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心の内側の光

 

ラルフ・ウォルドー・エマソンの著書「自己信頼」に、次の一節があります。

人は、詩人や賢人の世界の輝きよりも、

自分の心の内側できらめくかすかな光を見出し、

それを見守るようにしなければならない。

 

今後、何かのきっかけにより琴線に触れるような経験をしましたときには心したいと思います。

内にともりました灯火を見つけ出して、それを消し去らないよう大切にして行きたい。

 

普段におきましても、わずかでも心に染み込んで来ます印象には十分に注意を払うようにします。

そこから自然に湧き起こってきます考えを口にしましたり書いたりしまして、以降はそれに従って生きて行くようにいたします。

 

その考えというのは、どんな立派の人が語った人生の教訓よりも自分にとって価値の高いものなのです。

無心になって内なる声に耳を傾けますだけで、かけがえのないそのときその場に、もっともふさわしい導きが得られるのです。

 

一日の内、少なくとも一度はパソコンの電源を切って本も閉じたまま、静かに自分と対峙します時間を持ちたいと思います。

 

 

人生の答え

 

いざ心の声に耳を傾けてみようとしましても、なかなかできるものではありません。

しかし内なる声を無視しつづけています限りは、日々を落ち着かない状態のままで過ごすようになります。

 

耳を傾けようともせずに無視してしまいますのは、どうしてなのでしょうか。

自分には何かが欠いていて、それはどこかにあるはずだと思いつづけ、いつも外側に意識が向いていたからです。

 

必要なものはすべて自分に備わっているという事実を、まったく理解していませんでした。

周りのどこかに幸せを追い求めていましたので、ことごとく裏目に出る結果となり、平安にはほど遠いみじめな気持ちを味わうばかりでした。

 

求める方向が間違っていただけでしたのに、自分に対する自信をすっかり失ってしまいました。

人生に対する答えが自分の内面奥深くにあるとは、とても信じられなかったのです。

 

結局、あれこれと知識を探し求めたにもかかわらず、手元に知恵として残るようなものは何一つ見出せず呆然となるのでした。

 

 

真実は自分の中に

 

自分にとっての真実が誰にとりましても真実でありますとは、どのように受け取ればいいのでしょうか。

もちろん、自分は間違った考えをいっさい抱かないと言っているのではないでしょう。

 

自分には真実だと確信しています事柄を語りますことで、それはすべての人々にとっての真実へとなって行くという意味なのでしょうか。

もしも確信している事柄を自分が語らなければ、誰かが語り出してそれがすべての人の真実となるであろうと言うのでしょう。

 

真実は、分け隔てなく誰にでも訪れているものです。

いち早くそれに気づいて自覚した後、意識してその真実を語れます人が発案者となるのだと思います。

 

ラルフ・ウォルドー・エマソンの著書「自己信頼」に次の言葉があります。

おのれのほかに求むることなかれ

自分が感じ思いますことを軽々しく否定しないようにして、真実はつねに自分の中にありますのを忘れないでいることです。

 

 

自己を信頼する

 

自分を信頼しているとは、どういう状態なのでしょうか。

心の底からやり遂げたい望みは、必ず実現できますのを確信しています。

すべての生命とのつながりを自覚していて、あらゆるものを敬い尊びます意思で満たされています。

 

人から何かをしてもらうのを待つのではなく、自分のほうから与えられます何かをいつも考えています。

内から湧き出ます感情を、どのような形で表現できますかに関心を持っています。

 

それにしましても一番身近であるはずの自分自身に対しての信頼を、いとも簡単に忘れ去ってしまいますのは、いったいどうしてなのでしょうか。

自分を信じない生き方を選べば、どのような人生が待ち受けていますかを学んで、そこから再び信頼を手にしますために奮闘せざるを得ない状況を作り上げるのでしょう。

 

これまで確かに信頼心の欠如によって、さまざまな不安や恐れなどを数多く経験して参りました。

それでは、信頼を取り戻し、それを揺るぎないものにして行きますには、どのようにあればいいのでしょうか。

 

ラルフ・ウォルドー・エマソンの「自己信頼」に、次の一節があります。

『自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じる――それが天才である。

 

心の中で確信していることがあるなら、声に出して語るがよい。

そうすれば、それは普遍的な意味を持つようになるだろう。』

まずは自分が抱く考えを徹底して信じて行く、これが一つの突破口になりそうです。

 

 

無知に気づけるか

 

ジェームス・ヴァン・プラグ著の「人生を、もっと幸せに生きるために」に次の一節があります。

私たちは、日々の雑事に追われながら人生を生きていることがあまりに多い。

 

実際に、たくさんの人が「やるべきこと」のリストを作っている。

私たちは、ある心の状態でいることよりも、何かをやること、得ること、作り出すことに没頭している。

 

毎日の習慣ともいうべきものでありまして始終、何かを行い、何かを作り出しますのに余念がありません。

未だ、ある心の状態にいいますのが、どれほど重要でありますかに気づいていないのを知ります。

 

自分の最大の課題であります、自分自身と周りの人々に対して、あるがままに信頼しますのを見失ってばかりいるのです。

心を無条件の信頼で埋め尽くしますのが、これほどの困難さを伴いますのを思い知ります。

 

相も変わらず自分の内面については知ろうともしませんし、何が大切なのか、あきれますほどにわかってはいないのです。

自分が無知でありますのに、それにさえ気づかず無知の状態のままでいます。

 

 

蒔いた種を刈り取る

 

何年か前のNHK大河ドラマ「真田丸」を見終わりまして印象に残りましたのは、豊臣一族が滅ぶべきして滅んだのではないかということです。

このドラマでどこまでが真実なのかわかりませんが、少なくとも政争の具とはいえ、人の恨みを買うようなことばかりを繰り返していましてはどんな政権でありましょうとも長く続くわけがありません。

 

全国を統一するなど数々の功績を残しました豊臣政権でありますが秀吉の死後、一気に求心力を失って行くのも当然の結果といえるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦も始める前から、すでにその勝敗はついていたように思われます。

 

普段、どんなことをやっているのかを見れば、その後どういう運命をたどりますのか、わかるような気がいたします。

私利私欲から行っているのか、あるいは利他の精神でやっているのかです。

 

突き詰めれば、蒔いた種を後に自ら刈り取るだけの話かもしれません。

歴史から学べますことは、まだまだほかにもたくさんありますように思います。

 

 

人徳を積む

 

私が世の中に伝えたいことがあるとしましたら、それは何でありましょうか。

しかし、これだけは人にどうしても伝えたいというものが自分にありますのか、甚だ疑問に思います。

 

また、これといった特殊なメッセージを持ち合わせているわけでもありません。

敢えて人々に語りかけますような高尚な考えも何一つ浮かんで来ないのであります。

一つだけ申し上げるとすれば、この世で生を受けました以上は、どんな犠牲を払ったとしましてもそれを全うするといことでしょう。

 

生を全うするというのは、どういう意味なのでしょうか。

少なくとも自分の命を粗末に扱いましたり、自ら生きる意欲を削いだりしてはなりません。

何も特別なことをせずとも命が尽きるまでただ生きている、それだけであったとしても尊いと言えるのではないでしょうか。

 

富を築いたり名声を上げたりするために、一生を費やすほど馬鹿げたことはありません。

たとえどんな些細なことでも人徳を積みますのに、人生のすべてを差し出すべきでしょう。

 

 

善とか悪で測れない

 

私にしか伝えられないことがあるとしましたら、いったいそれは何でありましょうか。

たった一つ、これだけは自信をもって言えるかもしれません。

 

世界中にどれほど多くの人がいたとしても、私自身が歩んで来ました道は、私以外に語れる人はいないのではないでしょうか。

数え切れないぐらい間違いをおかして来ましたが、それでも何とか今日まで生きて来られたのです。

 

それこそたくさんの人たちの援助と宇宙のサポートを受けまして、どうにか無事に乗り越えて参りました。

仮に、もう一度人生をやり直せるチャンスがあったとしましたら、果たして同じような道を自分は選択しますでしょうか。

 

おそらくは、今生とは別の道を選ぶような気がします。

これまで人生を貫く明確な目的に沿って歩むという生き方からは程遠い、成り行き任せで過ごして来たように思うのです。

 

ですから、一つ一つの選択において違った考えや見方でもって対処しますに相違ないのです。

それは正しいとか正しくないとかで測れるものではありません。ある意味では、どれもが全部正解なのですから。