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尿健康法に挑戦

 

途中でやめてしまった飲尿と尿塗布を再び始めました。

きっかけは久々に山田鷹夫さんの動画を見てからです。

やめてしまった理由は、体調が思わしくなかったからでした。

しかし今だから言えることですが、好転反応だったから続けるべきだったのです。

 

前回は毎朝、コップ一杯の尿を飲むことと入浴時に全身を尿塗布した後に水洗いしていました。

今回では、1日2回飲尿することと風呂を出る直前に尿塗布して洗い流さないことにしました。

 

3日前から始めてみて変わったこととしては、入浴後の身体がポカポカしてあったかいこと、朝の尿の量が多くなったことです。

また目もしっかり洗っていたことで、それまで読みにくかった本が読みやすくなったように思います。

そして前回、いつも気になっていた尿の独特なにおいが、ほとんど感じなくなったことには驚いています。

ただ肩こりがぶり返してきたり、以前に痛めた左の手の平が久々に痛むことがあり、好転反応として受け止めています。

 

今後はどんなことがあったとしても、この飲尿と尿塗布は続けて行こうと思います。

今年行われた第8回尿健康法全国大会のDVDを取り寄せて、しっかり勉強することにしました。

本では宮松宏至さんの「朝一杯のおしっこから」を読み始めました。

 

何回か飲尿すればわかることですが、尿の味は毎回違うのです。

ほとんど真水に近いときもあれば、少し味が濃いなと思うときもあり、実に様々です。

 

ところで、わたしはほぼ毎日、洗腸して腸にはなるべく食べ物をためないように心がけていました。

だからかもしれませんが、尿のキツさというものがなくて、抵抗なく飲むことができます。

どんなものを食べるか、そしてそれをどれだけ食べるのかということにも気を付けています。

1日の1食+αがすっかり定着し、それに飲尿と尿塗布が加わって、いま身体はすこぶる調子がいいようです。

洗腸に関してはその後、事情があって中止しています。

その理由の一つが、大便にもそれなりの役割があるということを知ったからです。

 

 

許して、優しく接しよう

 

仮に人から小言を言われたり、あるいは何か気にさわることをされたとしたら、どうしますか?

ここで許すことを学べるチャンスだと、思ったらどうでしょうか。

 

そもそも、なぜ許さなくてはいけないのでしょう?

その理由というのは、しごく簡単なことなんです。

自分も含めて人は一つの見方しか出来ず、限られた中でしか物事を考えられないからです。

だから、どんなに頑張ったとしても、相手と自分はどっこいどっこいなのです。

 

人からどんなに理不尽なことだをされたと思っていても、自分もそうしたことをやって来なかったとは言えないものです。

感覚器官というものは、一方的な見方、考え方しかできないことを認めなくてはいけないのです。

ある人の見方は、自分の見方からすれば違っていて当然だということに、気づいてほしいです。

もしも多種多様な見方や考え方ができれば、どんなことも一理あることを認めるのは簡単なことです。

 

一つの見方や考え方しかできないが故に怒ったり、別の見方や考え方を認めることができないのです。

そんな自分をまず許すことから、始めてみてはどうでしょう。

それができれば、相手を許すことはもっと簡単にできるはずです。

 

この世界だけでも、様々な見方や考え方をする人たちがいること、その意味に気づくことです。

そうすれば特定の見方、考え方で生きている一人一人に、優しく接することも難しくはないでしょう。

 

 

安い食べ物は結局、高くつく

 

半年前、とても安い小麦粉が手に入るようになり、おやつを自分で作って食べていました。

その後しばらくしてから、前触れもなく腹を刺すような痛みがあり、びっくりしました。

それは断続的で数秒間しか続かないのですが、その度に不安になるのでした。

 

ネットでいろいろ調べてみて、ストレスや肩こりから来る痛みだと思いました。

だから、のんびり過ごすことと、肩をほぐすように気をつけていました。

しかし、その痛みがやって来る頻度が増えてきて、お医者さんへ行くことも考えました。

 

あるとき、夜中にキリキリ刺すような痛みは、よく食べているお菓子によるものだと気づいたのです。

考えてみると、原因として時期的にもピッタリ合うのです。

早速、作ったお菓子を食べるのをやめると、よくあった痛みもなくその夜は寝られたのです。

こうして安易に、安いものに手を出したツケを味わう形になりました。
それにしても取り返しのきかないほど健康を損なわずに澄んで、幸いでした。

口に入れる物は、妥当な値段以上のものを購入スべきなのだ、という教訓が得られました。

うっかりした代償として、苦い体験をさせていただきました。

 

もうちょっとで、食べ物が原因だとは知らず食べ続けて、ほんとうの病気になるところでした。

食べるものが原因で病気になるのは、本当のことなのだとつくづく思うのでした。

せめて食べものにだけでも気をつけていれば、よっぽどの病気になることはまずないのですから。

あとは定期的な運動を心がけていればいいだけです。

なぜ、この世界があるのか?

 

私たちが肉体をもって生まれてきたのは一体、何のためでしょうか?

 

もしそのことが本当にわかったなら、この世で悩んだりすることはまったくもってナンセンスだということに氣づけるはずです。

 

私たちが物質世界で生きているのは、ここでの様々な体験を通して精神的な成長を積むためだとしたら、どうでしょうか。

 

ミシェル・デマルケ著「超巨大宇宙文明の真相」において、はるかに進化した異星人が地球人に対して語っています。

 

あなた方はどのように生き、苦しみ、死ぬのかを学ぶためだけでなく、できるだけ精神性を高めるために地球にいるのです。

 

人間は精神性を高めるために、肉体を持って存在しているというのです。

 

精神的な成長や精神性を高めるには、どうすればいいのでしょうか?

ひとつには、赦すことだったのです。

 

どんなことに対しても、それを赦すことを学んでいくことです。

どんな人に対しても、優しく接する知恵を獲得することなのです。

 

 

 

 

裁くことを慎む

「何があっても裁かない」を実践する難しさを、改めて実感する機会が

ありました。

相手のちょっとしたことに「こうしたらどう?」と言うのも、広い意味では

裁いていることになるのです。

 

昨日、娘が旅行から帰って来て、荷物が玄関脇に置いたままになっていた

ので、言い放ったのです。

「荷物をさっさと片付けたら、どう!」と。

 

理想は、そうした状態をも許すことでした。

それが私の本来、取るべき態度であったのです。

後になって、そのことに氣づく自分でした。

 

もちろん普通に考えれば親の勤めとして、片付けるように言うのは何も

間違ってはいないでしょう。

 

しかしこの場合、躾には当てはまらないのです。

相手がやるべきだと思うことを、相手がやっていなかったので、そのことを

裁いていたのです。

だから、私はやってしまったと思ったわけです。

 

どうしてこうも簡単に、相手を裁いてしまうのでしょうか?

その衝動は、自分でも氣がついていないほど、心の奥深くに根付いている

とも言われています。

 

考えて見れば、これまでに人からさんざん「許しはしないぞ」と言われ続けて

来た経緯があります。

何度もそう言われている内に、自分でも自分を許せなくなってしまうものです。

 

そして自分を許せないことの結果を、そのまま相手にも投影させてしまうのです。

それで人のことをも許せなくなって「許しはしないぞ」となるのです。

 

この悪循環を断ち切るのは、「許し」だけなのです。

いま何があっても許すことに挑戦しているのも、そのためでもあるのです。