「人生を描く」カテゴリーアーカイブ

想像力を限界まで駆使する

そのように生きる

 

元々完璧であり満たされている存在にとりましては、完璧であるとはどういうことなのか、満たされるとはどのようなことなのか、わかりようがありませんでした。

そうでない状態を体験してみない限り、理解することはできなかったのです。

 

体験的に知るためには、完璧で満たされているのを完全に忘れて、完璧ではなく満たされない自分を充分に経験する必要があったのです。

いま、まさにそのような状況を体験し尽くしているところだと言えます。

 

完璧で満たされた本当の自分を失ったわけではなくて、ずっと一緒であったのに気づくのです。

全幅の信頼をもって内なる魂と接触をはかり、その声に従って生きて行かなくてはなりません。

 

だからと言って、すぐに接触できるものではありません。できますのは望みを明瞭な形にして、それを黙想を通じて意図するのです。

 

 

役割を自覚する

 

ある本を読んでいましたら、10ものグループそれぞれの役割について事細やかに、周到に書かれておりました。

大きなことを成す目的で各専門のグループが集まり、分担して取りかかる例を挙げられていました。

 

人間一人ひとりが持てる最大限の力を出し切れる、そうした人たちがグループとしてやり遂げるのです。

さらに、そんなグループが連携し合い、束になって成し得ることは計り知れないものがあります。

 

しかし、それさえも全体のごく一部分であると考えますと、その先はもう想像を絶する規模へと発展して行くであろうと憶測できるだけです。

この宇宙のミクロの世界からマクロの世界まで、数多く存在します全てのものには、それぞれに託された役割というものがあります。

また、それを唯一果たすために存在していると言えます。どれもが全体の一部を担って、支え合っているのです。

 

全体の中の各構成員は、本来そういう重要な役目を受け持っていますのを重々自覚していて当然なのです。

ですから、自分の担っていますことは何であるのかを認識して、生まれて来た理由でもありますその使命を、いまこそ果たして行かなくてはならないのです。

 

 

思い出せばいい

 

この人生での体験というものは、それこそ無限に広がる様々な体験の一つに過ぎないということです。

だからといって、いい加減に人生をやり過ごすのは愚かなことです。

ただ、どんな体験であれ、それに執着し過ぎないように注意しなければなりません。

 

太田龍、デーヴィッド・アイク両著の「2人だけが知っている世界の秘密」を読んでいます。

第5章のレプティリアンの精神的監獄から抜け出す方法のなかで、「私たちは人間ではなくて、無限の認識であってすべての可能性」であると述べられています。

 

人間として体験していますけれども、本来は認識する存在そのものが自分なのであります。

すべての可能性であり、全知の存在であるのをただ思い出すだけで充分であって、新たに学んで完全無欠になる必要はないと言われます。

この言葉には、とても響くものがあります。

 

それでは、忘れてしまったのを思い出しますには、どうすればいいのでしょうか。

そこがいちばん大事なように思われます。

思い出すための、きっかけとなるような言葉やイメージを見つけ出せば、何かを思い出せるのではないかと思っています。

 

 

可能性に挑む

 

人間はひとりで生きられないと言われますと、自分には何か欠陥があって限界があるように思ってしまいます。そこから見直していかなければなりません。

 

ひとりで生きる必要はまったくなくて、それにみんなで一つなのだと認めれば何も問題はないことがわかります。

自分を制限します思い込みを何もかも手放して、新たな可能性に挑むときのようです。

 

元々一番知りたいと思っていますのが、自分は何者であって、どんな役割を担うために生まれて来たのかです。

それについて少しのあいだ考えてみましても答えは出てきませんので、もうそれ以上は考えようとしませんでした。

あるいは適当なところで考えを打ち切ってしまい、根本的な問いかけを忘れ去ろうとして来たのです。

 

ですから何かの拍子にその問いが頭をもたげて来て、その度に大事な何かを思い出そうとするのでした。

本などで、あなたにはこういう使命がありますというような文言を目にしますと、すぐ自分もそうかもしれないと真に受けたことが幾度もありました。

どうしても、それに関連しました内容に引きつけられてしまうのでした。

 

今を生きていますこの時代で、すべてが地球的規模で大きく変わろうとしていますのを感じます。

琴線に触れるものに出会いますのも、この時期でしかないように思われるのです。そうしたサインを見逃さないように過ごしています。

 

 

信頼する人生

 

もっと意識してまわりに信頼を寄せてもいいのではないかと思っています。

こんなことまで頼んではいけないなどと、いつも遠慮し心配しすぎておりました。

 

人生が与えてくれます機会を100パーセント信頼して、身を委ねる気持ちを大きく持ちますのが大切なのです。

どうあって欲しいのかを、もっとはっきりとした上で、それを注文すればよいのです。

 

何が望みなのかを明確に宣言しますのを、これから実践して行けばいいのです。

みんなの幸せを願い、奉仕しますことを意図します。

どうすれば喜んでもらえるか、それについていつも思考をめぐらし、出てきたアイデアはすぐ形に表して行きますのを意図します。

 

このブログにおきましては、新たな気づきや発見しました内容などをどしどし書き込んでいけますように望みます。

驚きと感動を与えますような作品が、次々と生まれますのを望みます。

潜在的な能力がいくつも開花しまして、この人生において思う存分に活用できますのを意図します。

 

世界からあらゆる不幸な出来事が徐々になくなり、分かち合いと調和を重視します気運が急速に広がって行きます。

地球上のすべてにとって、考えられないほど素晴らしい時代がもうすぐ訪れます。

 

 

自分と取り組む

 

抗しがたい宿命的な要素を数多く意識の面で、あるいは細胞レベルにおいて背負っていますのは重々承知しております。

にもかかわらず、この小さき自分としましては、内側から発せられます何らかの意図をできるだけ明確にとらえまして、

それを日常の心構えとして持ち続けられましたら、いまとはまた違った生活が展開して行きますような気がするのです

 

いかにして内なる声を聞き取り、その通りに実行しますのかが重要になって来ます。

その声は、よほどのことがない限り向こうからやって来ることはなく、こちらから投げかけた内容に対して、返答に相当しますものが返ってくるだけなのです。

 

いま抱えています問いは、みんなの幸せを考え、全体の幸福を祈願し続けますには、どのようであればいいのかです。

そして最終的には、ほんとうの自分と常時つながるという意図があります。

なぜ、全体の幸福を求めるのでしょうか。それが真の自分の願いでありまして、いまの世界はみんなが幸福ではないからです。

 

それでは、自分はどうありましたらいいのでしょうか。みんなの幸せだけを願い、無私無欲で、いま出来ます事柄を全身全霊でやりますのに尽きるようなのです。

①望みだけを描き続け、②私利私欲を捨てて、③やるべきことに集中いたすことです。

 

 

個別から全体へ

 

車を運転しているときなどは普通、自分の身を守る必要がありますから、どうしても個別意識が前面に出て来ます。

意識して「今、愛と共に運転をやっているんだ」と何度も自分に言い聞かせていますと、個別意識から離れていられるように思います。

これに慣れて来きましたら、そんなに努力しなくても済むかも知れません。

 

昨日、一年ぶりに空の駅のバイキング・レストランで食事をしました。

開店時間まで並んで待っているとき、前の人と初対面ですのに会話を交わしていました。

テーブルの各料理を取ります際の順番待ちにおきましても、前の方が長くて待たされましても平気でした。

 

今までの自分でしたら、確実にイライラしていましたのに驚きでありました。

みんなのことを思うように心がけていますだけで、こんな風にも違って来ますのは、どういうことなのでしょうか。

 

全体を思う意識こそが、本来あるべき意識なのかもしれません。

いたわりや優しさ、思いやりなどの気持ちも元来、自然に出てきます気質と言えますでしょう。

しかし個別の意識下にありますと、それらも脇に押しやられてしまうようです。

 

人と競ったり争ったりしますのは、対立を要する個別意識のなせる技ではないでしょうか。

世界で、国同士での争いや国内紛争などが絶えなかったのは、分離の方向へ向かわせる個別意識が人々に蔓延していましたからでしょう。

今や、ひとりひとりが全体意識に目覚めて行きます時代に入ったように感じています。

 

 

害を与えない選択

 

周りの人や自分自身に有形無形の害を与えていますのは、個別の意識のときだと思います。

車を運転中、ゆっくり前を走っている車にイライラしますのも、無理に横から入って来た車に腹を立てたりしますのも、自分が個別意識の状態にあるときです。

 

もっとも普段の生活では100%近く、この意識で過ごして来ましたから、取り立てて指摘するまでもないのかもしれません。

ただ問題として、この意識があまりに強く作用し過ぎまして個人的な面で、あるいは社会の様々なところでトラブルが発生していますのが現実だという点です。

 

成長初期の段階においては、自己を確立しますために他者というものを識別し分離する必要上、個別意識に頼るほかはなかったのでしょう。

幼少の頃からそのようにして育ち、大人になったわけです。

 

そして今度は再び、自我という枠組みを取っ払って行きまして全体の中の一部に帰るべく、全体の意識を取り戻して行くときを迎えていますように思います。

その手始めとしまして、相手や自分にいかなる害も与えない生き方を、意識して選択するように決めたのです。

 

なるべく個別意識から離れて自他の区別を薄めて行き、一体感を思い出すようにします。

例えば、自然に触れる機会を持ったり、ぼんやりとしてでも地球規模のことを思ったりしてみるのです。