信頼する人に

 

これまで、多くの人と関わってきた中で、この人は信頼できないと思ったことは、それこそ何度もありました。

しかし、この人はほんとに信頼できる人だ、と心から思ったという記憶がないのです。

 

いまだから言えることは、信頼できる人はまわりにたくさんいたはずです。

自分が心を閉ざしたまま信頼しなかったために、人を信頼できたという体験にまで至らなかっただけだということです。

ですから、もっとも必要なことは「信頼する」体験を積むことだといえます。

 

いままで何をするにも、どちらかといえば半信半疑で取り組んできた傾向があったことです。

その結果、人への不信感をつのらせ、人からの助言を疑い、自分の可能性や能力などを過小評価する自信のなさなど、悪循環にはまっていたということです。

 

自分で人間不信をまねくような原因を作っておいて、一方で人は信用できないと思い、自分も信じらず、信じられるものが何もないと落ち込んでいたのです。

まさに自業自得(じごうじとく)といえるのかもしれません。

 

こうした体験から学べることは、自分もふくめてどの人も、根本的には信頼に足る人だということです。

こうして生きているという事実が、その理由です。

もし信頼に足る人でなかったとしたら、その人は生きていられないからです。

 

生かされるものは、自分が信頼に足るものであることを、本能的に感じ取っているはずです。

大きくとらえれば、存在するものすべては、大自然から必要とされ信頼に足るものである、だからこそ現にこうして、ここにあるのだと思います。

 

信頼しないというのは、自然に反する選択だったのです。だから悩んだり苦しんだりするのです。

「信頼する」ことこそが、自然なことなのです。

人生の課題

 

自分がそうであるように、人には人生で学ぶべき課題となっているものは、少なくとも1つはあるような気がします。

それが何であるのかは、なかなかわからないものです。

 

何度も同じような状況におちいって、立ち往生するうちに、ようやく自分の置かれる立場がいつも同じであることに気づくものです。

なぜ、いつもこうであるのか?と。

 

例えば以前に、何の理由も見当たらないのにイライラしていて、ちょっとでも思うように行かないと腹を立て悪態をついている自分に気づくことが度々ありました。

思い返すと、そんなことが過去にも頻繁にあったことを知って唖然としました。

 

いても立ってもいられない心境で「これはいったい、どういうことなのだろうか」「なぜ自分はイライラしているのだろうか」と真剣に考え込んでいました。

しかし結局、その理由がよくわからずに、そのときはそのままやり過ごしてしまいました。

 

その後、その理由らしいことを見つけて納得した記憶があります。その内容を思い出そうとするのですが、それが浮かんで来ないのです。

もともと人間は心に満たされぬものを持って生まれ出た、という意味のことだったように思います。

 

自分にとって、満たされずにイライラの原因となっているものが何であるのか、ようやくわかりかけて来ました。

物心ついてからこれまで、家族も含めて人に心から信頼を寄せるということが自分には皆無であったことです。

 

そのことがわかっただけで、それ以降はずいぶんと救われました。問題がはっきりしただけで、半分以上は片づいたも同然だからです。

どんな不信にかられるようなことがあっても、多少の動揺はするものの、すぐさま静まっていくのです。

 

また、イラつくことが完全になくなったわけではありませんが、人をさんざん裁いて来た自分には、戻れなくなっていました。

課題がわかったので、あとは焦らずじっくりと、その課題と付き合って行けばいいのだと思いました。

 

 

人生の役目

 

もし人に数多くの人生というものがあるとすれば、その中のひとつに過ぎない、いまの人生をどのようにとらえて行けばいいのでしょうか。

そもそも自分が望んだわけでもないのに、なぜ人間は人生というものが与えられているのでしょうか。

すぐ出てくる答えは、さまざまな体験を通して学んでいくための舞台として人生があるということです。

 

もう二度とおなじ辛い思いをしなくて済むように、自分のおかした間違いや失敗から何か学び取ろうと、努力するのが人間ではないかと思います。

少しでも「ましな生活」をしようと、少しは「まともな人間」になろうとして、なんとか知恵を働かせるものだと思うのです。

 

みずから進んで学ぶというよりは、どちらかといえば、学んで行かざるを得ない状況に追い込まれてしまうのです。

何も学ぼうとしない、ずっと学ばない選択をする人も中にはいますが、敢えてそのように振る舞っているだけで、そういう人はいずれ大きな代償を払ってでも学ぶことになるのです。

 

この学び続けるという選択は、簡単なことのようで非常に難しいことがわかってきます。

いったい何を学び、どのように学んで、それをどう活かして行ったらいいのかという問題です。

学んだつもりだったのに、結局何も学んでいなかったと気づかされることが何度あったことでしょうか。

 

人生でたったひとつのことでいいから、それに関しては十二分に学べたと胸を張れるほどに、学び尽くしたいものです。

ひとつのことを浅く学んで終わりにするのか、または、ひとつのことからどれだけ深く学びとおすのか、そのことを学ばせるのも人生の役目のような気がします。

 

そして、人にはそれぞれ、その人生で掘り下げていくべきテーマというものがあるようです。

それが何であるのかは重要なことですが、人生を歩んでいくうちに何となくわかってくるもののようです。

 

 

決断のとき

 

人はときとして新たな体験をめざし、住み慣れた地から出ていくように促す、抗しがたい衝動にかられるものです。

そこに考える余地はまったくなくて、ただ「行かなくては」という思いに突き動かされるのです。

 

思えば、ある意味で快適で便利だった東京での生活を捨てて、何の当てもなく見知らぬ土地に家族ぐるみで足を踏み入れたのは、いまから26年前でした。

それは、生まれ育った故郷より単身で東京に出て来てから、10年目にしての更なる転身でした。

 

確かに以前の地にいては有りえなかった、人々との出会いや数々の体験があって、より成長できたこと、それによっていまの自分があること、そう思うと感謝せずにおれません。

二度の節目での決断は、それぞれ間違ってはいなかったのです。

あの当時の自分は、先でどんな結果が待っていようとも、とにかく前進するしかほかになかったというのが正直なところです。

 

山田洋次監督の「家族」を見終わってから、以上のような思いが一気にかけめぐったのです。

この映画では長崎県の伊王島から、はるばる北海道の根室にたどり着きます。

 

人はどんな困難や苦労もいとわず、新天地をもとめて第一歩を踏み出さずにはおれない宿命かもしれません。

これは「あらかじめ入念に計画を練って、あらゆる想定を考え抜き、万全な準備を整えてから」というような、石橋を叩いて渡るものではないのです。

 

その決断するときというのは、どちらかといえば、イチかバチかの勝負にのぞむような心境で、もうあとがない瀬戸際に自分は立つのです。

自分を信じるか否か、有無を言わさず自分を試すときです。

どうも人間には人生の節々で決断し、それを超えて行く必要があるように思います。

 

 

独りではない

 

孤独という言葉がありますが、人間は決して独りぼっちではないと思います。

孤独だったというのはただ、もう一人の自分がいたことに気づけなかっただけなのです。

 

このもう一人の自分とは、ほんとうの自分のことであり魂とか良心などと言ったりする存在のことだと思っています。

自分を客観視できるのも、この存在が関与しているような気がします。

 

もちろん、ふだんは何か言ったり書いたり食べたりする、この自分だけが、自分だと思って過ごしています。

しかしあるとき、自分の内面にしばらく意識を向けていると、片すみでじっと観察するものがいる気配がしました。

それは、ただそこにいるだけ、という感じでした。

 

のちにわかったことは、誰にでも内面の奥深くには、その人を見守るその人自身が必ずいるということです。

それ以来、どんなに親しい間柄であっても、その人のことを過度に心配したり関わったりせずに、当人のことは当人自身にすべて任せるようにしました。

 

自分がそうであるように、どんな人もそれぞれ自分自身への道を歩んでいる途上に、いまいるということを忘れてはならないと思います。

それに自分の意志でしか、自分自身に連れて行くことはできないこと。当人をおいてほかに連れて行けるものは、誰もいないということです。

 

人の歩む姿勢などを参考にすることはあったとしても、自分で自分を励まし、自分自身に励まされながら、手探りで前へ進んでいくしかないと思うのです。