ほんとうの自分

 

個は全体の縮図とも言われますように、ほんとうの自分とは、考えられます全てを有する存在でありますに違いないでしょう。

つまり自分というのは、何者でもない者かも知れません。

絶えず流動的で、とらえどころのない、あらゆる可能性そのものが、本来の自分かも知れないのです。

 

もしそうだとしますと、明確にこれだと特定しますのは、そのほかの全てを否定しますのと同じになってしまいます。

自分の一部分をもって、全体もそうであるかのように言ってしまうのです。

 

これは言葉で言い表せませんのに、そうしようと試みるからでありまして、ある意味ではそれも仕方のないことです。

自分という者を敢えて表そうとしますには、たくさんの要素からいくつかだけで表現せざるを得ないのです。

 

ですから問題となりますのは、その内のどれをもって表現するかでありますが、

自ずと意識に上がって来ましたものや、頭に浮かんで来ましたもので限定するほかはありません。

 

それは脳に刻まれました記憶の中から特に、一番心に響きました事柄でありましたり、強く印象に残った体験の断片であります。

それらはどれも全体の縮図を宿してはいますが、ほんの一例に過ぎないこと、自分の全てを表してはいないことをわきまえています必要があります。

 

 

創造の喜び

 

ほんとうの自分とは何なのか、思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。

少なくとも、好きなテレビ番組を見て面白がるだけの自分ではないはずです。

十分それで満足していますならともかく、ほかの人にも役立ちそうな何か、出来ますことはないのでしょうか。

 

よほどの特殊なことでもない限り、それに没頭しますならば、どんなことでも自分はやれそうな気がして来ないでしょうか。

没頭できますものとそうでないものとがありますので、自分がどういうのでありましたら夢中になれますかを考えてみます。

これまで夢中になったのは、どんなときだったでしょうか。

 

例えば、プラモデルや模型などの工作品を作り上げましたとき、あるいは研修プログラムで研鑽に励みますとき、特殊な装置を使いこなしますとき、などが上げられます。

部品から作り上げて行きましてある形に組み立てますのと、自分の能力や出来上がった機械を使いこなしますのが何よりも好きだったようです。

 

どんなものであれ、小さな部分から想像し始めまして、それらから思いがけないものを創造して行きたいのです。

そして、それをフルに活用して楽しみますのが本望のように思われます。

 

そうしますと見えてきますのは、創造しますことを十二分に味わう存在であります。

また、創造した物を存分に生かしますことに大きな喜びを感じます存在とも言えます。

 

 

距離をおく重要性

 

テレビを見る人たちというのは、おそらく何か面白いことはないだろうかと興味本位に見ていますのが大半なのでしょう。

その証拠に、視聴者に対するアンケート内容を見ますと、いわばどうでも良いような質問がほとんどでありまして、制作側も十分に心得ていますのが読み取れます。

 

そんな中で突然、視聴者に場違いと思われます理性に訴えかけるような投票を行いましても、面白半分で選ばれる結果になりますのはむしろ当然でありました。

ですから、あの緊急の場においては、そうした結果を修正しなくてはならなかったのでしょう。

取り返しのつかない事態を招くのは必至でありましたから、そのまま取り上げることが出来なかったのです。

 

今のテレビは面白おかしい番組が多くて、自分は何もせずにただ座って見るだけで、何時間でも退屈せずに過ごせるようになりました。

楽しければそれだけでいいというのでありましたら、テレビは打って付けかもしれません。

 

しかし、テレビを見るほかにすることのない人に申し上げたいのは、自分がテレビ依存症になっていないか注意して欲しいです。

スマホの依存症にも当てはまりますが、どこがいけないのかと言いますと、

それらに頼り切ることで、自分は考えなくても済んでしまうからです。思考停止の状態が日常化してしまうのです。

 

だんだん自分で考えるのが面倒になって来まして、ついには自分で物事を考えられなくなって、あやつり人形のようになる危険性があります。

テレビを見ない日を決めてみたり、一日に○時間だけしか見ないようにしたりして、テレビと少し距離をおきますのが重要です。

 

 

グッドモーニングショー

 

映画「グッドモーニングショー」を見ました。

数時間の朝のワイドショーに、4時間前から準備作業を開始していましたことと、

たくさんの人たちがそれぞれの部署で綿密に関わっていたことにびっくりしました。

しかも分単位、あるいは秒単位で次々と切り替わっていきます場面設定の連係プレーは、いくら仕事柄とはいえ見事でした。

 

それに対しまして、扱っています話題や題材が視聴者の受けの良い芸能ニュース関係を最優先にされていますので、

作り上がりも限定されたモノで終わってしまい、残念な気がしてなりませんでした。

そこへ事件が発生しましてから状況が一変して、その後の展開に引き込まれて行きました。

 

なぜ、主人公の澄田キャスターが立てこもりの犯人から呼び出されたのか、顔に泥を塗る場面はいったい何なのか、という疑問が出てきます。

ところが、そういったことはわからないまま話が進んで行きますので、目が離せませんでした。

事件の核になります過去の出来事や背景などが、徐々に明らかになって行きます手法は功を奏していました。

 

ところどころに笑ってしまう仕草や勘違いなどのコミックなシーンがはさまれまして、人質事件に伴う緊張を和らげているようでした。

犯人の動機などの真相に近づくにつれまして、ワイドショーのスタッフたちが現場で進行する映像の画面に釘付けになって行きます様子は真に迫っていました。

 

見終わった後はホッと胸をなで下ろしましたが、番組の終了間近に行われました視聴者投票の結果については考えさせられました。

本来は自分の命を人の意見でどうするか、決めるようなものでないはずです。

しかしながら、投票結果の数字を入れ替えましたことで、犯人をはじめ自分たちも救われたと思いました。

 

 

体験を観察する目

 

日々の生活とは、まさに大小さまざまな体験の連続ではないでしょうか。

その際に大切なことは、体験しました中から情報をどれだけ拾い出せますかどうかです。

それと新たに思うところがありますなら奮ってその体験に乗り出してみますチャレンジ精神ではないでしょうか。

 

少なくとも、決まり切った生活パターンに埋没してしまわないように普段から注意していなければなりません。

具体的にどうして行けば良いでしょうか。ひとつには、ときどき立ち止まって自分の行動を振り返りまして、じっくりと観察してみます。

 

日にひとつぐらい、新しい何かをやってみますとか、やり方を少し変えてみてはどうでしょうか。

例えば、興味のあります本を読み始めましたり、部屋の模様替えをしましたり、初めてのお店や場所を訪れたりしてみます。

そこで大事なのは、そうした新たな体験をしていますときの気分を思う存分に味わい、どんな感情に自分が包まれているかに気づいていますことです。

 

さらに、五感のそれぞれを働かせまして、体験していますことから吸収できますものは何でも受けとめてみます。

まるでこのときが永遠のように感じられましたり、知らなかった自分の能力の一部を垣間見まして驚いたりするかもしれません。

こういうとき、意識も新たにすることが出来ます。

自分とは何者か

 

自分が体験する者でありますことを理解できましたとしても、ほんとうは何を体験したかったのでしょうか。

自分とは何者であるかを知り尽くしますこと。

 

これは体験を通じてでしか、知りようがありません。

どんな体験をしましても、そこから何か自分を知る手がかりを見つけ出さなければ、意味がないことになります。

 

体験を通してでなければ知り得ないというのは、そもそもどういうことでしょうか。

何を体験しましょうとも、行動し実践するという能動的な要素が不可欠であると言えます。

受け身的な体験もないわけではありませんが、被害者意識に見舞われましたり、運を天に任せましたりして、主導権を他者に明け渡す結果になりますので却下すべきでしょう。

 

体験に先立ちまして、何らかの動機ないし意図が脳裏にありまして、それが体験の出発点になるように思います。

どんな動機や意図が考えられますでしょうか。

 

例えば、自分とは何者かという問いから派生しました問題意識に、突き動かされました様々な動機が考えられます。

あるいは、自分自身を知る絶好の事態を前にして新たなる課題に気づき、それを解決します意図かもしれません。

 

もっとも体験のすべては、自分を知る材料をことごとく提供してはいるのです。

ただ自分がそれらを、どれだけ受け取れる用意がありますかどうかだけなのです。

 

 

体験する者

 

自分はあくまでも体験する者でありまして、体験そのものが自分であるかのように思いますのを止めなければなりません。

もし何かに失敗したとしましたら、失敗とはどういうものかを体験できます失敗者の役を、自分が演じていたのでありまして、演じた自分が失敗者だと思い込みますのは間違っているのです。

 

それはちょうど自分の考え出したアイデアを、自分そのものだと思い込んで有頂天になりますのと何ら変わらず、まったく馬鹿げております。

とにかく、いま行っていますどんなことも、そして生きていますこと自体が、すべて体験をいたすためでありますことを片時も忘れてはならないのです。

 

それにしてもなぜ、こんな風に注意しなければならなくなってしまったのでしょうか。

ひとつには、学校での成績表による序列分けにすっかり慣らされて来ましたからでありましょう。

自分とは成績通りの人間に過ぎない、と思い込み続けてきたのです。

 

成績表は、これまでの努力の成果を示す単なる指標に過ぎませんのに、成績で自分を評価されまして育って来たのであります。

役者さんが演じた役そのものと同じでないように、どんな成績を取ったとしましてもその成績が自分でありますわけがありません。

そこをはっきり区別して行きます必要があります。

どんな体験をいたしましても、その体験を自分と同一視してはならないのです。

 

 

体験者と観察者

 

自分自身の本質とは、何でしょうか。

いまの自分は、いつも選択に迷っていたり間違いをおかしたりしまして、完璧には程遠い生き方をしています。

また、思い通りにいかないと落ち込んでみたり、たまに良いことがありますと喜んだりしているのです。

 

しかし、迷い落ち込んでいますのは、ほんとうに自分なのでしょうか。いったい誰が迷い、落ち込むと言うのでしょうか。

実は、自分自身といいますのは本質的に完全でありますので、自分と思えます架空の分身を仕立て上げたのです。

その者が間違ったり、悩んだりしていると考えられます。

 

本来は、第三者的に眺めていますだけだったのですが、直接に体験したくなって来たのであります。

それでその者と一体になりきりまして、自分があたかも間違ったり喜んだりしていると思い込むように、振る舞って来たのです。

 

例えば、失敗や成功というものを体験するには、まず不完全な状態になりまして味わう必要がありました。

完璧なままでいましたら、失敗しますこともなければ、成功とはどういうものかもわからなかったからです。

そして、そうしたことを続けて行きますうちに、自分の本質が何だったのか、わからなくなってしまいました。

 

それでも本質を失ったわけではありませんので、ときに無意識に感じ取りましたり、突き動かされましたりします。

十分に体験し尽くしましたなら、そこから離れる術を学んで行かなければなりません。

ほんとうの自分とは限界のない無限の存在でありますことを思い出して行きますには、どうすればよいのでしょうか。