。

それを受け取った洋子は、ようやく自分の時間を取り戻すのです。

英二と夫婦となった洋子は、亡くなる前に「さようなら」という言葉だけの遺言を手紙に書いて、英二にさきのメッセージを伝えるのでした。

 

自分の中で流れている時間を、どのように使っていくのか、それを考え、生きて行くことも非常に大切です。

何も考えずに過ごすことも出来るし、一分一秒を大事に使うことも出来ます。

 

一生で与えられる時間は有限です。自分が使える時間は、いつかはなくなり終わってしまう、そのことをつい忘れがちです。

せめて人に喜ばれることや、人の役に立つような何かのために、自分の時間を使い果たして、終えたいものです。

 

 

 

与える生き方

 

欲望に走ることをやめ、個人的な意志を手放していく

これは私の方針のひとつなのですが、なかなかその通りに実行できずにいます。

 

なぜ欲望に走ることをやめるのかというと、いつまでも小さな自分の世界に閉じこもる元凶になっていることです。

個人的な意志を手放していくのは、どうしてなのか。

個人的なことに時間を費やすことで、独りよがりな性格を助長しており、全体の中の自分だということをすっかり忘れてしまっているからです。

そのことを思い出すためには、いったん個人的な意志を手放すことが重要だと気づいたのです。

 

限定された個人という範囲だけで物事を考え、得ることばかりに注意を向けていました。

だから今度は分かち合うということで個人という枠を外していく必要があるのです。

 

これまで何かが足りないという思いに突き動かされ、その何かを得ようといつも周囲を伺いながら生きて来たように思います。

ほんとうは十分に満ち足りていることをまず知ること。そして奪うのではなく与える側に身を置き、状況を変えて行こうとしています。

 

具体的に何をどのように変えて行けばいいのか、それがいま取り組むべき課題です。

そのひとつの取り組みとして始めていることが、このブログの更新です。毎日重点的に発信して行くことにしたのです。