許すということ

 

許すということについて書いてみたいと思います。すると子どもの頃のことを思い出さないわけにはいきません。

たぶん、この何倍も許してもらっていたはずと思いますが、許してもらえなかった自分のことが忘れることが出来ず、

いざ自分が許す立場に置かれるとなかなか人を許すことが出来ないものなのです。

ここで、よくよく考えなくてはならないのです。

 

自分が許してほしかったときに許してもらえなかった、そういう体験があるからこそ、より寛大になり率先して人を許さなくてはならないことを。

いつも相手の身になって人と接するようにと言われるのは、いつか自分も逆の立場で相手から親身になって世話を受けるのであり、そのことへのお返しをすることでもあるのです。

 

人は親切にされたことは忘れやすいものですが、粗末に扱われたことはいつまでも根にもったりして覚えているものです。

ここでまた、よく考えてみます。なぜ人から親切にされたことは、忘れやすいのでしょうか。

 

親切に振る舞うことが、人間の自然な姿だからではないでしょうか。人を粗末に扱うというのは、本来の人間のあるべき姿ではないのです。

だから、意外なことを人はいつまでも覚えているのだと思います。「許す」ことにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

人は自然のあらゆることに対して、それを受け入れ認めて来たという事実があります。そうしないと生きてはいけなかったからです。

人はすべてを許して、生きて来たとも言えます。なのに、どうして人間同士のことになるとすべてを許せなくなるのでしょうか。

あの人や、あのことを許さなくても別段、自分は生きていけると思っているからかもしれません。

 

そういう人は大きな間違いをおかしています。許さないとは、受け入れることを認めないと宣言したことです。

自分の中で、この「認めない」思いだけが刻み込まれます。つまり、いっさいを認めないことであり、自己否定していることと何ら変わらないのです。

相手にしたことが、そのまま自分に帰ってきて、自分に対してしたことになるわけです。

 

結局、人間同士のあいだのことも自然に対するのと同じように、すべてを許し、受け入れていくことが人間の本来のあり方だったのです。

そのことに気づいたいま、いま自分の中にある、これまでの「許せない」ことを手放すときにいるのかもしれません。

 

 

理解することから

 

これから人といい関係を築いていくにあたって注意することがあります。

それは、相手が根本的に信頼に足る人だとしても、その人を頭から信用して大丈夫だとは言いきれないことです。

また、こちらがいくら信頼をよせたとしても、相手がその信頼にこたえるとは限らないことを承知しておく必要があります。

 

ほかのことでもいえることだと思いますが、見返りを期待して何かを行うときは、往々にして望ましくない結果を招くということです。

信頼関係を何かの手段に利用してみたり悪用しようとする人は、二度と周りからは信用されなくなるでしょう。

 

信頼できるというのは、生き方に共鳴できると言い換えてもいいのかもしれません。ですから、何も知らない人に信頼を抱くことは基本的に出来ないわけです。

相手のことをよく知ることは、人と関わって行くのに欠かせません。お互いに理解し合っているからこそ、信頼関係が生まれてくるからです。

 

いきなり信頼することをめざすのではなく、相手を理解することから始めて行くことが大切かもしれません。

理解しようとする心に、見返りや打算、損得勘定の入る余地はないはずです。

 

自分への信頼を深めていく上でも、自分を知ること、理解することに焦点をしぼって取り組めば、自然と自分のことがより好きになって行くものだと思います。

自分のことは知っているつもりでも案外、自分のことを理解できていないものです。

 

なかなか自信がもてないのも、自分のことがよくわかっていないからかもしれないのです。

たとえば、失敗したときのくやしい思いとか大恥をかいたことなど、過去のさまざまな痛手で、いまもなお傷ついたままの幼いころの自分がいることを知っているでしょうか。

 

何かの拍子に忘れていた過去のことがチラッと浮かんで来たり、理由もわからず突然泣き出してしまった自分にびっくりしたことはありませんか。

思い出せる範囲で一度、過去の自分にさかのぼって、そこで自分をいじめた人たちと向き合い、彼らを許すことを学ぶ必要のある場合があります。

 

自分がそうだったのです。許すことができただけで、ずいぶんと心の重荷が減ったように思います。

 

 

信頼する人に

 

これまで、多くの人と関わってきた中で、この人は信頼できないと思ったことは、それこそ何度もありました。

しかし、この人はほんとに信頼できる人だ、と心から思ったという記憶がないのです。

 

いまだから言えることは、信頼できる人はまわりにたくさんいたはずです。

自分が心を閉ざしたまま信頼しなかったために、人を信頼できたという体験にまで至らなかっただけだということです。

ですから、もっとも必要なことは「信頼する」体験を積むことだといえます。

 

いままで何をするにも、どちらかといえば半信半疑で取り組んできた傾向があったことです。

その結果、人への不信感をつのらせ、人からの助言を疑い、自分の可能性や能力などを過小評価する自信のなさなど、悪循環にはまっていたということです。

 

自分で人間不信をまねくような原因を作っておいて、一方で人は信用できないと思い、自分も信じられず、信じられるものが何もないと落ち込んでいたのです。

まさに自業自得(じごうじとく)といえるのかもしれません。

 

こうした体験から学べることは、自分もふくめてどの人も、根本的には信頼に足る人だということです。

こうして生きているという事実が、その理由です。

もし信頼に足る人でなかったとしたら、その人は生きていられないからです。

 

生かされるものは、自分が信頼に足るものであることを、本能的に感じ取っているはずです。

大きくとらえれば、存在するものすべては、大自然から必要とされ信頼に足るものである、だからこそ現にこうして、ここにあるのだと思います。

 

信頼しないというのは、自然に反する選択だったのです。だから悩んだり苦しんだりするのです。

「信頼する」ことこそが、自然なことなのです。

人生の課題

 

自分がそうであるように、人には人生で学ぶべき課題となっているものは、少なくとも1つはあるような気がします。

それが何であるのかは、なかなかわからないものです。

 

何度も同じような状況におちいって、立ち往生するうちに、ようやく自分の置かれる立場がいつも同じであることに気づくものです。

なぜ、いつもこうであるのか?と。

 

例えば以前に、何の理由も見当たらないのにイライラしていて、ちょっとでも思うように行かないと腹を立て悪態をついている自分に気づくことが度々ありました。

思い返すと、そんなことが過去にも頻繁にあったことを知って唖然としました。

 

いても立ってもいられない心境で「これはいったい、どういうことなのだろうか」「なぜ自分はイライラしているのだろうか」と真剣に考え込んでいました。

しかし結局、その理由がよくわからずに、そのときはそのままやり過ごしてしまいました。

 

その後、その理由らしいことを見つけて納得した記憶があります。その内容を思い出そうとするのですが、それが浮かんで来ないのです。

もともと人間は心に満たされぬものを持って生まれ出た、という意味のことだったように思います。

 

自分にとって、満たされずにイライラの原因となっているものが何であるのか、ようやくわかりかけて来ました。

物心ついてからこれまで、家族も含めて人に心から信頼を寄せるということが自分には皆無であったことです。

 

そのことがわかっただけで、それ以降はずいぶんと救われました。問題がはっきりしただけで、半分以上は片づいたのも同然だからです。

どんな不信にかられるようなことがあっても、多少の動揺はするものの、すぐさま静まっていくのです。

 

また、イラつくことが完全になくなったわけではありませんが、人をさんざん裁いて来た自分には、戻れなくなっていました。

課題がわかったので、あとは焦らずじっくりと、その課題と付き合って行けばいいのだと思いました。

 

 

人生の役目

 

もし人に数多くの人生というものがあるとすれば、その中のひとつに過ぎない、いまの人生をどのようにとらえて行けばいいのでしょうか。

そもそも自分が望んだわけでもないのに、なぜ人間は人生というものが与えられているのでしょうか。

すぐ出てくる答えは、さまざまな体験を通して学んでいくための舞台として人生があるということです。

 

もう二度とおなじ辛い思いをしなくて済むように、自分のおかした間違いや失敗から何か学び取ろうと、努力するのが人間ではないかと思います。

少しでも「ましな生活」をしようと、少しは「まともな人間」になろうとして、なんとか知恵を働かせるものだと思うのです。

 

みずから進んで学ぶというよりは、どちらかといえば、学んで行かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのです。

何も学ぼうとしない、ずっと学ばない選択をする人も中にはいますが、敢えてそのように振る舞っているだけで、そういう人はいずれ大きな代償を払ってでも学ぶことになるのです。

 

この学び続けるという選択は、簡単なことのようで非常に難しいことがわかってきます。

いったい何を学び、どのように学んで、それをどう活かして行ったらいいのかという問題です。

学んだつもりだったのに、結局何も学んでいなかったと気づかされることが何度あったことでしょうか。

 

人生でたったひとつのことでいいから、それに関しては十二分に学べたと胸を張れるほどに、学び尽くしたいものです。

ひとつのことを浅く学んで終わりにするのか、または、ひとつのことからどれだけ深く学びとおすのか、そのことを学ばせるのも人生の役目のような気がします。

 

そして、人にはそれぞれ、その人生で掘り下げていくべきテーマというものがあるようです。

それが何であるのかは重要なことですが、人生を歩んでいくうちに何となくわかってくるもののようです。

 

 

決断のとき

 

人はときとして新たな体験をめざし、住み慣れた地から出ていくように促す、抗しがたい衝動にかられるものです。

そこに考える余地はまったくなくて、ただ「行かなくては」という思いに突き動かされるのです。

 

思えば、ある意味で快適で便利だった東京での生活を捨てて、何の当てもなく見知らぬ土地に家族ぐるみで足を踏み入れたのは、いまから26年前でした。

それは、生まれ育った故郷より単身で東京に出て来てから、10年目にしての更なる転身でした。

 

確かに以前の地にいては有りえなかった、人々との出会いや数々の体験があって、より成長できたこと、それによっていまの自分があること、そう思うと感謝せずにおれません。

二度の節目での決断は、それぞれ間違ってはいなかったのです。

あの当時の自分は、先でどんな結果が待っていようとも、とにかく前進するしかほかになかったというのが正直なところです。

 

山田洋次監督の「家族」を見終わってから、以上のような思いが一気にかけめぐったのです。

この映画では長崎県の伊王島から、はるばる北海道の根室にたどり着きます。

 

人はどんな困難や苦労もいとわず、新天地をもとめて第一歩を踏み出さずにはおれない宿命かもしれません。

これは「あらかじめ入念に計画を練って、あらゆる想定を考え抜き、万全な準備を整えてから」というような、石橋を叩いて渡るものではないのです。

 

その決断するときというのは、どちらかといえば、イチかバチかの勝負にのぞむような心境で、もうあとがない瀬戸際に自分は立つのです。

自分を信じるか否か、有無を言わさず自分を試すときです。

どうも人間には人生の節々で決断し、それを超えて行く必要があるように思います。

 

 

独りではない

 

孤独という言葉がありますが、人間は決して独りぼっちではないと思います。

孤独だったというのはただ、もう一人の自分がいたことに気づけなかっただけなのです。

 

このもう一人の自分とは、ほんとうの自分のことであり魂とか良心などと言ったりする存在のことだと思っています。

自分を客観視できるのも、この存在が関与しているような気がします。

 

もちろん、ふだんは何か言ったり書いたり食べたりする、この自分だけが、自分だと思って過ごしています。

しかしあるとき、自分の内面にしばらく意識を向けていると、片すみでじっと観察するものがいる気配がしました。

それは、ただそこにいるだけ、という感じでした。

 

のちにわかったことは、誰にでも内面の奥深くには、その人を見守るその人自身が必ずいるということです。

それ以来、どんなに親しい間柄であっても、その人のことを過度に心配したり関わったりせずに、当人のことは当人自身にすべて任せるようにしました。

 

自分がそうであるように、どんな人もそれぞれ自分自身への道を歩んでいる途上に、いまいるということを忘れてはならないと思います。

それに自分の意志でしか、自分自身に連れて行くことはできないこと。当人をおいてほかに連れて行けるものは、誰もいないということです。

 

人の歩む姿勢などを参考にすることはあったとしても、自分で自分を励まし、自分自身に励まされながら、手探りで前へ進んでいくしかないと思うのです。

やってみたら?

 

いま自分に、自信の持てることは何だろうかと考えてみます。

ひとつはこうして書き続けていくことに対して、ある程度の自信をもっていることが上げられます。

今日まで書いて来たという実績を念頭において、そう言っているのがわかります。

 

続けてきた成果という点では、ひとまず成功と言えるのかもしれません。

しかし、もっと違う見方ができそうです。

 

さっきの例でいいますと、書き続けたという実績をつむこと、そのことこそ大事であったということです。

経験を少しでも積めば、つぎも出来そうな気がするのも当然で、それがまた出来たとしたら、今度はずっと出来る、と思うようになります。

そうすると、ことさら自信をもつことにこだわらなくてもいいようにも思えます。

 

「出来るかもしれない」とか「出来そうな気がする」とさえ、思えたら十分な気がするのです。

望ましい状態とは、出来るかどうかわからないけれども、やってみたい、という心境になっていることではないでしょうか。

 

「自分をどれだけ信じられたか」という言葉は、次のように置き換えられると思います。

「失敗をおそれず、自分にどれだけ挑戦する機会を与えたか」と。

重要なことは、自分自身に「うまく出来なくてもいいから、やってみる?」と言えるほどに、自分のことを許せるかどうかです。

 

成功するのかしないのか、そんなことは本来の自分自身にとっては、あまり大した問題ではなかったのです。

成功しなくても、やってみることのほうが、はるかに重要だということです。

 

うまく行かなくてもいいし、失敗したって一向に構わない、人生そのものが、自分を訓練する場でもあるのですから、たくさん失敗すればいいのです。

失敗はたくさんチャレンジした証でもあるわけですから。

 

「自信ある?」と人から聞かれたら、迷わず「もちろん」とだけ答えればいいのです。

ドジなことばかりしている自分を、ずっと信じて見守ってくれているもう一人の自分。そんな自分を、自分が信じるのは当たり前ではないか、と言ってやりたい。