役を演じているだけ

 

人はその人の役割を演じている、とはどういうことかといいますと、自分の人生において他の人々はすべて、ある役を担って登場しているということです。

そう考えると、さぼる役をやっている人に、さぼっている点について、とやかく言ったり、止めさせようとするのはおかしなことです。

 

なぜその人はさぼっているのか、その理由を理解した上で対策を講じればいいのです。

大切なことは自分がどうすればいいのか、自分に出来ることは何かに焦点を当てて、自分の役をこなすことに専念することだと思います。

 

集団で何かをやる時、必ず頑張る人と普通の人とさぼる人が出てきて、それぞれがその役を演じると言われています。

みんなに何かを頼んだ時、やらない人がいるのです。

仮に、そのやらない人を排除したとしても、だれか別の人が代わりにやらなくなるだけです。

 

ですので、やらない人を非難したり、やらせられない自分をせめる必要もなく、やらない人に対して自分はどんなサービスができるか、考えて行けばいいのです。

その場その場で、自分の役割は何なのかを念頭において、その役割を演じ続けていくことが重要ではないでしょうか。

 

 

うちに宿る力

 

自分の中に、ある力というものを感じるときがありました。自分にはその力こそが、自分のすべてであるような気がしました。

自分とは何だろうか、その力のことなのだろうかと思いました。

 

例えば物を見ている自分や考えている自分とは、物でもなく考えでもなくて、この肉体でもないということはわかります。

自分がここにいることは確かなのですが、見えず聞こえず触れることもできないそれは、自由に動かせる肉体を通して存在を示すことはできるのです。

 

車を運転しているとき、ふと気づいたことがあります。自分の車をどうのように運転するかは、自分で自由に出来ます。

しかし前を走っている車は、自分で自由に出来るものではないという、ごく当たり前のことをつい忘れるものです。

 

自分がどんなに急いでいたとしても、それは前の車や周りには全く関係のないことであるのに、道を譲ってくれないことにイライラし、不平不満をぶちまけるのです。

自分で自由にコントロール出来るものと、そうでないものとを識別することさえ、いまだ出来ていないということです。

これは元はといえば、自分の原動力の源である、ある力に気づいていないから、こういうことが起きるのだとわかったのです。

 

分かり合う努力

 

通じ合えないことを承知のうえで、それでも分かり合える努力をすることに、大きな意味があるように思います。

それは骨折り損をすすめているわけではなく、その努力を傾ける過程で、得るものがあまりに多いということです。

 

分かり合うためには、もっと相手に関心をもたなくてはならず、相手に質問して情報を提供してもらったり、自分のことをオープンに伝える努力もしなくてはなりません。

 

仮に、ほとんど成果がなかったとしても、以前と比べればお互いを隔ててる壁は相当に低くなっているはずです。

また自分の寛容さを養う上でも、意に反した行動をする人というのは、自分を成長させる絶好の相手であり、むしろ歓迎すべき存在かもしれません。

 

例えば、あることを人に頼んで、わかってもらえたと思っていても、あとで実際は言ったことが通じていなかった、というケースはよくあることです。

最近そのことを思い知る体験をしました。依頼した仕事を相手はまったくやっていなかったのです。

 

どうしてやってもらえなかったのか、聞きました。相手にも言い分があるのは、その人の顔を見ればわかります。

あらためて依頼する内容を説明したところ、要するに面倒でやりたくないということでした。

 

その仕事が苦手だということがようやくわかって、できるところまででいいからと、やりやすいように歩み寄ってみました。

数日間、様子を見ていたところ、ようやく手がけてもらえるようになり、出来たことを励ます言葉を伝えました。