自分と取り組む

 

抗しがたい宿命的な要素を数多く意識の面で、あるいは細胞レベルにおいて背負っていますのは重々承知しております。

にもかかわらず、この小さき自分としましては、内側から発せられます何らかの意図をできるだけ明確にとらえまして、

それを日常の心構えとして持ち続けられましたら、いまとはまた違った生活が展開して行きますような気がするのです

 

いかにして内なる声を聞き取り、その通りに実行しますのかが重要になって来ます。

その声は、よほどのことがない限り向こうからやって来ることはなく、こちらから投げかけた内容に対して、返答に相当しますものが返ってくるだけなのです。

 

いま抱えています問いは、みんなの幸せを考え、全体の幸福を祈願し続けますには、どのようであればいいのかです。

そして最終的には、ほんとうの自分と常時つながるという意図があります。

なぜ、全体の幸福を求めるのでしょうか。それが真の自分の願いでありまして、いまの世界はみんなが幸福ではないからです。

 

それでは、自分はどうありましたらいいのでしょうか。みんなの幸せだけを願い、無私無欲で、いま出来ます事柄を全身全霊でやりますのに尽きるようなのです。

①望みだけを描き続け、②私利私欲を捨てて、③やるべきことに集中いたすことです。

 

 

意識を意識する

 

車の運転している最中に、どんな行動を取りますかは、そのときの意識状態で大きく異なるのに気がつきました。

愛を意識していますときは、ていねいな運転を自然とやっていますが、いつの間にか通常の個別意識に戻っているのです。

 

信号のない交差点に差しかかっても、左右の確認をおろそかにして先を急ごうとするのです。

そんな独りよがりの行動を平気でやっておりました。

 

個別意識の自己中心的な性質が、ハンドルを握ると顕著に表れていますのには驚きます。

これでは周りに何らかの害を与える可能性が常にありますので、この通常の意識状態を何とかしなくてはなりません。

そうは言っても手強い相手でありますし、一筋縄では行かないのは確かです。

 

個別意識を敵視したり、無視したりしても無駄でありますどころか、かえって身勝手さを助長しますことにもなりかねません。

どのようにして、個別意識と折り合いを付けて行くのか、それを考えますほうが得策のようです。

 

愛や幸せという言葉だけよりも、それをイメージにして心に満たし、それを絶えず意識できるようになるには、どのようなステップを踏めばいいのでしょうか。

人生の大半を、この意識のもとで生きて来ましたから、それを変えて行きますのは容易ではありませんが、何とかしてやって行かなくてはと思うのです。

 

 

 

かけがえのなさ

 

今朝、気づいたのですが、車を運転中に愛を意識していますだけでも十分に、周りを配慮した慎重な運転をやっておりました。

向こうから車がこちらに迫って来ますとき、そのものの脈動感が伝わってきまして思わず身震いしましたのは、自分の本質も愛であるからでありましょう。

 

さらに思い至りましたのは、普段の日常生活におきましてこそ、常に愛を意識しますことの大切さでありました。

そうした気持ちを持っていますと、何もやっていないときに時々感じていました、言い知れぬ寂しさとか孤独感からも解き放たれるのを知りました。

 

不足とか欠乏感が生じて来ないのにも気づき、愛という偉大な力のその一端に触れたように思われまして、感謝の念に打たれました。

どうしてこんなに大事な心がけを、いつの間にか忘れてしまったのでしょうか。

 

一時的にせよ、忘れる必要があったからなのでしょうか。そうとしか、思い当たらないのです。

なぜ、忘れなければならなかったのでしょうか。先ほど感じましたような愛の偉大さ、かけがえのなさを実体験で学んで知る上で忘却は不可欠だったのでしょう。

 

自分はもう、そのことを十分に知り尽くしましたと、天に向かって断言できればいいのですが、まだまだ言える状況ではありません。

自分が学びの途上にありますのをここで再認識し、もっと学び取ります決意を新たにするのでした。

 

 

個別から全体へ

 

車を運転しているときなどは普通、自分の身を守る必要がありますから、どうしても個別意識が前面に出て来ます。

意識して「今、愛と共に運転をやっているんだ」と何度も自分に言い聞かせていますと、個別意識から離れていられるように思います。

これに慣れて来きましたら、そんなに努力しなくても済むかも知れません。

 

昨日、一年ぶりに空の駅のバイキング・レストランで食事をしました。

開店時間まで並んで待っているとき、前の人と初対面ですのに会話を交わしていました。

テーブルの各料理を取ります際の順番待ちにおきましても、前の方が長くて待たされましても平気でした。

 

今までの自分でしたら、確実にイライラしていましたのに驚きでありました。

みんなのことを思うように心がけていますだけで、こんな風にも違って来ますのは、どういうことなのでしょうか。

 

全体を思う意識こそが、本来あるべき意識なのかもしれません。

いたわりや優しさ、思いやりなどの気持ちも元来、自然に出てきます気質と言えますでしょう。

しかし個別の意識下にありますと、それらも脇に押しやられてしまうようです。

 

人と競ったり争ったりしますのは、対立を要する個別意識のなせる技ではないでしょうか。

世界で、国同士での争いや国内紛争などが絶えなかったのは、分離の方向へ向かわせる個別意識が人々に蔓延していましたからでしょう。

今や、ひとりひとりが全体意識に目覚めて行きます時代に入ったように感じています。

 

 

害を与えない選択

 

周りの人や自分自身に有形無形の害を与えていますのは、個別の意識のときだと思います。

車を運転中、ゆっくり前を走っている車にイライラしますのも、無理に横から入って来た車に腹を立てたりしますのも、自分が個別意識の状態にあるときです。

 

もっとも普段の生活では100%近く、この意識で過ごして来ましたから、取り立てて指摘するまでもないのかもしれません。

ただ問題として、この意識があまりに強く作用し過ぎまして個人的な面で、あるいは社会の様々なところでトラブルが発生していますのが現実だという点です。

 

成長初期の段階においては、自己を確立しますために他者というものを識別し分離する必要上、個別意識に頼るほかはなかったのでしょう。

幼少の頃からそのようにして育ち、大人になったわけです。

 

そして今度は再び、自我という枠組みを取っ払って行きまして全体の中の一部に帰るべく、全体の意識を取り戻して行くときを迎えていますように思います。

その手始めとしまして、相手や自分にいかなる害も与えない生き方を、意識して選択するように決めたのです。

 

なるべく個別意識から離れて自他の区別を薄めて行き、一体感を思い出すようにします。

例えば、自然に触れる機会を持ったり、ぼんやりとしてでも地球規模のことを思ったりしてみるのです。

 

 

すべてを思う

 

なぜ、みんなのことだけを考えて行くのでしょうか。それがほんとうの自分と同調できます領域に、もっとも近いからではないでしょうか。

個別の意識から抜け出しまして距離を保つには、最良の方法と思われるからです。

 

それは親元を離れた自分が親を思い、慈しむ心を呼び覚ましてくれるようなものなのです。

みんなを思い描こうとしますと、そのみんなから祝福を受けているように感じます。

しかも、ずっとこれまで祝福されていましたのに気づかされます。とても癒やされます。無条件の愛とは、このことでありました。

 

自分とは、いったい何だったのでしょうか。そこでは自分というものが、どこにも見当たらないのです。

しかし現実の中に意識を戻しましたら、自分といういつもの感覚にいるのです。

個別意識と全体意識の違いを垣間見ましたように思えます。ほんとうの自分は、全体意識とつながっていますのが理解できたような気がします。

 

意識面でみんなとつながっているとは、こういうことでありました。

そのつながりを無視しますことで、個別意識が表れて来るのでした。出来るだけ、みんなに意識を合わすように心がけます。

どちらの意識に焦点を合わせているのか、それを意識しておくのが重要なことのように思われます。

 

 

純粋な願い

 

人より勝ろうとする欲が、自分の中にありますのを認め、それを把握しておかなければなりません。

どうして、みんなの幸せだけを考えることができないのでしょうか。

 

長年の習性として自我の欲望にかられますのが、ごく当たり前になっているからだと思います。

放っておきますと、自分にとって何をさておいても、この自我が満たされるのが最優先なのです。

 

なぜ、こうした個人的な意思から離れなければいけないのでしょうか。それは、みんなのことに目を向けますのを困難にしているからでありましょう。

個人的な好みやこだわり、願望にとらわれている限り、どんな客観的な真実も見えて来ないからではないでしょうか。

 

もっとも願望に関しては、自分を利する願いと純粋な願いとを区別して行く必要はありそうです。

ほんとうの自分とのつながりを持ちますには、どうしたらいいのでしょうか。

 

自分を賢く見せたい、格好が良く少しでも若く見せたい、人より偉くなりたい、もっと稼ぎたいなどの欲望は、全てとらわれでありますのがはっきりと理解できるかどうかです。

そして、それらを手放して行くと自分に約束できるかどうかであります。

 

カチンと来たり言い争ったりしますのは、自分を少しも信頼せず、そうした自我の言いなりになっていますからです。

自我が語りかけてくる言葉をことごとく放棄して行けますように。

 

 

同胞と向き合う

 

先日、久しぶりに親しい人と話す機会がありました。相手の方が一時、体調を崩されて、その理由をいろいろと言われていました。

それを聞きました後、そうではなくこうすべきだと諭すように自分は言っていたのです。相手のあり方を駄目だと否定していましたのに、後で気がつきました。

 

どれだけ優しく言ったとしましても、自分の意見を押しつけていたことに変わりはありません。どうしてこうした行動に走ってしまうのかを考えてみました。

ひとつには、相手を上から目線で見ていました。気づかない内に傲慢な姿勢で応対していました。そうでなければ、相手を批判するような接し方は生まれて来なかったはずです。

どんな高尚なことを考えて行きましても、人を見下し驕りある態度が出て来ます素地が自分にあるということです。

それを認めて警戒を怠らないで行きますと共に、謙虚さをもっと養って行かなければと思いました。

 

ふたつ目としまして、人にはそれぞれ、その人自身を常に見守っています存在がいます。

ですから、人のことはその人に任せまして自分が心配します必要はなく、それよりも自分を正しますことに専念すべきなのです。

 

みっつ目として、ひとつ目と関連しますが、相手が誰でありましても、その相手と自分とは人間的に全く対等であります点です。

たとえ年齢や地位などがどんなに離れていましても、それらは本質にはいっさい関係がないのです。

同じ道を歩みます同胞として、お互いに向き合っているのですから、それを決して忘れてはならないと思いました。