つながりを取り戻す

 

ある面で今の社会は、私たち一人一人をまず分断させておいて生き延び、そして孤立させまして繁栄を誇っていますように見えてしまいます。

かつて小さい頃、周りにいますのは、ほとんどが顔見知りの人たちばかりでした。

 

両親だけでなく、そういう人たちからも怒られたりほめられたりして育って来ました。

隣近所はお互いに助け合うというのも普通でありました。それが今はどうでしょうか。

 

子どもの数が減りましたからでもありますが、外で遊ぶ機会が少なくなって、隣近所もあまり知らない人たちばかりです。

たまたまそういう人と出会いましても、お互いによそよそしく接してしまいがちです。

アパートやマンションなどでは隣同士で挨拶したり話したりはおろか、顔さえ知らないのが普通になっています。

 

家庭も核家族が増えましてお年寄りの知恵は途絶え、同居によって年長者が果たして来た役割は失われました。

また、共稼ぎが当たり前になり生活面で気楽であります反面、子育てなどで相談相手がいなくて一人で悩みをかかえ込む結果になりました。

その一方で、三世代同居の時代では考えられなかった老後の問題がのしかかって来ます。

 

小世帯が増えて行きますと、住宅や生活必要物資などの需要が伸びて各企業は潤います。

老人世帯が多くなりますと、民間の医療や介護サービスの充実が一層求められて来ます。

 

普段、人の身に起こりましたことは、他人事だとしてつい見過ごしてしまい、自分に降りかかって来てから大あわていたしますのが常であります。

人のことを自分ごとと思えない、対岸の火事してとらえてしまう、その理由は何でありましょうか。

 

 

信頼を確立

 

どうして自己中心的になってしまいますのか?この問いから始めてみます。

人間としてまだまだ未熟であります証拠と申せますが、何よりも自己の確立が出来ていないからではないでしょうか。

 

例えば、仮に一人ぼっちになったとしましても、生きて行くだけの強さが自分にありますのかどうか。

また、人からどんなに誤解されましても、なおもその人と友好的に接することが出来ますでしょうか。

 

要するに周りの状況がどのようにありましても、自分が正しいと思うところを一貫してやり通せるのかどうかなのです。

どんな災難が身に降りかかって来ましたところで、あたふたせず冷静に見極めて対処できる、そうした生き方というのは、どこから生まれて来るのでしょうか。

 

それは、自己に対する揺るぎない信頼から生まれるのではないでしょうか。

自己信頼を取り戻して行くには、一朝一夕で行えるものではなく、ほんの小さな自信をいくつも積み上げて出来上がります自己像を、

内面に繰り返し印象付けて行きますことで徐々に回復するように思われます。

 

肯定します心のみが力を増して行きまして全体を満たしたとき、すべてが自分として認識し、他者というものはあり得なくなります。

争いはどうして起こりますのかと言いますと、相手を否定し認めようとしないから起きますのではないでしょうか。

 

相手を理解しようと全力を傾けまして、あくまでも尊重して行く姿勢で応え続けますれば、争う理由がどこにもありません。

他者を否定しますのは、自己を否定しますのと同等でありますから、自分自身への信頼が未だ確立出来ていないと認めますのが先決でしょう。

 

 

自己の棚卸し

 

無害でいますために、最初に手がけなくてはならないのが、自己の棚卸しです。

自分の傾向としまして、例えば、どうして些細なことでさえ、人と言い争ってしまいがちなのか、という疑問が浮かんで来ます。

 

いまだからわかるのですが、そのときは完全に自己中心的な考えにとらわれていました。

相手の身を思いやる気持ちは全くなくて、あきれますほど身勝手な態度で、人と接していたのです。

 

愚かにも、そうした独りよがりな自分の振る舞いにも気がついていませんでした。

せめてもの救いは、その後で悪かった自分を悔いますのが常で、二度としますまいと思うのです。

しかしながら当時は、そうした反省をつぎに生かします知恵も働かなかったのです。

 

最近では利己的な考えがかなり薄らいで来ましたが、ただ表面に現れて来ないだけであります。

おそらく一生涯をかけましても一掃できるものではないと見ております。まだまだ自己の内に巣くっていますのは明らかです。

 

普段から自分の思考や言動には十分、注意を怠りませぬよう気を引き締めているところです。

少しでも独善的なところが見つかりましたときは、すぐにそれらを改めて行きますのと、慎重にその芽を摘み取って行きます。

 

 

無害性を引き出す

 

無害性を表していきますのに、自分に非があります場合はもちろん、相手に非がありましても、それを基に

争ってみましたり、とがめましたりは決してするまいと、誓っておきますのも非常に有効であります。

 

先日、ある取引先から賞味期限切れの品が届きましたので、電話で問い合わせてみました。

ただ事実だけを述べました後に、こちらの希望を伝えましたところ、早速引き取って新しい品をお届けしますとの返答でした。

 

相手も自分も、とても気持ちよく応対ができました。

そこに抗議や釈明、苦情めいた話などが一切なかったことによりまして、無害性を引き出せました。

 

考えてみますと、人はどうして害を与え合うような生き方を選んでしまうのでしょうか。

その理由としまして、ストレスから来る単なる気晴らしでありますとか、やられましたらやりかえすという論理などが上げられそうです。

 

つまり、いずれ自分に降りかかって来ます災難を、自ら作り出しているに等しい行為を、平気でやっているのです。

自分が何をしていますのか、全く見えていない状態なのです。

少し冷静になって考えてみれば、わかりそうなものですのに、それができないというのはどうしてなのでしょうか。

 

ひとつ言えますのは、自分の言動を見つめる目を、普段から養っていないからではないでしょうか。

こうした状況を考えますと、内側を観察する視点を発掘して行きます重要性と、それを開発して行きます必要性が増して来そうな気がします。

 

 

無害でいますこと

 

自分の言葉や行動、考えにおきまして、無害性を少しでも実行しようといたしましても一歩も踏み出せず、もどかしさを感じますだけでありました。

たとえば、自分の誤りを指摘されました後、その人の過去の失敗を蒸し返しますような発言をしてしまったりするのです。

 

昨夜も家族とちょっとしたやりとりの中で、相手を見くびるような言葉をつぶやいていましたのに気づきました。

また、人の物が散らばっているのを見ますとすぐ、なぜ片付けないのかと思ってしまい、誰かを批判しているのです。

 

これらはとりもなおさず、いかに周りに害を放ち続けまして、生きて来たのかという事実を、認めなくては身動きひとつも思うように行かないのです。

普段の日常生活を送るだけでも、まったくもって無害でいますのは、何と難しいことでありましょうか。

それはもう、どうしょうもないほど、不可能にさえ思えてしまうほどであります。

 

その反面、やれるはずだという確かな声がどこからか、聞こえて来るような気もいたします。

しばらくあいだ、自分の言動や考えの中に、なるべく無害なものだけを培って行ってみますのも有益ではないかと思います。

 

 

 

 

観察に専念する

 

主に黙想を通しまして、自分を観察するようにしています。

当初は思考します自分と観察しています自分とを、同時に共存させますのがきわめて困難でありました。

ある考えに、はまりきってしまうか、あるいは観察の視点をもつときかの、どちらかでありました。

 

ごくたまにでありますが、想念をいだいていますところを、離れて見ている状態になれる瞬間がありました。

このまま時間をかけて行っていきますと、観察者の目で自分の思考や感情を追って行けそうに思います。

 

ここで注意しなければいけないことがひとつありました。観察する側に立った自分は、ただそのことだけに専念し続けます。

このとき、決して思考をコントロールしようとしてはならないのです。

あるとき誤ってそれをやりまして一瞬、頭がおかしくなって混乱してしまいました。もう二度とやるまいと思いました。

 

自分の心をただ見つめるだけに集中しておりますと、時間の経つのがとても速いように感じます。

そこで次からは、思考や感情をどれだけ詳細にわたって眺められるのか、そこに気をつけながら進めて行きましたら、もっと時間を有効に使えそうな気がいたします。

 

 

人類の行く末

 

最大の関心事に持って行きますテーマは見つかりましたが、これから理解すべき事柄は膨大でありまして、残りの生涯を掛けましても足りないことだけは確かです。

ですから、中でも何を特に深めて行きますのか、絞り込む必要があります。

 

いずれはそのような選択を行いますが、まず全体構造をつかみますのと、各概要を知らなければなりません。

入門編としましては、長年研究を続けて来られて啓蒙活動を地道にやっておられる方がいました。

その方の書籍を通して、「トランス・ヒマラヤ密教」について学び始めました。

 

神尾学著「秘境から科学へ」と「智のフロンティア」です。いま新たに読み進めますのが、同著「人間理解の基礎としての神智学」です。

一度「秘境から科学へ」を通読いたしましたところ、わからないながらも初めて触れます内容が多く、まさに驚きと興奮の連続でありました。

宇宙の創世や人類の出現には、確固とした目的と計画があったことを知らされまして、そうなのかと深く安堵いたしました。

 

また、大計画を果たすに当たりましては、その責任を担う存在たちや、着実に遂行して行けますように見守り、ときに力を行使して来た存在たちが、有史以前からいましたのには驚嘆しました。

こうした背景にありまして地球と人類の行く末にも、何か希望が持てますような気がいたします。

 

 

根気強く付き合う

 

自分のいだきます関心事は、いつも高尚なことばかりとは限らないわけですが、この状態が好ましいとはとても思えません。

「なぜ宇宙が生まれ、人間が生まれたのか?」このことに、ずっと関心をもっていたとしましても、それを徹底的に掘り下げて行きます態勢にはなっていなかったのです。

 

いまの時代は興味を引くもので満ちあふれておりますので、ひとつに割きます時間は思う以上に少なくなっています。

こうした状況を変えて行きますには、与えられるまま成り行きに任せていましたのを、まず止めなければなりません。

何を最大の関心事にして行くのか、自らが編み出して行きます必要があります。

 

自分にとりまして仮に先の問いがそれに値すると考えました場合、最大の関心事にもって行きますだけの理由なり根拠なりが、そこになくてはなりません。

はっきりとしました理由を見つけますまでは、根気強く付き合って行きます以外にやりようがないのです。

 

前に紹介しました書籍「アセンション・マニュアル」で述べられています内容の一部は、「トランス・ヒマラヤ密教」あるいは「神智学」と呼ばれています範疇に入りますものです。

 

そうした書物を一度でもお読みになればわかりますが、とても難解と言われています思想体系です。

しかし現在、世界がかかえています解決困難な、あらゆる問題を解消して行きます糸口も指し示していますように思います。