「あきらめない」カテゴリーアーカイブ

継続は力なり

1日の積み重ね

 

たった1日の、積み重ねることの重みをいま、ひしひしと感じています。

早朝パンを焼くことから始まって、コップ一杯の飲尿。夕方のラジオ体操、チベット体操、真向法を行い、入浴時の尿塗布を欠かさずやっています。

 

そして今年3月から独学でギター練習が加わりました。

教本はDVDとCD付き、監修斉藤松男さんの「はじめてのクラシック・ギター」です。

いま和音の練習曲をやっているところです。

最初、この曲と向き合ったとき、こんな難しいのを弾くのは無理じゃないかと思ったものです。

しかし毎日、ゆっくりと少しずつ練習して行くにつれて、難しいと思っていた伴奏つきの曲が、ずっと身近に感じるようになりました。

積み重ねる意味を改めてここで教えてもらったのです。

 

健康面での積み重ねは、特に重要視しなければならないと思います。

どんなことを積み重ねるかで、結果に大きな違いが出て来るからです。

食べすぎや偏食などを繰り返したりすると、身体に致命的な結果を招くし、少食やバランスよく食することを心がけていれば、快食快便につながります。

また日ごろから軽い運動を積み重ねるようにしていると、身体の硬化を防いてくれるように思うのです。

続けるには少しずつ、というのがとても大事なことだと思っています。

 

 

欲望を減らす

 

例えば、車を運転中は、次の信号は青になってくれとか、青のままでいてくれなどと、思っている自分がいました。

またあるときは、前の車はもっと早く走るべきなんだとか、あの車は自分が通るまで待っているべきだとか、自分勝手に思っているのです。

 

これらはすべて、ほんの些細な欲望なのかもしれませんが、小さいからこそ質が悪いことに気がつき始めました。

心の隅には、こうした些細な欲望がひしめきあって、そのおしゃべりを絶えず聞かされているのです。

主人であるはずの自分は、いつもそうした欲望に突き動かされ、無意識にそれに従っているのです。

 

欲望それ自体は別に悪いわけでなく、来ては去って行くだけのものに過ぎず、それに執着しなければいずれ消えてなくなります。

 

そのことに気づいてから運転中は、自分勝手な願望は手放して、信号が青でおれば進むし、赤や黄色であれば止まることにしました。

また人の運転についても、とやかく言うことをやめ、目の前で展開していくままを受け入れて運転するように心がけています。

 

すべてをなくそうとするのではなく、気づいたひとつひとつの欲望から手放していく。その第一歩を踏み出したばかりです。

欲望に走ることをやめて、個人的な意志を手放していく。これがこれからの課題です。

 

 

許して、優しく接しよう

 

仮に人から小言を言われたり、あるいは何か気にさわることをされたとしたら、どうしますか?

ここで許すことを学べるチャンスだと、思ったらどうでしょうか。

 

そもそも、なぜ許さなくてはいけないのでしょう?

その理由というのは、しごく簡単なことなんです。

自分も含めて人は一つの見方しか出来ず、限られた中でしか物事を考えられないからです。

だから、どんなに頑張ったとしても、相手と自分はどっこいどっこいなのです。

 

人からどんなに理不尽なことだをされたと思っていても、自分もそうしたことをやって来なかったとは言えないものです。

感覚器官というものは、一方的な見方、考え方しかできないことを認めなくてはいけないのです。

ある人の見方は、自分の見方からすれば違っていて当然だということに、気づいてほしいです。

もしも多種多様な見方や考え方ができれば、どんなことも一理あることを認めるのは簡単なことです。

 

一つの見方や考え方しかできないが故に怒ったり、別の見方や考え方を認めることができないのです。

そんな自分をまず許すことから、始めてみてはどうでしょう。

それができれば、相手を許すことはもっと簡単にできるはずです。

 

この世界だけでも、様々な見方や考え方をする人たちがいること、その意味に気づくことです。

そうすれば特定の見方、考え方で生きている一人一人に、優しく接することも難しくはないでしょう。

 

 

裁くことを慎む

 

「何があっても裁かない」を実践する難しさを、改めて実感する機会がありました。

相手のちょっとしたことに「こうしたらどう?」と言うのも、広い意味では裁いていることになるのです。

 

昨日、娘が旅行から帰って来て、荷物が玄関脇に置いたままになっていたので、言い放ったのです。

「荷物をさっさと片付けたら、どう!」と。

 

理想は、そうした状態をも許すことでした。

それが私の本来、取るべき態度であったのです。

後になって、そのことに氣づく自分でした。

 

もちろん普通に考えれば親の勤めとして、片付けるように言うのは何も間違ってはいません。

 

しかしこの場合、躾(しつけ)には当てはまらないのです。

相手がやるべきだと思うことを、相手がやっていなかったので、そのことを裁いていたのです。

だから、私はやってしまったと思ったわけです。

 

どうしてこうも簡単に、相手を裁いてしまうのでしょうか?

その衝動は、自分でも氣がついていないほど、心の奥深くに根付いているとも言われています。

 

考えて見れば、これまでに人からさんざん「許しはしないぞ」と言われ続けて来た経緯があります。

何度もそう言われている内に、自分でも自分を許せなくなってしまうものです。

 

そして自分を許せないことの結果を、そのまま相手にも投影させてしまうのです。

それで人のことをも許せなくなって「許しはしないぞ」となるのです。

 

この悪循環を断ち切るのは、「許し」だけなのです。

いま何があっても許すことに挑戦しているのも、そのためでもあるのです。

 

 

ある体験の総括

 

15年以上、長として務めていた組織が解散してから、人との関わる機会が減ったことに氣づきます。

しかし今というときは、つぎの段階に進むためのものだと感じています。

 

ここで区切りとして、これまでの体験を簡単に総括し、完了させておこうと思います。

どんな小さな組織でも継続して行くことは並大抵ではなく、それなりに大変であることがよくわかりました。

 

特に人との対応が長の仕事のうち最も重要なものでした。

構成員の人たちに絶えず理解と協力を求め、コミュニケーションをはかる必要があるのです。

 

相手の意向や思いをくみ取りながら要望を伝えて、協力してもらうことが不可欠なのです。

人と相対するにあたり、いつも問われるのは自分の姿勢です。

 

あいまいであったり、一人よがりであったりすると、たちまち事が運ばないのです。

またどんな場合にも大切なことは、オープンな気持ちで接することでした。

 

次に、売上げを上げていくことが何よりも優先すべき事柄でした。

組織はそれを達成するために存在しているのですから、当然のことです。

 

利益を出していくには、考えられるあらゆる手立てを考えて実行することにあります。

販売のチャンスがあれば、どこへでも出かけて行きました。

 

そしてそれらを楽しんでやっていました。

たとえ小さなことでも利益が見込まれるとわかれば、躊躇せずやってみることなのです。

 

思えば、ほんとうに得がたい貴重な体験をさせていただきました。

関わっていただいた皆さまには心から感謝申し上げます。